複眼の籠と単眼の神

「事八日」の裂け目に覗く異界

 

神が不在となる「真空」の八日

「事始め」と「事納め」に潜む、
神々の交代劇

 
窓ガラスに指を当てると、冬の夜の冷たさが、骨まで染み込んでくるようだ。

ガラスの向こうには闇がある。
街灯の届かない闘の、深い闇。
その闇が、こちらを見ている。
そんな錯覚に、ふと襲われることがある。

十二月八日。

 
その日付を、あなたはどう過ごすだろうか。
おそらくは何も変わらない一日として、スマートフォンの画面を眺め、仕事をこなし、夕食を済ませ、眠りにつく。
カレンダーには何の印もない。
年末の慌ただしさがようやく始まりかける頃、その日は静かに、ほとんど誰にも気づかれることなく過ぎ去っていく。


だが、かつてこの列島に暮らした人々は、十二月八日という日付を、一種の畏怖をもって迎えていた。

 
「事八日(ことようか)」。

 
この古風な呼び名を知る者は、今やほとんどいない。
十二月八日と二月八日。
年に二度訪れるこの日は、人間界と異界とを隔てる膜が、もっとも薄くなる日として恐れられていた。


なぜ「事」なのか。
それは、この日が「事始め」であり「事納め」であるからだ。
十二月八日は正月を迎えるための準備が始まる日、あるいは農事が終わる日。
二月八日はその逆で、正月の行事が終わり日常が戻る日、あるいは農事が始まる日。
地域によって解釈は異なるが、いずれにせよ「事」――つまり人間の営みが、切り替わる瞬間である。


「事」という言葉の重みを、私たちは忘れてしまっている。
古語において「事」とは、単なる出来事や行為を指すのではなかった。
「言」と同根であり、言葉を発すること、すなわち世界に働きかけることを意味した。
「事」を始めるとは、世界の秩序に手を触れることであり、「事」を納めるとは、その秩序を一度閉じることを意味した。


ここで注意すべきは、人間界で「事」が動くとき、天上においてもまた、何かが動くということだ。

私たちの暮らしを見守る神々、たとえば年神や氏神は、この日を境に交代する。
新しい神が降り立ち、古い神が去っていく。
あるいは、神々が一斉に出雲へと旅立ち、この土地を空にする。
神無月という言葉が示すように、神々には「不在」になる時間がある。


古来、日本人は世界を「ハレ」と「ケ」に分けて考えてきた。
ハレは非日常、祭りの時間。
ケは日常、労働の時間。
だが、ハレとケの間には、もうひとつの時間がある。
どちらでもない、境界の時間。
それを「ケガレ」と呼んだ。


事八日は、まさにその「ケガレ」の時間なのだ。
ハレでもなく、ケでもない。
神々が入れ替わる、混沌とした中間領域。
そこには、通常の秩序が及ばない。

そして、その不在の隙間に、何かが忍び込む。

結界が消失する日:なぜこの日に家を出てはいけないのか

 
古老たちは言った。
事八日には、家を出てはならない、と。


日が暮れてからは、決して外を歩いてはならない。
どうしても用があるならば、日のあるうちに済ませよ。
夜になったら雨戸を閉め、戸締まりを確かめ、静かに息を潜めていよ。


この禁忌は、日本各地に残っている。
関東では「お事日(おことび)」、東北では「事の日」、九州では「事八日様」。呼び名は異なれど、その夜を恐れる心は同じだった。


なぜか。

神々が不在だからである。

普段、私たちは意識することなく、見えない力に守られている。
家の入り口には結界があり、村の境には道祖神が立ち、悪しきものの侵入を防いでいる。
神棚には氏神が宿り、仏壇には先祖が眠り、目に見えない守りの層が、幾重にも私たちを包んでいる。


だが、守護者たちがその持ち場を離れるとき、結界は綻びる。
見えない膜に穴が空く。
そこから、本来入り込めないはずのものたちが、すうっと滑り込んでくる。


事八日の夜は、いわば神々のバカンス中に起こる、一夜限りの無法地帯なのだ。

 
想像してみてほしい。
あなたが暮らす家を、毎日見回っている警備員がいるとする。
その警備員が、年に二度だけ、夜通し席を外す。
そのことを、家の周囲をうろつく不審者たちは知っている。
彼らはその夜を待っている。
カレンダーに印をつけ、じっと、その日が来るのを待っている。


彼らは何者か。

それを、古人は「厄神(やくじん)」と呼んだ。
災いをもたらす神。
疫病神。
貧乏神。
あるいは、妖怪、物の怪、名もなき怪異たち。
普段は結界の外側で、こちらを窺っている者たち。


彼らは、なぜ入り込もうとするのか。
何が目的なのか。


それは、後ほど明らかになる。

あなたは、その夜を、どう過ごすだろうか。

「おこと汁」の赤い色が象徴するもの

 
事八日には、「おこと汁」を食べる風習がある。
里芋、大根、人参、牛蒡、蒟蒻、小豆。
六種類の具材を入れた味噌汁で、別名を「六質汁(むしつじる)」ともいう。
寒い冬の夜に、熱い汁物を啜る。
それは一見、ただの滋養強壮のように思える。
身体を温め、風邪を防ぎ、厳しい冬を乗り越えるための、生活の知恵。


だが、その汁の色を思い浮かべてほしい。

小豆が溶け出し、人参の朱が滲み、全体が薄い赤色に染まった汁。
それを、家族で囲んで啜る。
湯気の向こうに、互いの顔がぼんやりと見える。

囲炉裏の火に照らされて、頬が赤く染まる。

民俗学者の中には、この赤い汁を「血の代用」と見る者がいる。

かつて、厄災を退けるために、人々は血を用いた。
家畜の血を戸口に塗り、魔除けとした文化は世界各地にある。
旧約聖書の過越祭では、小羊の血を門柱に塗ることで、災いの天使がその家を「過ぎ越して」いった。
中国の春節でも、赤い紙を貼るのは、もとは血を塗った名残だという説がある。
赤い色には、古来より魔を退ける力があると信じられてきた。


 
なぜ赤は魔を退けるのか。

それは、赤が「生命」の色だからだ。
血の色。
心臓の色。
生きているものの、内側の色。魔は死に属するものであり、生の力を持つ赤を恐れる。
あるいは、すでに血が捧げられた印として、二重に奪おうとしない。


おこと汁の赤は、あるいはその記憶の残滓なのかもしれない。
本物の血を使うことが憚られるようになった時代に、小豆の赤で代用した。
形骸化した儀式。
だが、その根底に流れる恐怖は、まだかすかに脈打っている。


六種類の具材にも、意味があるという説がある。
六は「陸」に通じ、大地を表す。
大地に根を張る根菜を食べることで、自分自身もこの世界に根を下ろし、異界に連れ去られないようにする。
浮遊する魂を、地に繋ぎ止める錨のように。


 
私たちは今夜、血の色をした汁を啜る。
大地の根を噛み締める。
それは何から身を守るためなのか。
誰も、もう覚えていない。

だが、身体は覚えている。
冬の夜に温かい汁物を欲するとき、私たちの奥底で、古い記憶が蠢いている。

冬の静寂(しじま)に響く、見知らぬ足音

 
十二月の夜は、しんと静まり返っている。

都会に暮らす者には想像しにくいかもしれないが、かつての日本の冬の夜は、完全な静寂に包まれていた。
電気はない。
街灯もない。
車の音も、テレビの音も、何もない。
聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、自分自身の呼吸だけ。


その静寂には、重さがあった。

現代の「静かさ」とは、質が違う。
冷蔵庫の唸り、換気扇の回転、遠くを走る車の振動。
私たちは、無音だと思っている空間でも、常に何かの音に包まれている。
純粋な静寂を、私たちは知らない。


だが、かつての人々は知っていた。
音が完全に消えた空間を。
その空間で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえることを。


その静寂の中で、雪を踏みしめる音が聞こえる。
きゅっ、きゅっ、きゅっ。

庭先を、誰かが歩いている。
だが、こんな時間に、こんな夜に、訪ねてくる者などいない。
いるはずがない。
隣の家まで半里もある。村の者なら、事八日の夜に出歩くはずがない。

きゅっ、きゅっ。
足音は、少しずつ近づいてくる。

一歩、また一歩。
その間隔は、人間の歩幅と同じだ。
だが、どこか違和感がある。
リズムが、わずかにずれている。
人間なら、歩くときに自然と生まれる揺らぎがある。
だが、この足音には、それがない。
機械的に、正確に、同じ間隔で刻まれている。


あなたは布団の中で息を殺す。
目を閉じる。
聞こえないふりをする。
きっと気のせいだ。風が何かを揺らしているのだ。
野良犬か、狸か、そういうものに違いない。


だが、心のどこかで知っている。
あれは、獣の足音ではない。
二本の足で、まっすぐに、こちらに向かって歩いてくる音だ。


四本足の獣は、雪を踏むとき、もっと軽やかな音を立てる。
あの重さ、あの確実さは、二本の足で全体重を交互にかける者の音だ。


きゅっ……。

そして、足音が止まる。

ちょうど、あなたの寝ている部屋の、雨戸の前で。
沈黙。
風も止んでいる。
何の音もしない。
だが、そこに「いる」ことだけは、わかる。雨戸一枚を隔てた向こう側に、何かが立っている。

息を止める。
動いてはいけない。
気づいていないふりをしなければ。
見つかってはいけない。


だが、向こうは知っている。
あなたがここにいることを。
起きていることを。
息を止めていることを。


すべて、知っている。

帳面(ちょうめん)を携えた監視者:一つ目小僧の正体

愛嬌ある妖怪の、冷徹な「役目」

 
一つ目小僧、という妖怪を知っているだろうか。

その名の通り、顔の真ん中にひとつだけ目を持つ、子どものような姿の怪異。
水木しげるの漫画などで親しまれ、どこか愛嬌のある、可愛らしい妖怪として認識している人も多いかもしれない。
丸い顔、大きな一つ目、小さな口。
怖いというよりは、どこかユーモラスな姿。


現代のポップカルチャーにおいて、妖怪は「キャラクター」になった。
グッズになり、マスコットになり、ゆるキャラになった。
その過程で、本来彼らが持っていた「畏怖」の側面は、きれいに漂白されてしまった。

だが、本来の一つ目小僧は、そのような生易しい存在ではない。

彼は、帳面を持っている。

古い文献を紐解くと、一つ目小僧の図像には、しばしば帳面と筆が描かれている。
彼は、その帳面に何かを書き込んでいる。
あるいは、書き込んだものを読み上げている。


そして、事八日の夜、家々を訪ねて歩く。
戸口に立ち、中を覗き込み、そこに暮らす者たちの一年間の行いを、その帳面に書き留めていく。


怠惰。
嘘。
悪口。
不義理。
不信心。


すべてが、あの単眼に見透かされ、墨で記録される。

一つ目小僧は、驚かし役などではない。
彼は、天から遣わされた密偵なのだ。
人々の罪を調査し、報告するために、この世に降りてくる審判の使者。
私たちが知らないうちに、私たちを見ている者。


西洋でいえば、サンタクロースの「ナイスリスト」と「ノーティリスト」に近いかもしれない。
良い子にはプレゼントを、悪い子には石炭を。
だが、一つ目小僧はプレゼントなど持ってこない。
彼が持っているのは、帳面だけだ。
記録するためだけに来る。
報酬も罰も、その場では与えない。

ただ、記録する。

その冷徹さが、かえって恐ろしい。

事八日の夜、彼は確かにそこにいる。
あなたの家の前に立ち、あなたの一年間を、じっと見つめている。

「閻魔の帳面」に記される、あなたの日常

 
江戸時代に、こんな話が伝わっている。

 
ある村に、気の強い男がいた。
彼は何者も恐れず、神仏も信じず、妖怪の話を鼻で笑うような人物だった。


事八日の夜、男は酒を飲んで上機嫌で外を歩いていた。
禁忌など知らないのか、あるいは知っていてわざと破ったのか。

すると、道の向こうから、小さな影が歩いてきた。
子どもだ、と男は思った。
こんな夜更けに何をしている、と声をかけようとした。
だが、近づいてみると、その子どもには目がひとつしかなかった。

一つ目小僧だ、と気づいた。

普通の者なら、腰を抜かして逃げ出すところだろう。
だが、この男は違った。
彼は恐怖に駆られながらも、あるいは酒の勢いもあって、咄嗟に小僧の持っている帳面を奪い取った。
命がけの行為だった。

小僧は何も言わず、闇の中に消えていった。

翌朝、男は帳面を開いてみた。
震える手で、最初のページをめくる。
そこには、村人たちの名前が列挙され、その横に、彼らの「隠し事」が克明に記されていた。


誰が誰の悪口を言ったか。
誰が約束を破ったか。
誰が嘘をついたか。
誰が、心の中で、他人の不幸を願ったか。
誰が、夜中にこっそりと、してはならないことをしたか。

表向きは善人として暮らしている者たちの、裏の顔が、すべて書かれていた。
村の長が、実は賄賂を受け取っていたこと。
評判の良い商人が、量りをごまかしていたこと。
信心深いと言われる老婆が、嫁を呪っていたこと。

すべてが、あの単眼に見られ、記録されていた。
男は青ざめた。自分の名前を探した。
何ページもめくり、ようやく自分の名を見つけた。
その横には——。

 
この話の続きは伝わっていない。
男がどうなったかも、帳面がどうなったかも。
男は発狂したという説もあれば、帳面を燃やしたという説もある。
あるいは、帳面に書かれた自分の罪の重さに耐えきれず、自ら命を絶ったという陰惨な結末を語る者もいる。


ただ、この話が伝えるメッセージは明白だ。
あなたの隠し事は、すべて見られている。
記録されている。

そして、その記録に基づいて、来年一年間の「不運」の総量が決定される。

なぜ、あの人ばかり良いことがあるのだろう。
なぜ、自分ばかり不運が続くのだろう。
そう思ったことはないだろうか。

それは、帳面に書かれているからだ。
去年の事八日の夜に、一つ目小僧が書き留めた、あなたの一年間の記録。その総決算として、今年の運勢が定められている。


因果応報。
善因善果、悪因悪果。
それは単なる道徳律ではない。
帳面に記され、精算される、現実のシステムなのだ。

あなたは今年、何をしただろうか。

誰にも言えない、小さな嘘。
ばれていないはずの、小さなずるさ。
心の中だけで呟いた、誰かへの悪意。

すべて、記録されている。

なぜ「一つ目」なのか──単眼神の峻烈な視線

 
だが、なぜ「一つ目」なのだろうか。
この問いは、単純なようでいて、深い。

民俗学者・柳田國男は、この問いに生涯をかけて取り組んだ。
彼の論考「一つ目小僧その他」は、日本の妖怪研究における金字塔として知られている。


柳田は、日本各地の伝承を丹念に集め、一つ目の存在が登場する事例を検討した。
その結果、興味深い事実が浮かび上がった。

一つ目の神は、かつて「聖なるもの」だった。

日本各地に、一つ目の神を祀る信仰が残っている。
鍛冶の神、山の神、道祖神。彼らの多くは、片目を失った姿で描かれる。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、製鉄の神として知られ、片目の姿で祀られている。

なぜ、神が片目なのか。

ひとつの説は、職業的な傷である。
鍛冶師は、長年炎を見つめ続けることで、片目の視力を失うことがあった。
彼らの守護神が片目なのは、その職業病の反映だという。


だが、柳田はもうひとつの、より不穏な説を提示した。

神に捧げられたからだ。

古代、人々は神に供物を捧げた。
穀物、獣、そして時には人間を。
だが、人間そのものを捧げることが憚られるようになったとき、代わりに身体の一部を捧げるようになった。
片目を。
片足を。

一つ目の神とは、かつて生贄として片目を奪われた者たちの記憶なのかもしれない。

彼らは、共同体のために犠牲になった。
片目を神に捧げ、その代わりに共同体に恵みをもたらした。
だが、その犠牲は、やがて忘れられた。
生贄だった者は、いつしか神そのものと同一視されるようになった。
あるいは、妖怪として恐れられるようになった。


一つ目小僧が帳面を持ち、人々の罪を記録するのは、かつて自分が犠牲になった恨みを晴らすためなのかもしれない。
あるいは、自分と同じように犠牲を払わずに生きている者たちへの、静かな告発なのかもしれない。

その視線を想像してみてほしい。
残された一つの目で、じっとこちらを見つめる視線。
そこには、失われたものへの怨念が、あるいは聖化された痛みが、凝縮されている。


二つの目で見る者は、世界を立体的に、相対的に捉える。
左目と右目で、わずかに異なる像を結び、その差異から奥行きを知覚する。
世界には遠近があり、相対的な位置関係がある。

だが、一つの目で見る者は、世界を平面的に、絶対的に捉える。
すべてが等距離に、等価に見える。遠くも近くも、大きいも小さいも、同じ平面上に並ぶ。


逃げ場がない。
言い訳が通用しない。
あなたという存在が、一点の曇りもなく、見透かされる。


一つ目小僧の視線が恐ろしいのは、そこに遠近法がないからだ。
どこまで逃げても、同じ距離で見つめられている。
あなたの罪は、どれほど小さくても、同じ大きさで記録される。


「そんなつもりじゃなかった」という言い訳は、通用しない。
「みんなやっている」という弁明も、意味をなさない。
一つ目には、あなたの行為だけが見えている。
他者との比較も、状況の考慮も、そこにはない。

絶対的な視線。それが、単眼の峻烈さなのだ。

箕(み)を背負った「大入道」というもう一人の客

 
一つ目小僧だけではない。

事八日の夜には、もう一人の客が訪れる。
「箕借り婆(みかりばば)」
「箕借り爺」
「大入道」。
地域によって呼び名は異なるが、いずれも巨大な姿をした怪異である。
彼らは箕——穀物をふるうための農具——を背負い、あるいは背負って歩ける者を探して、家々を回る。


なぜ箕なのか。
箕は、穀物と殻を分けるための道具だ。
必要なものと不要なものを、選り分ける。
それは、一つ目小僧の「審判」と通じるところがある。


だが、大入道の恐ろしさは、その大きさにある。

「見越し入道、見越した」という言葉がある。
大入道は、背後から覗き込む者として知られている。
ふと気配を感じて振り返ると、そこに巨大な顔がある。
驚いて目を逸らし、もう一度見ると、さらに大きくなっている。
見上げれば見上げるほど、どこまでも大きくなっていく。
首が痛くなるほど見上げても、その頂上は見えない。


どこまでも、どこまでも、見上げ続けなければならない。

この妖怪に対抗するには、「見越し入道、見越した」と唱えればよいとされる。
その言葉を聞くと、大入道は消えるという。
「見越した」——つまり、「お前の正体を見破った」と宣言することで、その力を封じることができる。


だが、言葉が出てこなければどうなるか。
恐怖で声が出なければ。


大入道は、どこまでも大きくなり続け、やがてあなたを押し潰す。
一つ目小僧が正面からの視線だとすれば、大入道は背後からの視線である。
一つ目小僧が「見つめる」者だとすれば、大入道は「見下ろす」者だ。
どちらも、逃れることができない。


前から見られ、後ろからも見られる。

事八日の夜は、逃げ場のない監視の夜なのだ。
あなたは、どこにいても、誰かに見られている。
記録されている。
審判を待っている。


正面を向けば、単眼が光る。
振り返れば、巨大な影が覆いかぶさる。

その夜、あなたはどこを向いて眠ればよいのだろうか。

視線の戦争:籠(かご)を吊るすという防衛術

「多眼」をもって「単眼」を制す呪術

 
では、私たちの祖先は、その恐怖にどう対処したのか。
逃げ場がない夜を、どう生き延びたのか。
答えは、籠だった。

事八日の夜、軒先に竹籠を吊るす。
それが、彼らの見出した防衛術だった。


なぜ籠なのか。

竹籠を見てほしい。
編み目が無数にある。
六つ目編み、四つ目編み、網代編み、ござ目編み。
どの編み方であれ、籠の表面には、無数の「目」がある。


その「目」の数を、数えられるだろうか。
試しに、一つの籠の編み目を数えてみてほしい。
十、二十、三十……すぐに眩暈がしてくる。
数え切れない。
終わりがない。
視線が、無数の穴に吸い込まれていく。


 
ここに、伝承がある。

ある事八日の夜、一つ目小僧が村にやってきた。
いつものように、家々を回り、住人の罪を帳面に記録しようとした。
だが、ある家の軒先に吊るされた籠を見た途端、小僧は立ち止まった。

籠の編み目が、小僧を見つめ返していた。

一つ、二つ、三つ……小僧は編み目を数え始めた。
四つ、五つ、六つ……数えても数えても、終わらない。
百を超え、二百を超え、まだまだ続く。
小僧の一つ目が、ぐるぐると回り始めた。
眩暈がする。気が遠くなる。

ついに小僧は、数えることを諦め、退散していった。

 
この話は、一見するとユーモラスだ。
妖怪が算数に負ける、という滑稽な構図。
だが、その背後には、深い呪術的な論理がある。

一つ目小僧は、一つしか目を持っていない。
彼が籠を見たとき、何が起こるか。

無数の目が、彼を見返す。
彼の単眼を、何百という偽眼が、じっと見つめる。
見る者が、見られる者になる。
審判者が、審判される者になる。

監視する者が、監視される。

一つ目小僧は、その視線の逆転に耐えられない。
彼は「見る」ことに特化した存在であり、「見られる」ことには慣れていない。
無数の目に見つめられることで、彼の存在基盤が揺らぐ。


多眼をもって単眼を制す。
これが、籠を吊るす呪術の本質である。


現代の言葉で言えば、これは「情報戦」であり「心理戦」だ。
敵の監視に対して、こちらも監視で応じる。
相手が一つの目で見てくるなら、こちらは百の目で見返す。
圧倒的な情報量で、相手を混乱させる。

私たちの祖先は、その戦術を、竹を編むという日常の技術から生み出した。

柊(ひいらぎ)の棘と、鰯(いわし)の悪臭

 
視線だけでは、まだ足りない。

籠と一緒に、柊の枝を飾る。
鰯の頭を刺す。
唐辛子を吊るす地域もある。
大蒜を置く家もある。
焼いた髪の毛を燻す地方さえあった。

なぜこれほど多くの防御を重ねるのか。

柊は、その棘で魔を刺す。
ぎざぎざの葉は、触れるものを傷つける。
魔が入り込もうとすれば、その身体は棘に裂かれる。
物理的な障壁として、柊は機能する。


鰯は、その悪臭で魔を退ける。
焼いた鰯の頭から立ち上る煙は、独特の強い臭いを放つ。
その臭いが、魔の嗅覚を攻撃する。
あまりの臭さに、近づくことができない。


唐辛子は、その辛味で魔を追い払う。
目に入れば激痛が走り、口に入れば舌が焼ける。
辛味成分のカプサイシンは、生物にとって「危険」のシグナルだ。
魔もまた、その危険を本能的に避ける。


視覚、触覚、嗅覚、味覚。
あらゆる感覚を総動員して、徹底的に「拒絶」のメッセージを発する。


ここに、私たちの祖先の必死さが見える。

彼らは、本気で恐れていた。
本気で信じていた。
事八日の夜に何かが来ることを、何もしなければ災いが訪れることを。
だからこそ、ありとあらゆる手段を講じた。
ひとつでは不安だから、二つ、三つと重ねた。
それでも不安だから、さらに追加した。


その切実さは、現代の私たちには想像しにくいかもしれない。
私たちは、科学という盾を持っている。
「そんなものはいない」と言い切れる自信がある。
だが、その自信は、本当に根拠のあるものだろうか。

迷信だと笑うことはできない。
その恐怖は、彼らにとってはリアルなものだった。


そして、もしかすると、今の私たちにとっても。

なぜ籠は「逆さ」でなければならなかったか

 
籠を吊るす際の作法がある。
それは、「逆さに吊るす」ということ。


日常において、籠は上向きに使う。
中に物を入れ、運び、保管する。
開口部が上を向き、底が下を向く。
それが籠の「正しい」姿である。


だが、事八日には、それを逆さにする。
底が上を向き、開口部が下を向く。
中に何かを入れることはできない。
物を運ぶこともできない。
道具としての機能を、完全に失っている。


なぜか。

逆転の論理、というものがある。

異界の住人は、この世界の論理に従わない。
彼らにとっての「上」は、私たちの「下」かもしれない。
「右」は「左」かもしれない。
「生」は「死」かもしれない。
彼らの世界は、私たちの世界の鏡像であり、すべてが反転している。


だから、異界の住人に対抗するには、こちらも論理を逆転させる必要がある。
日常の道具を、異形の姿に変える。
正しい使い方を、あえて崩す。
それによって、こちらも「異界の住人」と同じ位相に立ち、対等に渡り合うことができる。


これは、「境界」に立つということでもある。

普通に置かれた籠は、日常の世界に属している。
だが、逆さにされた籠は、日常から切り離される。
それはもはや籠ではなく、何か別のもの。
日常と非日常の境界に存在する、曖昧な物体。

その曖昧さが、異界の住人を惑わせる。

彼らは、日常の世界に侵入しようとしている。
だが、境界に立つ存在は、どちらの世界にも属していない。
攻撃対象として捉えにくい。手出しができない。


逆さに吊るされた籠は、もはや籠ではない。
無数の目を持ち、闇の中に浮かぶ、奇妙な生き物。
日常から切り離された、境界上の存在。

それは、一つ目小僧と同じ世界に属する者として、彼と対峙する。

同じ言葉を話す者同士でなければ、交渉はできない。
同じ位相に立つ者同士でなければ、戦いにならない。
籠を逆さにすることは、異界の文法を学ぶことなのだ。

「目」に執着する日本の恐怖

 
考えてみれば、日本人は「目」に異様な執着を持っている。
「目は口ほどに物を言う」
「目が合う」
「目をつけられる」
「目障り」
「目の敵」
「目を盗む」
「目を光らせる」
言葉の中に、目にまつわる表現が溢れている。


「人目」を気にする。
「世間の目」を恐れる。
「お天道様が見ている」と戒める。
「恥ずかしくて目を合わせられない」
「白い目で見られる」

私たちは、常に見られることを意識している。
見られることで規律を守り、見られることで恥を知り、見られることで社会の一員として振る舞う。
逆に言えば、見られていなければ何をするかわからない、という不安が、常にどこかにある。


 
「旅の恥はかき捨て」という言葉がある。
旅先では、知り合いの目がない。
だから、普段はできないことも、してしまう。
それは裏を返せば、普段は「目」によって行動を制御されている、ということだ。


西洋の文化が「罪」の文化であるのに対し、日本の文化は「恥」の文化だと言われることがある。
罪は、神との関係において生じる。
誰も見ていなくても、神が見ている。
だから、罪は罪だ。
一方、恥は、他者との関係において生じる。
誰かに見られているから、恥ずかしい。
見られていなければ、恥ではない。


 
一つ目小僧の恐怖は、その「恥」の文化の、極限的な表現なのかもしれない。

 
誰も見ていないと思っていた。
隠し通せると思っていた。
だが、見ていた者がいる。
すべてを記録していた者がいる。

あの単眼は、社会の目そのものなのだ。
逃れられない、どこまでも追いかけてくる、審判の視線。


私たちは、その視線から逃れることができない。
籠を吊るすことで、一時的にその視線を逸らすことはできる。
だが、籠を外せば、また見られる。
見られ続ける。
死ぬまで。


いや、死んでからも、かもしれない。
閻魔大王の前で、帳面が読み上げられる。
生きている間に記録されたすべてが、死後の審判で暴かれる。

目からは、逃れられない。

監視社会と「事八日」:見えない目に晒されて

消えた籠、増え続ける「レンズの目」

 
現代の日本で、事八日に籠を吊るす家庭が、どれほどあるだろうか。
おそらく、ほとんどない。
その風習は、迷信として捨て去られ、記憶の彼方に消えていった。
十二月八日は、ただの平日として過ぎていく。
神々の交代も、厄神の来訪も、誰も気にしない。


明治以降、日本は急速に近代化した。
科学が導入され、迷信が否定され、古い風習は「遅れたもの」として排除されていった。
事八日の禁忌も、その流れの中で忘れ去られた。


だが、私たちは本当に、「見られること」から解放されたのだろうか。
街を歩いてみてほしい。

コンビニの入り口に、小さなカメラがある。
黒い半球形の、無機質な目。
その目は、二十四時間、休むことなく、店内を見つめている。


駐車場の隅にも、カメラがある。
交差点の上にも。
マンションのエントランスにも。
駅の改札にも。
電車の車内にも。

数えたことがあるだろうか。
一日に、あなたは何回、カメラに撮影されているか。


ある調査によれば、都市部に暮らす人間は、一日に平均して三百回以上、監視カメラに捉えられているという。
三百の目が、あなたを見ている。
あなたの姿を、記録している。

いつ、どこで、何をしていたか。
すべてが残っている。

データは消えない。

一つ目小僧の帳面は、紙だった。
燃やせば消える。
奪い取ることもできた。
だが、現代の「帳面」は、サーバーの中にある。
世界中に分散し、バックアップされ、消すことができない。

スマートフォンを見てみてほしい。

あなたが何を検索したか、何を買ったか、誰と連絡を取ったか、どこへ行ったか。
すべてがデータとして蓄積されている。
アルゴリズムは、あなたの行動パターンを学習し、次に何をするかを予測する。
あなたが自分で気づく前に、あなたの欲望を知っている。


「あなたへのおすすめ」という言葉の背後には、あなたに関する膨大なデータがある。
それを分析し、あなたの嗜好を把握し、あなたが買いそうなものを、あなたが見そうなものを、提示してくる。

便利だ、と思うかもしれない。
自分に合った情報が届くのは、ありがたいことだ。

だが、考えてみてほしい。
それは、あなたが常に見られている、ということでもある。


一つ目小僧の帳面は、今やクラウド上にある。
私たちは、軒先から籠を外し、代わりに無数の「レンズの目」に囲まれて暮らしている。
厄神は去ったのではない。
その姿を変え、形を変え、より効率的に、より網羅的に、私たちを監視し続けている。

「事八日」の禁忌を忘れた都会の夜

 
かつて、事八日の夜は静寂だった。
人々は家に籠もり、息を潜め、夜が明けるのを待った。
外出は控え、大きな音を立てず、目立たないように過ごした。


今はどうか。

十二月八日の夜も、都会は煌々と明るい。
ネオンが輝き、電車が走り、人々が行き交う。
コンビニは二十四時間営業し、居酒屋からは笑い声が漏れ、若者たちはクラブで踊っている。


神も魔も、区別がつかなくなった。

いや、正確に言えば、そもそも神や魔がいることを、誰も信じていない。
迷信。
非科学的。
オカルト。
そんな言葉で片付けて、私たちは無防備に夜を過ごしている。


結界は、とうの昔に消えた。
神社の鳥居をくぐっても、何も感じない。
お守りを買っても、本当に守られているとは思わない。
形式だけが残り、中身は空洞化した。


だが、本当にそうだろうか。

混雑した駅のホームで、ふと視線を感じたことはないだろうか。
振り返っても、誰もいない。
いや、人は大勢いるが、誰もこちらを見ていない。
それなのに、確かに、視線を感じた。
うなじがざわつく感覚。背筋を這い上がる冷たさ。


深夜のオフィスで、残業をしていたとき。
誰もいないはずのフロアで、何かの気配を感じたことはないだろうか。
空調の音か、ビルの軋みか。
そう言い聞かせて、仕事に戻る。
だが、心のどこかで、後ろを振り返れないでいる。
振り返ったら、何かがいるような気がして。


終電の車内で、うとうとしていたとき。
ふと目を開けると、窓ガラスに自分の顔が映っている。
だが、その顔が、一瞬、自分の顔ではないように見える。
誰か別の者が、こちらを見ている。


一つ目小僧は、二十四時間営業の街にも、紛れ込んでいるのかもしれない。

監視カメラの映像の中に、カウントされない影として。
深夜のコンビニの店員が、ふと感じる違和感として。
終電車の窓に映る、見知らぬ顔として。
タクシーの後部座席から見える、バックミラーの中の影として。


彼は、姿を変えることができる。
時代に合わせて、その姿を変える。
かつては着物を着た子どもの姿だった。
今は、スーツを着たサラリーマンの姿かもしれない。
制服を着た学生の姿かもしれない。
あるいは、姿を持たず、データの中にいるのかもしれない。


あなたの検索履歴を見ている者。
あなたのメールを読んでいる者。
あなたの位置情報を追跡している者。


それが誰なのか、私たちは知らない。

自分自身の内側にある「監視者の目」

 
現代人を最も苦しめているのは、外部の視線ではないかもしれない。

私たちは、自分自身の中に、監視者を住まわせている。

「他人にどう思われるか」。
その問いが、頭を離れない。
SNSに投稿する前に、何度も推敲する。
この写真で大丈夫か。
このコメントは誤解されないか。
炎上しないか。
フォロワーが減ったのは、あの投稿のせいか。

いいねの数。
フォロワーの数。
リツイートの数。
閲覧数。
コメント数。

数字が、私たちを審判する。
閻魔の帳面が可視化され、リアルタイムで更新され、誰もがそれを見ることができる。


あなたの価値は、帳面に記されている。
そして、その帳面は、あなた自身にも見えている。


他人の「いいね」の数と、自分の「いいね」の数を比べる。
あの人は百、自分は十。
その差が、そのまま価値の差であるかのように感じられる。


かつて、一つ目小僧は年に二度しか来なかった。
事八日の夜だけ、審判の目が光った。
それ以外の日は、神々が守ってくれた。
安息があった。帳面に書かれるのは、一年に一度だけだった。


今は、毎日が事八日なのだ。
毎秒が、記録されている。


休まることがない。
常に見られている。
常に記録されている。
常に審判されている。
投稿するたびに、数字が更新される。
その数字が、自分の価値を示している。


いや、投稿しなくても、見られている。
カメラに。
アルゴリズムに。
そして、自分自身の内なる目に。


「こんなことをしたら、どう思われるだろう」。
その声が、常に頭の中にある。
行動する前に、自分で自分を検閲する。
不適切なことは、しない。
不適切なことは、言わない。
不適切なことは、考えない。


だが、「不適切」の基準は、誰が決めるのか。

他人の目。
社会の目。
そして、自分の中に内面化された、監視者の目。

私たちの魂は、疲弊している。

休息がない。逃げ場がない。
どこにいても、見られている。
自分の部屋にいても、スマートフォンの中に、監視者がいる。
目を閉じても、内なる声が、自分を審判し続ける。


事八日の禁忌は、「静かにしていなさい」というものだった。
家に籠もり、目立たないようにし、息を潜めていなさい。

それは、ある意味で、休息の教えだったのかもしれない。

年に二度、すべての活動を止めて、ただ静かにしている日。
審判の目に怯えながらも、何もしないでいい日。
その恐怖の中に、逆説的な安らぎがあった。


今の私たちには、その安らぎすらない。

今夜、窓の外に籠を吊るしてみる

 
ここまで読んで、あなたは何を思うだろうか。
古い迷信の話だ。
現代には関係ない。
そう思うかもしれない。

だが、私はあえて提案したい。

今夜、窓の外に籠を吊るしてみてはどうだろうか。
竹籠でなくてもいい。
百円ショップで売っているプラスチックの籠でもいい。
ワイヤーで編んだ小物入れでもいい。
洗濯ネットでもいい。
要は、無数の「目」があればいい。

それを、逆さにして、窓の外に吊るす。

非科学的だと、あなたは言うだろう。
効果があるはずがないと。
妖怪などいない。
監視カメラは籠では防げない。
アルゴリズムは、竹の編み目を恐れない。

そうかもしれない。
おそらく、何も起こらない。
明日の朝、籠はただ寒風に揺れているだけだろう。


だが、その行為自体に、意味があると私は思う。

 
私たちは、あまりにも多くのものを捨ててきた。
合理化の名のもとに、効率化の名のもとに、非科学的なもの、目に見えないもの、測定できないもの、すべてを切り捨ててきた。


その結果、私たちは「未知なるもの」との接点を失った。
世界は、すべて説明可能で、予測可能で、コントロール可能だという幻想の中で暮らしている。
わからないことは、いずれわかるようになる。
説明できないことは、いずれ説明できるようになる。
そう信じている。


だが、本当にそうだろうか。

私たちは、自分が思っているほど、世界を理解していない。
科学が明らかにしたのは、宇宙のほんの一部に過ぎない。
意識とは何か、生命とは何か、時間とは何か。
根本的な問いに、まだ答えは出ていない。

わからないことが、たくさんある。
見えないものが、たくさんある。


籠を吊るす行為は、その「わからなさ」を認めることだ。
「私は、すべてを知っているわけではない」と認めること。
「私の知らない何かが、この世界にはあるかもしれない」と認めること。


それは、謙虚さだ。
そして、それは、ひとつの「礼儀」でもある。
見えないものへの、わからないものへの、それでも確かに存在するかもしれないものへの、敬意。


私はここにいます。
あなたがいることを、知っています。
だから、この籠を吊るします。

来ないでください、という拒絶ではない。
あなたの存在を、認めます、という宣言だ。

その宣言が、何かを変えるかもしれない。
少なくとも、自分自身の中の何かを。


私たちは、あまりにも傲慢に生きてきた。
すべてを支配し、すべてを理解し、すべてをコントロールできると思ってきた。
だが、世界は私たちの思い通りにはならない。
理解を超えたものが、確かにある。

籠を吊るすことは、その理解を超えたものとの、対話の始まりなのかもしれない。



そして、この文章を読んでいる、あなた。
今、あなたの背後に、窓はあるだろうか。
その窓の外には、何が見えるだろうか。
街灯の光。
向かいのマンションの明かり。
あるいは、闇。
冬の夜の、深い闇。


その闇の中に、籠は吊るされているだろうか。
吊るされていないのなら。
今夜、十二月八日、事八日の夜。
誰が、あなたを、見ているのだろうか。
あなたは今日、何をしただろうか。
誰に、何を言っただろうか。
心の中で、何を思っただろうか。

それはすべて、記録されている。
帳面に。
クラウドに。
あなた自身の記憶に。


そして、窓の外に立つ誰かの、一つの目に。
振り返る勇気が、あなたにはあるだろうか。
いや、振り返らない方がいいのかもしれない。
振り返ったとき、そこに何が見えるか。
窓ガラスに映った、あなた自身の顔。
その顔に、目はいくつあるだろうか。

尖ったものを封じ、静寂に身を委ねる

 
事八日に行われる「針供養」について、最後に触れておきたい。

この日、女性たちは一年間使い続けて折れた針を集め、豆腐や蒟蒻に刺して休ませる。
硬いものを縫い続けて疲れた針を、柔らかいものに包んで、労い、供養する。


針は、鋭いものだ。
尖ったもの。
突き刺すもの。
一年間、布を貫き、糸を通し、働き続けてきた。
その鋭さを、この日だけは封じる。


「尖ったもの」を封印する日。

攻撃性を、鋭さを、この日だけは封じ込める。
魔が入り込む隙間を、自ら作らないために。
あるいは、魔を刺激しないために。


尖った言葉。
尖った態度。
尖った感情。
私たちは日常の中で、無数の「針」を使っている。
誰かを傷つける言葉。
自分を守るための攻撃。
知らず知らずのうちに、私たちは針を振り回している。


事八日は、その針を休ませる日だ。

同じ理由で、この日は庭を掃いてはならないとされた。
掃き出した塵に、せっかくの「幸い」が混じって捨てられるから。
あるいは、掃く音が「魔」を刺激してしまうから。
箒の動きが、何かを呼び寄せてしまうから。


静かにしていなさい。
目立たないようにしていなさい。
尖ったものを隠し、塵も立てず、ただ息を潜めて夜を過ごしなさい。


それが、事八日の教えだった。

私たちは、あまりにも騒がしく生きている。
あまりにも尖り、あまりにも目立ち、あまりにも塵を立てている。SNSで自己主張し、他人を批判し、常に何かを発信し続けている。
静寂を恐れ、沈黙を恐れ、自分の存在が忘れられることを恐れている。


だが、その騒がしさは、何かを呼び寄せているのかもしれない。

たまには、籠を吊るし、針を休ませ、箒を置いて、静かに夜を過ごしてみてもいいのかもしれない。

スマートフォンの電源を切る。
SNSを閉じる。
誰にも連絡せず、何も発信せず、ただ静かに、自分の呼吸だけを聞いている。


それは、現代における「物忌み」なのかもしれない。

見えない目が、私たちを見守っている。
それが審判の目なのか、守護の目なのかは、わからない。
記録するために見ているのか、守るために見ているのか。
その区別は、私たちにはつかない。


だが、少なくとも、その存在を認め、敬意を払うこと。

それが、「未知なるもの」と共に生きる者の、最低限の作法なのだと、私は思う。



深夜。

この文章を書き終えた今、私の背後にも窓がある。

カーテンを閉めているが、その向こうに、十二月の夜がある。
冷たい空気が、窓ガラスを凍らせている。

籠は、吊るしていない。

正直に言えば、吊るす勇気がない。
吊るすということは、「そこに何かがいる」と認めることだ。
その覚悟が、まだ私にはない。


だが、この文章を書いている間、何度か、背後に気配を感じた。
振り返っても、何もいない。
当たり前だ。
だが、確かに、何かの視線を感じた。

それは、私の想像力が生み出した幻影だろう。
事八日について書いていたから、自己暗示にかかったのだろう。
合理的に考えれば、そうとしか説明できない。


だが、合理的な説明が、すべてではない。

私たちの祖先は、説明できないものを、説明できないまま受け入れる知恵を持っていた。
わからないものを、わからないまま敬う作法を持っていた。


私たちは、その知恵を失ってしまった。

すべてを説明しようとし、すべてを理解しようとし、すべてをコントロールしようとする。
その傲慢さが、私たちを追い詰めているのかもしれない。


事八日の夜、一つ目小僧は帳面を持ってやってくる。
そこには、私たちの一年間が記されている。


その帳面に、何と書かれているだろうか。

私は、善く生きただろうか。
誰かを傷つけなかっただろうか。
嘘をつかなかっただろうか。
心の中で、誰かを呪わなかっただろうか。


その問いを、年に一度、自分に向けること。
それが、事八日の本当の意味なのかもしれない。

妖怪が来るから恐ろしいのではない。
妖怪が来ることで、自分自身と向き合わなければならないから、恐ろしいのだ。


帳面に書かれているのは、私自身の姿だ。
一つ目小僧の単眼に映っているのは、私自身の一年間だ。
その視線から、逃れることはできない。
だからこそ、籠を吊るす。
無数の目で、見返す。
「お前が私を見ているように、私もお前を見ている」と。
それは、対決であり、対話であり、和解でもある。
見る者と見られる者。その関係を、一方的なものから、相互的なものへと変えること。
籠の編み目は、その架け橋なのだ。



さて、あなたは今夜、どうするだろうか。
この文章を読み終えた後、何をするだろうか。
スマートフォンを置いて、窓の外を見るだろうか。
それとも、見ないまま、眠りにつくだろうか。

どちらでもいい。
ただ、覚えておいてほしい。
今夜、十二月八日。あるいは、二月八日。
事八日の夜に、何かが来る。
それが何であれ、それはあなたを見ている。
あなたの一年間を、知っている。
そして、その存在を認めるかどうかは、あなた次第だ。
籠を吊るすか、吊るさないか。
窓の外を見るか、見ないか。
振り返るか、振り返らないか。
すべては、あなたが決めることだ。
ただ、ひとつだけ。
もし今夜、窓の外に何かの気配を感じたら。
怖がらなくてもいい。
それは、あなたが「見えない世界」と、まだ繋がっている証拠だから。
私たちの祖先が見ていたものを、あなたもまた、見ることができる証拠だから。
その繋がりを、大切にしてほしい。
合理性だけでは、生きていけない。
説明できないものを、説明できないまま抱えて生きる。
その余白が、人間には必要なのだと思う。

事八日の夜が、その余白を思い出させてくれる。
だから、怖がらなくていい。
ただ、敬意を払えばいい。
「あなたがいることを、知っています」と。
それだけで、十分なのだ。



窓の外で、風が鳴っている。
十二月の、冷たい風。
その風に乗って、誰かが来る。
帳面を持って。
一つの目を光らせて。
今夜も、どこかの家の前に、立っている。
あなたの家かもしれない。
私の家かもしれない。
事八日の夜は、まだ終わっていない