剥ぎ取る慈悲

ナマハゲと年神様、その「暴力的な浄化」の系譜

 

包丁を振るう「神」の来訪

なぜ神は「恐ろしい顔」で現れるのか

 
大晦日の夜。

秋田の男鹿半島では、吹雪が集落を呑み込もうとするその時刻に、「それ」は来る。

戸板を揺らす風の音。
その向こうから聞こえてくる、人間のものとは思えない咆哮。
ドン、ドン、と地を踏み鳴らす足音が近づいてくる。

「ウオオオオ——泣ぐ子はいねがァ!」

扉が蹴り破られる。

藁を纏った巨躯が、雪と冷気を引き連れて土間に踏み込んでくる。
赤黒い鬼面。
血走った眼。
そして、その手には——出刃包丁。


これが、「神」である。

私たちは「神」という言葉に、どこか柔和で、慈悲深く、人間を無条件に受け入れてくれる存在を期待しがちだ。
神社の境内で手を合わせれば願いを聞いてくれる、都合のいい存在。
恵比寿の丸い頬、大黒天のふくよかな笑み。
そうした「福の神」のイメージが、現代人の神観念を支配している。


だが、それは神の「半面」に過ぎない。

古来、日本人は知っていた。
神には二つの顔がある。
穏やかに恵みをもたらす「和魂(にぎみたま)」と、荒々しく破壊をもたらす「荒魂(あらみたま)」。
この二つは別々の存在ではない。
同じ神の、異なる顕現である。

春に種を芽吹かせる太陽は、夏には作物を焼き枯らす。
恵みの雨は、時として洪水となって村を押し流す。生命を育む自然は、同時に生命を奪う自然でもある。
その圧倒的な力の前で、人間は「神」という言葉を生み出した。


だからこそ、神は恐ろしい顔で現れる。

ナマハゲとは何か。
民俗学的には「来訪神」と分類される。
年に一度、異界から人間の世界を訪れ、祝福と試練をもたらす存在。
しかし、そのような学術的な定義は、この存在の本質を言い当てていない。


ナマハゲは、年神様の「荒魂」である。

新年を司る年神様。門松を立て、鏡餅を供え、私たちが静かに迎え入れるその神は、本来、このような姿をしていた。
包丁を振りかざし、咆哮を上げ、人間の怠惰を糾弾する——その峻厳な姿こそが、年神の「本性」なのだ。


なぜ神は恐ろしい顔で現れなければならないのか。

答えは単純だ。

人間は、恐怖なしには変われないからである。

私たちの魂は、放っておけば澱む。
一年という時間の中で、言い訳が堆積し、妥協が層をなし、「まあいいか」という怠惰が心の隅々にこびりつく。
その澱みを、穏やかな言葉で洗い流せるだろうか。
「頑張りましょうね」という励ましで、魂の垢を落とせるだろうか。


否。

人間の惰性は、そんなに甘くない。

だから神は、包丁を持って現れる。
恐ろしい形相で踏み込んでくる。
「ウオオオ」という咆哮で、私たちの平穏を破壊する。
その暴力的な介入によってしか、私たちは自分自身を更新することができない。


現代人は、このことを忘れている。
いや、忘れたふりをしている。


「怖いのは嫌だ」「傷つきたくない」「優しくしてほしい」——そうした願望が、神から牙を抜いてきた。
子供が泣くから、ナマハゲを「優しく」する。
住民が減ったから、行事を「簡略化」する。
時代に合わないから、「恐怖」を取り除く。


その結果、私たちは何を失ったのか。

魂を更新する機会である。

年に一度、恐怖によって自分を問い直す——その苛烈な恵みを、私たちは自ら手放してしまった。
そして今、澱みきった魂を抱えたまま、どこへ向かえばいいのかわからずに立ち尽くしている。


吹雪の夜、扉を蹴り開けて現れる「恐ろしい神」。
その存在が、どれほど切実に必要とされていたか。
私たちは今一度、思い出さなければならない。

「ナマミ」を剥ぐ──言葉に隠された肉体的な恐怖

 
「ナマハゲ」という名の由来を、あなたは知っているだろうか。

諸説あるが、最も有力とされているのは「ナマミ剥ぎ」説である。
「ナマミ」とは「なもみ」「あまみ」とも呼ばれ、囲炉裏の火に長時間あたることでできる低温火傷の痕——いわゆる「火だこ」のことを指す。


冬の農村。
雪に閉ざされた家の中で、囲炉裏端に座り込んで動かない者がいる。
外は猛吹雪、出られない。
やることもない。
だから、ただ火に当たって、ぼんやりと時間をやり過ごす。


その者の脛(すね)には、やがて赤黒い斑紋が浮かび上がる。
熱による毛細血管の拡張。それが「ナマミ」——火だこである。


つまり「ナマミ」は、怠惰の刻印なのだ。

働くべき時に働かず、囲炉裏に張り付いて動かない。
その肉体的な証拠が、皮膚に焼き付けられる。
隠しようのない怠けの痕跡。
村人たちは、その斑紋を見れば一目でわかった。
「こいつは怠け者だ」と。


ナマハゲは、その「ナマミ」を剥ぎに来る。

出刃包丁を持って。

ここに、ナマハゲという存在の本質がある。
彼らは単に「怖がらせる」ために来るのではない。
怠惰という「病巣」を、物理的に——あるいは象徴的に——切除しに来るのである。


古い記録には、実際にナマハゲが子供や若者の脛を包丁で「こそぐ」仕草をしたという記述が残っている。
刃を当て、ナマミを削ぎ落とすような動作。
それは紛れもなく、「外科手術」のメタファーだった。


怠惰は病である。
そして病巣は、切り取らねばならない。


この思想は、現代の耳には残酷に響くかもしれない。
「怠けることの何が悪い」
「休むことは大切だ」
「自分を追い詰めるな」——そうした声が聞こえてくる。


もちろん、休息は必要だ。
心身を回復させる時間は、誰にとっても不可欠である。


しかし、ナマハゲが糾弾する「怠惰」とは、そういうものではない。

それは、魂の停滞である。

成長を諦めること。
変化を拒むこと。
「このままでいい」と自分を騙し続けること。
快適な場所に留まり、痛みを伴う挑戦から逃げ続けること。

そのような「怠惰」は、確かに病である。
そしてその病巣が心に巣食うと、やがて人間は内側から腐っていく。


五十年、六十年と生きてきた人間であれば、心当たりがあるはずだ。
若い頃に抱いていた志。
「いつかやろう」と思っていた挑戦。
「そのうち変わろう」と誓った悪癖。それらを、私たちはいくつ実現できただろうか。
いくつを「まあいいか」と諦め、囲炉裏端に座り込んでしまっただろうか。


その怠惰の蓄積が、今の私たちの「ナマミ」である。

心には見えないが、確かに存在する。
言い訳と妥協の火だこ。
それを剥ぎ取りに来る存在——それがナマハゲなのだ。

だから彼らは、包丁を持っている。

ぬるま湯に浸かりきった私たちの心を、切開するために。

年神様は「沈黙のナマハゲ」である

 
正月。
私たちは門松を立て、しめ縄を張り、鏡餅を供える。
年神様をお迎えするための準備。
それは、ナマハゲの来訪とは対照的に、静謐で厳かな営みに見える。


だが、本当にそうだろうか。

年神様とは何か。
民俗学では、年の初めに各家庭を訪れ、一年の幸福と豊穣をもたらす神とされている。
祖霊と習合しているという説もあり、その姿は地域によって様々に語られる。


しかし、一つだけ確かなことがある。

年神様もまた、「マレビト」である。

「マレビト」——折口信夫が提唱した概念。
「稀(まれ)に来る人」、すなわち、日常の世界の外から訪れる異界の存在。
来訪神。
時を定めて人間界に現れ、祝福をもたらし、そして帰っていく。


ナマハゲがマレビトであることは、誰の目にも明らかだ。
彼らは山から、あるいは海から、人里離れた「異界」からやってくる。
鬼のような面をつけ、藁の衣を纏い、明らかに人間ではない姿で現れる。


では、年神様はどうか。

門松は、年神様が依り代とする目印である。
しめ縄は、神域と俗界を分ける結界。鏡餅は、神霊が宿る依り代——すべてが、「異界から来る存在」を迎えるための装置なのだ。


つまり、年神様もまた、人間世界の「外」から来る。

その本質において、年神様とナマハゲは同じである。
表現が違うだけだ。

ナマハゲは、轟音とともに扉を蹴り開けて現れる。
年神様は、元旦の朝の静寂の中に、いつの間にか訪れている。
前者は激しく、後者は穏やかに。

しかしどちらも、「日常の外部」から来て、人間の世界に介入する。

ここで重要なのは、年神様が「沈黙のナマハゲ」だということだ。
ナマハゲは叫ぶ。
「泣ぐ子はいねがァ!怠け者はいねがァ!」と、人間の怠惰を声高に糾弾する。
それは外から来る「問い」である。


年神様は黙っている。
しかし、その沈黙の中に、同じ問いが含まれている。

「お前は、この一年をどう生きたのか」
「お前は、怠けていなかったか」
「お前は、新しい年を迎えるにふさわしい人間か」
門松の前で手を合わせるとき、私たちは無意識にその問いと向き合っている。
一年の計は元旦にあり——その言葉の背後には、「問われる」という感覚があったはずだ。


ナマハゲの問いは、逃げられない。
彼らは目の前に立ち、包丁を振りかざし、答えを強要する。


年神様の問いは、逃げようと思えば逃げられる。
手を合わせなければいい。
初詣に行かなければいい。
正月を「ただの連休」として過ごせばいい。


現代人の多くは、そうしている。
年神様という「沈黙のナマハゲ」の問いから、私たちは逃げ続けてきた。
そして、ナマハゲという「咆哮する年神様」からも、距離を置こうとしている。


問いを突きつけられることが、怖いからだ。
自分の怠惰を直視することが、耐えられないからだ。
だが、問われずに生きる人生とは何か。
誰にも糾弾されず、自分自身を問い直す機会もなく、ただ惰性で日々を消費していく。
それは生きていると言えるのか。


年神様が静かに訪れる元旦の朝。

その沈黙の中に、かつての日本人は「恐ろしさ」を感じていた。
問われることの厳粛さ。
試されることの緊張感。
それこそが、新年の持つ本来の意味だった。


「明けましておめでとう」という挨拶は、単なる祝辞ではない。
それは、「問いをくぐり抜け、新しい年を迎えることができた」という安堵と感謝の言葉なのである。

祝福の前に、まず「絶望」がある

 
通過儀礼(イニシエーション)という概念がある。

人類学者アルノルト・ファン・ヘネップが提唱し、ヴィクター・ターナーが発展させたこの概念は、人間が一つの段階から次の段階へ移行する際に経る儀礼的プロセスを指す。
子供から大人へ、独身から既婚へ、生者から死者へ——人生の節目には、必ずこの通過儀礼がある。


そして、すべての通過儀礼には、三つの段階がある。

分離・移行・統合。

まず、「分離」。
それまでの状態から引き離される。
子供は親元から離され、成人として認められるための試練の場へ連れていかれる。


次に、「移行」。
この段階は「リミナリティ(境界状態)」とも呼ばれる。
もはや以前の自分ではないが、まだ新しい自分にもなっていない。
曖昧で不安定な、「死と再生の間」にある状態。


そして「統合」。
試練を乗り越え、新しい自分として共同体に迎え入れられる。


重要なのは、この「移行」の段階である。

通過儀礼において、移行期の人間は「象徴的な死」を経験する。
それまでの自分は一度「死に」、新しい自分として「再生」する。
この死と再生のプロセスなしには、真の変容はありえない。


多くの伝統社会では、この「象徴的な死」が文字通り死を連想させる形で演出される。
暗闘の中に閉じ込められる。
痛みを伴う試練を課される。
「お前は死んだ」と宣告される。
恐怖と絶望が、再生の前提条件なのだ。

ナマハゲの来訪を、この通過儀礼の文脈で理解してみよう。

大晦日。一年の終わり。
これは、「古い年の自分」が死ぬ夜である。
そして元旦の朝、「新しい年の自分」として再生する。年越しとは、まさに通過儀礼——年を越えて新しい自分になるための儀式——なのだ。


その通過儀礼において、ナマハゲは「死」をもたらす存在として現れる。
彼らが家に踏み込んでくる瞬間、日常は破壊される。
平穏は引き裂かれ、恐怖が家を満たす。
子供は泣き叫び、大人たちは緊張で身を強張らせる。


この恐怖こそが、「象徴的な死」である。

「古い自分」——怠惰で、言い訳ばかりで、停滞した自分——は、ナマハゲの咆哮によって殺される。
包丁の刃先に、その「古い自分」の死を見る。


だからこそ、ナマハゲが去った後に、あの「清浄な空気」が生まれるのだ。

恐怖の後の安堵。
緊張の後の弛緩。
そこには単なる「ほっとした」という感覚以上のものがある。
それは、死を経験した後に訪れる「再生の予感」である。


現代人は、この「絶望」を避けようとする。

「怖い思いをしたくない」
「傷つきたくない」
「ネガティブな体験は避けたい」——そうした心性が、私たちの生から「死と再生」のダイナミズムを奪っている。


一年が終わり、新しい年が来る。
しかし、何も変わらない。
「古い自分」は死なないまま、だらだらと持続する。
三が日が過ぎ、仕事が始まり、また同じような一年が繰り返される。


それは、「再生なき生」である。

ナマハゲという「死の使者」を追い払った結果、私たちは「生まれ変わる」機会をも失った。
恐怖を避けた代償として、祝福をも受け取れなくなった。


真の祝福は、絶望の後にしか来ない。

この峻厳な真理を、かつての日本人は知っていた。
だから彼らは、恐ろしい神を迎え入れた。
包丁を振りかざす来訪者を、家の中に招いた。

そして、その恐怖をくぐり抜けた後にだけ訪れる「正月」——「正しい月」の清らかさを、全身で味わったのである。

聖なる刃:魂の「外科手術」としての暴力

「出刃包丁」が切り裂くのは何か

 
ナマハゲの手に握られた出刃包丁。

その刃は、何を切り裂くために存在するのか。

言うまでもなく、肉体ではない。
ナマハゲは人を傷つけに来るのではない。
彼らが切り裂こうとしているのは、もっと別のもの——魂にこびりついた「垢」である。


一年という時間を生きるとは、汚れるということだ。

私たちは日々、小さな嘘をつく。
「あとでやる」「仕方なかった」「自分だけじゃない」。
そうした言い訳が、薄い膜となって魂を覆っていく。


私たちは日々、小さな妥協を重ねる。
「これくらいでいい」「どうせ無理だ」「面倒だから」。
そうした諦めが、澱となって心の底に沈殿していく。


私たちは日々、小さな欺瞞を生きる。
本当の自分から目を逸らし、演じたい自分を演じ、見たくない現実には蓋をする。
その虚飾が、一枚また一枚と魂に貼り付いていく。


一年が終わる頃、私たちの魂は分厚い垢に覆われている。

それは生きている限り避けられないことだ。
清廉潔白に生きようとしても、完全に汚れを避けることはできない。
人間とは、そういう存在である。


だからこそ、「垢を落とす」機会が必要になる。

ナマハゲの出刃包丁は、その「魂の垢」を削ぎ落とすための道具である。
想像してほしい。

刃が魂に当てられる。
「お前はこの一年、怠けていなかったか」という問いとともに、包丁が引かれる。
言い訳の層が、ベリベリと剥がれていく。
「お前は嘘をついていなかったか」
妥協の澱が、ゴリゴリとこそぎ落とされる。
「お前は自分を欺いていなかったか」
虚飾の膜が、ビリビリと引き裂かれる。


痛い。

当然だ。
魂に刃を入れているのだから。
一年分の垢を削ぎ落としているのだから。

しかし、その痛みの後に何が残るか。
むき出しの、新しい魂である。

垢に覆われていない、生まれたての魂。
それは傷だらけかもしれない。
血が滲んでいるかもしれない。
しかし、少なくともそれは「本当の自分」だ。
嘘や言い訳や妥協で塗り固められた、偽物の自分ではない。

ナマハゲの出刃包丁とは、「外科医のメス」なのである。

病巣を切除するために、健康な組織にも刃を入れなければならないことがある。
痛みを伴わない手術はない。
しかし、その痛みを避けて病巣を放置すれば、やがて全身に転移して命を奪う。


魂の垢も同じだ。

削ぎ落とすのは痛い。
直視するのは辛い。
しかし、その痛みを避け続ければ、垢は年々厚くなり、やがて私たちは自分自身が誰なのかさえわからなくなる。
本当の自分が、垢の下に埋もれて窒息する。


五十年、六十年と生きてきた人間の多くは、この「窒息」を経験しているのではないか。

自分が何をしたいのかわからない。
何のために生きているのかわからない。
どこに向かっているのかわからない。


それは、魂の垢が厚くなりすぎた結果である。
本当の自分が、層をなす言い訳と妥協の下に埋もれてしまった結果である。

ナマハゲの出刃包丁は、その垢を一気に削ぎ落とす。
痛い。
怖い。
耐えられない。

しかし、その後に現れるのは——何十年ぶりかに呼吸できるようになった、本当の自分なのだ。

咆哮(ほうこう)という名の祓(はら)い

 
「ウオオオオオ——!」
「泣ぐ子はいねがァ——!」
「怠け者はいねがァ——!」

ナマハゲの咆哮。
それは人間のものとは思えない、獣のような叫び声だ。

その声を聞いたとき、人間の身体には何が起こるか。
心臓が跳ね上がる。
筋肉が強張る。
瞳孔が開く。
呼吸が浅くなる。
全身が「戦うか逃げるか」の臨戦態勢に入る——いわゆる「闘争・逃走反応」である。


これは、人間が持つ最も原始的な恐怖反応だ。

サバンナで猛獣に出くわしたとき、暗闘で何かの気配を感じたとき、私たちの祖先はこの反応によって生き延びてきた。
脳の扁桃体が危険を感知し、副腎からアドレナリンが放出され、身体全体が「生存モード」に切り替わる。


ナマハゲの咆哮は、この原始的な恐怖反応を意図的に引き起こす。

なぜか。

それが「祓い」だからだ。

「祓い」とは、穢(けが)れを清めることである。
神道の儀式で神職が大麻(おおぬさ)を振り、祝詞を唱えるとき、それは参列者についた穢れを祓っている。

しかし、祓いの本質は「振動」にある。

穢れとは、一種の「停滞」である。
流れるべきものが流れなくなり、動くべきものが動かなくなり、エネルギーが淀んで腐敗していく。
その停滞を打ち破るには、強烈な「振動」が必要だ。


大麻が空気を震わせる。
祝詞の声が空間を震わせる。
その振動によって、停滞した穢れが揺り動かされ、散らされ、清められる。

ナマハゲの咆哮は、人間の魂を直接震わせる「祓い」である。
「ウオオオオ」という叫び声が、鼓膜を震わせ、骨を震わせ、内臓を震わせる。
そしてその振動は、魂にまで達する。


一年分の停滞——淀んだ怠惰、固まった言い訳、凝り固まった妥協——が、その振動によって揺り動かされる。
長い間動かなかったものが、ガタガタと音を立てて崩れ始める。


「泣ぐ子はいねがァ!」

この問いかけは、単なる脅しではない。
それは言霊(ことだま)——言葉に宿る霊力——による呪術的作用である。

「泣く子」とは、恐怖に直面して泣き叫ぶ者のことだ。
つまり、自分の弱さや欺瞞を暴かれて、それに耐えられない者。

「泣ぐ子はいねがァ」と問われたとき、私たちは自問せざるを得ない。
「自分は泣く子だろうか。
自分の中に、暴かれると泣き叫びたくなるような弱さや嘘がないだろうか」と。

たいていの場合、ある。
そしてナマハゲの咆哮は、それを暴き立てる。
私たちが隠している嘘、見ないふりをしている弱さ、認めたくない怠惰——それらが、咆哮という「光」に照らされて、白日のもとに晒される。


だから子供は泣く。
大人も、心の中で泣いている。
しかし、その「暴かれる」経験こそが、祓いなのだ。
隠していたものを暴かれるのは苦痛である。
しかし、隠し続けることはもっと危険だ。
暗闇の中で、それは腐敗し、肥大し、やがて私たちを内側から蝕んでいく。


ナマハゲの咆哮は、その闇に光を当てる。
「ここにあるぞ」と暴き立てる。
そしてその瞬間、私たちは選択を迫られる——それを認めて手放すか、それとも抱え続けるか。


 
咆哮が止み、ナマハゲが去った後、家には静寂が訪れる。
その静寂の中で、私たちは呆然と立ち尽くす。
暴かれた。
見られた。
知られた。


しかし同時に、不思議な軽さを感じる。
隠していた重荷を下ろしたような。
長い間抱えていた秘密を告白したような。
その軽さこそが、祓いの効果——魂が清められた証なのである。

神と人間の「共犯関係」:なぜ主人は神を迎え入れるのか

 
ナマハゲの来訪において、最も不思議なのは「主人」の態度である。
恐ろしい異形の神々が扉を蹴り破って侵入してくる。
家族は恐怖に震え、子供は泣き叫ぶ。
普通であれば、追い払おうとするだろう。
戸締まりを固め、侵入を拒むだろう。


しかし、主人はそうしない。
彼はナマハゲを迎え入れる
それどころか、餅や酒でもてなし、丁重に応対する。
「今年も来てくださってありがとうございます」と感謝の言葉さえ述べる。
家族を恐怖に陥れているまさにその存在を、客人として歓待するのだ。


なぜか。

ここに、ナマハゲ行事の最も深い意味がある。
主人は、神と「共犯関係」を結んでいるのだ。
彼は知っている。
ナマハゲが来なければ、家は清められない。
一年分の穢れが祓われず、新しい年を正しく迎えることができない。
だから、恐ろしくても、痛みを伴っても、神を迎え入れなければならない。

これは「自分で自分を変えられない」という人間の限界を認める行為である。

私たちは、自分の力だけでは自分を更新できない。
怠惰を自覚していても断ち切れない。
言い訳を繰り返していると知りながらやめられない。
変わろうと決意しても、三日で元に戻る。

人間とは、そういう弱い存在だ。
だからこそ、「外部の力」が必要になる。

ナマハゲという「外部の力」——自分では絶対に行使できない、強制的な浄化の力——を家に招き入れることで、主人は自分と家族の変容を可能にする。
自分にはできないことを、神に委ねる。
その「委ねる」行為が、ナマハゲを迎え入れるということなのだ。

これは、外科手術に同意するようなものである。

患者は、自分で自分の腹を開くことはできない。
しかし、腫瘍を取り除かなければ死んでしまう。
だから、外科医という「外部の力」に身体を委ねる。
痛いとわかっていても、怖いと感じていても、メスを受け入れる。

主人がナマハゲを迎え入れるのも、同じ構造だ。

自分では切り取れない魂の垢を、神という「外科医」に削いでもらう。
そのために、家という「手術室」に神を招き入れる。


さらに興味深いのは、主人とナマハゲの「問答」である。
ナマハゲは問う。
「この家に怠け者はいないか」
「悪い子はいないか」と。
主人は答える。
「うちの子は良い子です」
「家族は皆、真面目に働いています」と。


これは単なるやり取りではない。契約の更新である。
「私の家族は、正しく生きています」と主人が宣言することで、その言葉は一種の誓約となる。
来年また同じ問いを受けたとき、胸を張って答えられるように生きなければならない——その自覚を、主人は新たにする。

そしてナマハゲは、その誓約を聞き届けた証として、祝福を残して去っていく。

神と人間の、年に一度の「契約更新」。
それがナマハゲ行事の本質なのである。


主人は、ただ恐怖に耐えているのではない。
彼は積極的に、能動的に、この儀式に参加している。
神の暴力を容認し、酒食でもてなし、問答に応じ、誓約を交わす。

それは家長としての責任の表れだ。

家庭という小宇宙を守り、浄め、更新するために、自ら神と対峙する。
その覚悟が、主人にはある。
だから彼は、逃げずに、扉を開けるのだ。

現代の家庭に、このような「主人」はいるだろうか。

家族の魂を浄めるために、恐怖や痛みを引き受ける覚悟を持った存在が、どれだけいるだろうか。

剥ぎ取られた皮膚の下に現れる「新しい命」

 
ナマハゲが去った後の家。
そこには、混沌が残されている。
床には藁くずが散らばり、入り口には雪が吹き込んでいる。
子供はまだ泣きべそをかき、大人たちは緊張の余韻で疲れ切っている。
家中に、松の葉や土の匂いが漂っている。

一見、それは「破壊の跡」である。

平穏な日常が踏み荒らされ、秩序が乱され、混乱が残された。
外部の暴力的な介入によって、家庭という小宇宙は一時的に解体された。

しかし、その混沌の中に、不思議な「清浄さ」が宿っている。

息を深く吸ってみると、空気が違う。
重苦しかった何かが消えている。
澱んでいた何かが流れ去っている。
家全体が、ひとつ息を吐いたような、軽やかさがある。

それは、「手術後の清潔」に似ている。

切り開かれ、切除され、縫合された身体。
手術直後は痛みと腫れに苦しむ。
しかし、病巣が取り除かれた身体には、確実に「治癒」の兆しがある。
傷は癒え、細胞は再生し、やがて手術前よりも健康な状態になる。

ナマハゲが去った後の家もまた、傷を負いながら「治癒」に向かっている。

一年分の穢れが祓われ、停滞が打ち破られ、澱みが散らされた。
その後に残るのは、新しい命を迎え入れる準備が整った空間である。

日本の正月飾りには、「松」が欠かせない。
門松には松が使われ、しめ縄にも松の枝が添えられる。


松は常緑樹——冬でも枯れない「永遠の生命」の象徴だ。
同時に、「待つ」と音が通じることから、年神様を「待つ」という意味も込められている。

ナマハゲが去った後の家に散らばる松の葉。
それは単なる「汚れ」ではない。
神が確かにここを訪れ、浄化の業を行ったというであり、同時に「新しい生命の種」でもある。


破壊と創造。
死と再生。
混沌と秩序。


これらは対立するものではない。
混沌がなければ新しい秩序は生まれず、死がなければ再生はない。
破壊こそが、創造の前提条件なのだ。

ナマハゲによって「破壊された」家は、まさに創造の直前にある。
混沌の中から、新しい秩序が立ち上がろうとしている。
死んだ「古い家」の上に、「新しい家」が生まれようとしている。


この感覚を味わったことのある人は、今ほとんどいないだろう。
年末の大掃除をしても、それは「整理整頓」に過ぎない。
物を捨て、埃を払い、空間を整える——しかしそれは、魂のレベルには達しない。

ナマハゲという「暴力的な浄化」は、家そのものを——そして住む人の魂を——根底から揺さぶる。
その経験なしに、「新しい年」は本当の意味で始まらない。


だから、かつての人々は、ナマハゲが去った後の混沌とした家で、深い安堵と共に「正月」を迎えた。
剥ぎ取られた皮膚の下に、瑞々しい新しい皮膚が現れるように。
彼らの魂もまた、垢を削がれ、新しい息吹を得たのである。

「怠け」の定義:停滞への死刑宣告

かつての農村において「怠け」は「死」だった

 
現代人にとって、「怠け」は美徳になりつつある。

「無理しない」「自分を大切に」「休むことも仕事のうち」——そうした言葉が氾濫し、怠けることへの罪悪感はどんどん薄れている。
働きすぎの反動として、それは一定の正当性を持っている。

しかし、かつての農村社会において、「怠け」は死刑宣告に等しかった

想像してみてほしい。
近代以前の農村。
機械も電気もない時代。
すべてが人力と畜力に頼っていた。
田植えの時期には田に出なければならない。
稲刈りの時期には刈り入れなければならない。
雪の季節には雪かきをし、藁仕事をし、春に備えなければならない。


これらの仕事は、「やりたいときにやる」類のものではない。
自然の周期に合わせて、決まった時期に、決まった量の労働を提供しなければならない。
それができなければ、収穫は減り、冬を越せず、飢えて死ぬ。
一人の怠け者がいれば、共同体全体が危険に晒される。

田植えは共同作業だ。
一人が怠ければ、その分を他の者が補わなければならない。
水路の維持も、茅葺き屋根の葺き替えも、共同体のメンバー全員が役割を果たして初めて成り立つ。


怠ける者は、共同体の足を引っ張る。
そして、限界まで切り詰められた農村社会には、余裕がない。
怠け者を養う余力がない。
だから、怠ける者は排除される


実際に、多くの村落共同体には「村八分」という制度があった。
共同体の掟に従わない者——怠け者もその一人——を、冠婚葬祭以外のすべての付き合いから排除する。
それは事実上の死刑宣告だった。
村から切り離されれば、生きていけないのだから。


 
ナマハゲが「怠け者はいねがァ」と問うとき、それは生ぬるい説教ではない。
「お前は共同体を危険に晒す存在か」という、生死に関わる問いなのだ。

怠け者である自覚のある者は、震え上がっただろう。
自分の足についた「ナマミ」——怠惰の証拠——を見られる恐怖。
「こいつは怠け者だ」と神に宣告される恐怖。
そして、共同体から排除される恐怖。

ナマハゲは、その恐怖を可視化する。

神という絶対的な存在が、「怠けを許さない」と宣言する。
その宣言によって、共同体の秩序は強化され、怠けへの抑止力が働く。

これは現代の目から見れば「同調圧力」であり「抑圧」に見えるかもしれない。
実際、そういう側面はある。


しかし同時に、それは「生き延びるための知恵」でもあった。
全員が一定以上働かなければ、全員が死ぬ。
その厳しい現実の中で、共同体は「怠けを許さない」という規範を作り、それを神の権威によって強化した。
ナマハゲはその規範の「執行者」だったのである。

現代人は、この「怠けの代償」から自由になった。
少なくとも、そう思っている。
怠けても餓死しない。
働かなくても、とりあえず生きていける。
だから、怠けることへの恐怖が消えた。

しかし、本当にそうだろうか。

 
肉体的には飢えなくなった。
しかし、魂はどうか。

怠け続けた魂は、別の形で「死んで」いくのではないか。
生きる意欲を失い、目的を失い、何のために存在しているのかわからなくなる。
肉体は生きているが、魂は死んでいる——そんな状態が、現代人の「怠け」の帰結ではないのか。


ナマハゲの問い「怠け者はいねがァ」は、今でも有効である。
ただしその意味は、「共同体の秩序を乱す者」から、「自分自身の魂を殺す者」へと変化している。

現代における「ナマミ」の正体

 
囲炉裏端に座り込んで動かない者の脛にできる火だこ——「ナマミ」。
それがかつての「怠惰の刻印」だった。

では、現代人の「ナマミ」は何か。
私たちの足に、現代の「火だこ」はできているか。
できている。見えないだけだ。

 
スマートフォン。

 
私たちは一日何時間、この小さな画面を見つめているだろうか。
電車の中で、食事中に、寝る前に、起きた直後に。
絶え間なくスクロールし、通知を確認し、何かを消費し続けている。


それは「囲炉裏に当たっている」のと構造的に同じだ。
動かず、受動的に、刺激を受け取り続ける。
自分から何かを生み出すのではなく、他者が作ったものを消費するだけ。
その繰り返しが、魂に「火だこ」を作る。


目に見える斑紋はできない。
しかし、魂の奥深くに、停滞の痕跡は刻まれている。


 
無気力。

 
「やる気が出ない」
「何もしたくない」
「面倒くさい」——この言葉を、一日に何度口にするだろうか。
あるいは、口に出さずとも心の中で唱えるだろうか。


無気力は、現代の「囲炉裏端」である。
何もしない場所。
動きを止める場所。
そこに座り込んでいると、確実に「ナマミ」ができる。
魂が固まり、動かなくなり、やがて腐っていく。


 
目的のない消費。

 
買い物。
動画視聴。
SNSの閲覧。
ゲーム。
食べること。
それ自体は悪いことではない。
しかし、それが「目的」を持たない消費——ただ時間を潰すための、ただ刺激を得るための消費——になったとき、それは「ナマミ」を生む。


何かを創り出すわけでもない。
誰かの役に立つわけでもない。
自分が成長するわけでもない。
ただ、消費して、消費して、消費し続ける。

囲炉裏の火に当たり続けるのと同じだ。
温かくて心地よいが、何も生み出さない。
そして足に火だこができる。


 
現代人の「ナマミ」——スマートフォン、無気力、目的のない消費——は、かつての火だこよりもタチが悪い。
なぜなら、見えないからだ。

足についた火だこは、誰が見てもわかる。
「こいつは怠け者だ」と一目瞭然だ。
しかし、現代の「ナマミ」は外からは見えない。
本人にさえ見えていないことがある。


だから、削ぎ落とすことができない。

存在を認識できないものを、どうやって取り除けるだろうか。
「私は怠けていない」と思い込んでいる者の怠惰を、どうやって指摘できるだろうか。

ナマハゲが来れば、彼らは見抜くだろう。
目に見えない「ナマミ」を。
魂の奥に隠された怠惰の斑紋を。


「ウオオオオ!怠け者はいねがァ!」
その咆哮は、私たちの自己欺瞞を打ち砕く。
「自分は怠けていない」という思い込みを、木っ端微塵に粉砕する。

しかし今、その咆哮は聞こえてこない。

 
私たちは、見えない「ナマミ」を抱えたまま、誰にも指摘されることなく、静かに腐り続けている。

選別される魂:神は誰を許し、誰を連れ去るのか

 
ナマハゲの来訪には、もう一つの恐ろしい側面がある。
「神隠し」——連れ去られる恐怖である。
言い伝えによれば、ナマハゲの問いに正しく答えられない者、神に認められない者は、異界へ連れ去られるという。
肉体ごと消える者もあれば、魂だけを奪われる者もある。


これは単なる脅しだろうか。
子供を怖がらせるための作り話だろうか。

そうではない。
ここには、深い真実が隠されている。
神の祝福は、無差別ではない。
私たちは、神や仏が「すべての人を等しく愛する」と思い込んでいる。
誰であろうと、何をしていようと、神は受け入れてくれる。
そう信じたがっている。

しかし、それは現代人の願望にすぎない。
古来の神々は、選別する

ふさわしい者には祝福を、ふさわしくない者には災いを。
正しく生きた者には恵みを、怠けた者には罰を。
神は公平だが、平等ではない。

ナマハゲが問う。
「泣ぐ子はいねがァ、怠け者はいねがァ」と。

これは試験である。
神による魂の審査である。

この問いに答えられる者——「はい、私は正しく生きました」と胸を張って言える者——には、新年の祝福が与えられる。
答えられない者——やましいところがあり、目を逸らし、言い訳を並べる者——は、「ふさわしくない」と判定される。
そして、ふさわしくない者は、連れ去られる。

 
「神隠し」とは、比喩的に言えば「新年を迎える資格を失う」ということだ。
古い自分が死ぬだけで、新しい自分として再生できない。
通過儀礼を失敗し、「移行」の段階で永遠に留まる。
それは、生きながらにして「異界」に囚われた状態——つまり、魂の死である。


現代人の多くは、この「魂の死」を生きている。

毎年、年が明ける。
しかし、何も変わらない。
「新年」という言葉は暦の上の区切りに過ぎず、魂は更新されない。
古い怠惰、古い言い訳、古い澱みを抱えたまま、ただ時間だけが過ぎていく。

それは、すでに「神隠し」に遭っている状態ではないか。
ナマハゲに連れ去られたわけではない。
しかし、ナマハゲの問いを受けることもなく、「試験」を受けることもなく、だから「合格」も「不合格」もなく——ただ、新年の祝福を受け取り損ねている。


 
神隠しの最も恐ろしい形態は、気づかないうちに異界に迷い込んでいることかもしれない。

ある日突然消えるのではない。
少しずつ、徐々に、日常の中で薄れていく。
「ここ」にいながら「ここ」にいない。
生きながらにして死んでいる。

ナマハゲの咆哮は、その状態への警告だ。
「ウオオオオ」という声を聞いたとき、魂は「ここ」に引き戻される。「自分は異界に迷い込みかけているのではないか」と気づかされる。
しかし今、その警告は聞こえない。

私たちは静かに、穏やかに、気づかないうちに——「神隠し」に遭い続けている。

「問い」を突きつける神、沈黙する現代人

 
ナマハゲの本質を一言で表すなら、「問いを突きつける存在」である。

「泣ぐ子はいねがァ」
「怠け者はいねがァ」
「嫁姑、仲良ぐしてるがァ」
「親の言うこと聞がねえ子はいねがァ」
これらはすべて、問いだ。
答えを要求する問いかけ。
逃げることを許さない詰問。
「お前はどうなのだ」と、一人一人に向けられた審問。


 
人間は、問われることを恐れる。
なぜなら、問いは嘘を暴くからだ。
問われなければ、私たちは自分を欺き続けることができる。
「自分は怠けていない」
「自分は正しく生きている」
「自分には問題ない」——そう思い込んでいられる。


しかし、問われた瞬間、その欺瞞は崩れる。
「お前は怠けていないか」と直接問われて、嘘をつき通せる者はいない。
心のどこかで、やましい部分がうずく。
「いや、実は……」という声が内側から聞こえてくる。


ナマハゲは、そのやましさを白日のもとに引きずり出す。

問いから逃げることは許されない。
神は目の前に立ち、答えを待っている。
沈黙は認められない。
「わからない」は通用しない。

「お前は正しく生きているか」
この根源的な問いに、私たちは答えなければならない。
それは恐ろしい経験だ。
自分の一年を振り返り、自分の生き方を問い直し、正直に評価しなければならない。
言い訳は通用しない。
他人のせいにはできない。
ただ、「自分はどうだったか」だけが問われる。


しかしその恐ろしさこそが、救いなのだ。

問いに正直に答えることで、私たちは初めて「自分が何者か」を知る。
怠けていたなら、怠けていたと認める。
間違っていたなら、間違っていたと認める。
その承認が、変化の第一歩になる。


現代社会は、この「問い」を失っている。
誰も私たちに問わない。
「お前は正しく生きているか」と詰問する存在がいない。
神は沈黙し、社会は多様性の名のもとに批判を控え、個人は「自分らしく」という魔法の言葉で自己肯定を続ける。


問われないから、自分を問い直す機会がない。
批判されないから、過ちに気づかない。
叱られないから、成長のきっかけをつかめない。
そして私たちは、答えを持たないまま生きている。
「自分は正しく生きているか」——この問いに、今のあなたは答えられるだろうか。

誰にも問われていないから、考えたこともないのではないか。
問いを突きつけられる恐怖を知らないから、問いの重さもわからないのではないか。

ナマハゲがいない世界で、私たちは「沈黙」の中を漂っている。

問われず、答えず、ただ流されていく。
それが現代人の「怠惰」——囲炉裏端で動かない者の、見えない「ナマミ」——の正体かもしれない。

牙を抜かれた神々と、加速する腐敗

教育的配慮という名の「神殺し」

 
2018年、ユネスコの無形文化遺産に「来訪神:仮面・仮装の神々」が登録された。
ナマハゲを含む日本各地の来訪神行事が、人類の文化遺産として認められたのである。


一見、これは喜ばしいことに思える。
伝統文化が守られ、後世に継承される。
素晴らしいことではないか。


しかし、その「保存」の過程で、何が起こったか。

ナマハゲは、牙を抜かれた。

「子供が泣くのはかわいそう」
「トラウマになる」
「教育上よくない」——そうした声に応じて、ナマハゲは「優しく」なった。

以前ほど激しく叫ばなくなった。
以前ほど荒々しく振る舞わなくなった。
子供が怖がりすぎないように「配慮」し、本気で泣き出したらすぐに引き下がるようになった。


それは「進歩」だろうか。
「改善」だろうか。


否。

 
それは「神殺し」である。

 
ナマハゲから「恐怖」を取り除くことは、ナマハゲから「浄化の力」を奪うことに等しい。
恐怖こそが祓いの本質だからだ。
魂を震わせ、停滞を打ち破り、澱みを散らす——その機能は、恐怖なしには働かない。

「優しいナマハゲ」とは、刃を持たない外科医である。

メスを振るわず、患部に触れず、「大丈夫ですよ」と微笑むだけの外科医に、腫瘍を切除できるだろうか。
患者の気分は害さないかもしれない。
しかし、病巣は残ったままだ。


「怖がらせないナマハゲ」は、子供を泣かせないかもしれない。
しかし、その子供の魂は浄められない。
「教育的配慮」の名のもとに、私たちは子供から通過儀礼の機会を奪っている


これは、現代社会全体に蔓延している病理の縮図だ。

「傷つけない」
「不快にさせない」
「強制しない」——そうした配慮が、あらゆる場面で優先される。
学校では競争を避け、職場ではハラスメントを恐れ、家庭では叱ることを躊躇う。


結果として、誰も「本当のこと」を言わなくなった。
「お前は間違っている」
「お前は怠けている」
「お前はこのままではダメだ」
そうした厳しい言葉を投げかける存在が、消えていった。
それは「優しさ」なのか。
「配慮」なのか。

それは、腐敗を加速させる放置である。

ナマハゲの「恐怖」は、暴力ではなかった。
それは「愛のある厳しさ」だった。
お前を新しい年にふさわしい人間にするために、今ここで叱る。
お前が腐っていくのを見ていられないから、出刃包丁で垢を削ぎ落とす。


その「愛のある厳しさ」を、私たちは「暴力」と誤認し、排除してしまった。


そして今、誰にも叱られない子供たちが育っている。
問われることを知らない大人たちが増えている。
恐怖を通じて自分を更新する機会を、一度も持たないまま年を重ねる人間が、この社会の多数派になりつつある。

ナマハゲの牙を抜いたのは、子供のためではない。
大人たちが、叱られることを恐れているのだ。

子供が泣くのを見たくないのは、自分がかつて泣いた記憶が甦るからだ。
子供が怖がるのを止めさせたいのは、自分自身が「問い」を突きつけられることを避けたいからだ。


「教育的配慮」という言葉の裏に、大人たちの怯えが隠れている。

鏡の中の「ナマハゲ」を失った世界

 
ナマハゲとは、「鏡」である。
その恐ろしい形相は、私たちの内面を映し出す鏡。
自分では見ることのできない醜さを、否応なく見せつける存在。

「泣ぐ子はいねがァ」という問いに怯えるとき、私たちは自分の中の「泣く子」を見ている。
怠惰で、臆病で、言い訳ばかりの自分。
それがナマハゲの面に映し出される。

だから怖い。

鬼の形相が怖いのではない。
その形相に映る自分の醜さが怖いのだ。

人間は、自分の醜さを見ることを極端に嫌う。

だから鏡を遠ざける。
批判を嫌い、指摘を拒み、「自分はこれでいい」と思い込もうとする。
SNSでは自分を肯定してくれる声だけを集め、批判的な意見はブロックする。
エコーチェンバーの中に閉じこもり、自分の正しさを確認し続ける。


ナマハゲという「鏡」を失った現代人は、自分の姿を見る機会を失った

自分がどれだけ怠けているか。
自分がどれだけ嘘をついているか。自分がどれだけ停滞しているか。
それを映し出す鏡がないから、わからない。
わからないから、変われない。
変われないから、腐っていく。

これが、現代の「静かな腐敗」である。

誰にも気づかれず、自分でも気づかず、ゆっくりと、しかし確実に、内側から腐っていく。
外見は変わらない。
社会生活も送れる。
しかし魂は、すでに死に始めている。


 
かつて、ナマハゲは年に一度、その腐敗を止めてくれた。
鏡を突きつけ、「お前は腐りかけているぞ」と警告してくれた。
その警告があったから、人々は自分を省み、軌道修正することができた。

今、その警告者はいない。

私たちは鏡を失った部屋で、自分が美しいと信じ込みながら、腐敗していく。
それは、グリム童話の「白雪姫」に出てくる女王の逆だ。
女王は鏡に真実を告げられて苦しんだ。
しかし私たちは、鏡がないから、自分の醜さを知ることさえできない。

どちらがより残酷な状況だろうか。

私は、鏡のない状況のほうが残酷だと思う。
醜さを知れば、努力によって変わる余地がある。
しかし、醜さを知らなければ、変わろうという意志すら生まれない。

ナマハゲを失ったことで、私たちは自己認識の機会を失った。
そしてそれは、成長の可能性を失ったことと同義である。

今こそ、私たちの家にも「包丁」が必要だ

 
では、どうすればいいのか。
ナマハゲを復活させろと言うのか。
秋田まで行って、恐ろしい神に叱ってもらえと言うのか。

そうではない。

私が言いたいのは、ナマハゲの「精神」を取り戻せ、ということだ。
ナマハゲという存在がいなくても、その精神——「問いを突きつけ、怠惰を削ぎ落とす」という精神——は、私たちの中に宿しうる。
まず必要なのは、自分で自分に問いを突きつけることだ。

「私は怠けていないか」
「私は嘘をついていないか」
「私は逃げていないか」
「私は正しく生きているか」

一年の終わりに、これらの問いを自分に向けてみる。
誰も問うてくれないなら、自分で問う。
ナマハゲが来ないなら、自分の中に「内なるナマハゲ」を育てる。


これは、言うほど簡単ではない。

人間は自分に甘い。自分を裁くことができない。
だからこそ、外部から神が来て、強制的に問いを突きつける必要があったのだ。

しかし、その外部の存在がいない今、私たちは自分で自分を鍛えるしかない。

日記をつける
一日の終わりに、自分が何をしたか、何を怠ったかを正直に記録する。
言い訳は書かない。
事実だけを書く。
一年後に読み返したとき、そこには自分の「ナマミ」がくっきりと浮かび上がっているはずだ。


信頼できる人に、厳しいフィードバックを求める
「私のダメなところを教えてほしい」と頼む。
「傷つくかもしれないけど、正直に言ってほしい」とお願いする。
その人は、あなたにとっての「人間のナマハゲ」になりうる。


毎年、大晦日に「審判」の時間を設ける
静かな場所で、一年を振り返る。
何を達成し、何を怠ったか。
何に向き合い、何から逃げたか。
そして、来年の自分に何を誓うか。


これらは、ナマハゲの「代替物」である。
本物には遠く及ばない。
神の咆哮がもたらす圧倒的な恐怖と浄化は、自分一人では再現できない。

しかし、何もしないよりはましだ。
ぬるま湯のような日常に浸かり続けるよりは、少しでも自分を問い直す機会を作るほうがいい。

私たちの家にも、「包丁」が必要だ。
出刃包丁の代わりに、ペンでもいい。
キーボードでもいい。
あるいは、静かな内省の時間でもいい。
何でもいいから、魂の垢を削ぎ落とす「道具」を持つこと。


そして年に一度、その道具を使って、自分自身を「手術」すること。

ナマハゲが来ないなら、自分がナマハゲになるしかない。
恐ろしい面をつけ、自分自身に問いを突きつけるしかない。

「お前は正しく生きたか」
その問いに答える勇気を持つこと。
それが、現代における「通過儀礼」なのかもしれない。

夜の闇に、再び唸り声を聞く

 
最後に、想像してみてほしい。

大晦日の夜。

あなたは家にいる。
外は静かだ。
雪は降っていないかもしれない。
囲炉裏もない。
現代的なリビングで、テレビが年越し番組を流している。
ぬるく、穏やかで、何の危険もない夜。

そのとき、遠くから音が聞こえてくる。

最初は風の音かと思う。
しかし、それは違う。
何かの唸り声。
低く、地鳴りのような、腹の底を震わせる音。

「ウオオオオ……」
幻聴だろうか。気のせいだろうか。

しかし、あなたの心臓は確かに跳ね上がっている。
背筋に冷たいものが走っている。
全身の毛穴が開き、原始的な恐怖が湧き上がっている。

何かが、来ようとしている。
あなたは立ち上がる。テレビを消す。
耳を澄ます。

静寂の中に、足音が聞こえる。
ドン、ドン、と地を踏み鳴らす音。
それは確実に近づいてきている。

あなたの家の前で、足音が止まる。
そして——

ドンドンドンドン!
扉が叩かれる。
「泣ぐ子はいねがァ——!」
「怠け者はいねがァ——!」
その声を聞いたとき、あなたは何を感じるだろうか。

恐怖? もちろん。
しかし、それだけだろうか。
もしかしたら、あなたは「ようやく来てくれた」と感じるかもしれない。
誰にも問われず、何年も、何十年も過ごしてきた。
自分の怠惰を指摘してくれる存在がいなかった。
魂の垢は積もるばかりで、削いでくれる者がいなかった。

そして今、ついに——神が来た。
恐ろしい形相で。
出刃包丁を持って。
私を問い詰め、私を裁き、私を浄めるために。


あなたは扉を開けるだろうか。
それとも、鍵をかけて、震えながらやり過ごすだろうか。

私は、扉を開けてほしいと思う。
恐怖に震えながらも、扉を開けてほしい。
神を迎え入れてほしい。
問いに答えてほしい。
そして、削ぎ落とされる痛みを受け入れてほしい。


なぜなら、それこそが「救済」だからだ。
神に問われることは、神に見られているということだ。
神に叱られることは、神に愛されているということだ。
神がわざわざ来て、私たちの怠惰を指摘してくれる——それは、私たちがまだ見捨てられていない証なのである。


本当に恐ろしいのは、神が「来ないこと」だ。
問われず、叱られず、気にもかけられず、放置されること。
腐っていくのを、誰にも止めてもらえないこと。

それこそが、最も深い絶望ではないか。



静まり返った現代の住宅街。
風の音に混じって聞こえる、あの声。
「ウオオオオ……」
それが幻聴でないことを、私は祈っている。
神々がまだ、私たちを見捨てていないことを。
牙を抜かれてもなお、どこかで咆哮を上げていることを。
そして、私たちに「問い」を突きつけ続けてくれていることを。

 
大晦日の夜。
あなたの耳に、その声は届くだろうか。
届いたとき——あなたは、答えられるだろうか。
「お前は正しく生きているか」
この問いに。