白い円盤に封じられた「神の心臓」
鏡・月・魂:なぜ餅は丸くなければならなかったか
あなたの家の床の間、あるいは神棚の片隅に、今年も白い塊が鎮座していたはずである。
二段に重ねられた、あの円い餅。橙を載せ、裏白を敷き、三方の上で沈黙を守る、あの存在。
私たちは幼い頃からそれを「鏡餅」と呼び、正月が明ければ当然のように割り、雑煮に入れ、あるいは油で揚げて食してきた。
何の疑問も持たずに。
だが、立ち止まって考えてほしい。
なぜ、餅は「丸く」なければならなかったのか。
四角でも、三角でも、あるいは人の形でもよかったはずだ。
現に、菱餅は菱形であり、柏餅は半月形である。
しかし、神に捧げる餅だけは、太古から頑なに「円形」を守り続けてきた。
それは単なる伝統ではない。
そこには、私たちの祖先が「魂」というものをどのように捉えていたかという、根源的な世界観が刻み込まれている。
古代日本人にとって、魂とは「丸いもの」だった。
『古事記』や『日本書紀』に登場する「玉」──勾玉や八尺瓊勾玉──が、なぜあれほどまでに神聖視されたのか。
それは玉が「魂の依り代」だったからである。
丸く、滑らかで、光を受けて輝く石の中に、目に見えない生命の根源が宿ると信じられていた。
そして、夜空に浮かぶ満月もまた、巨大な魂の象徴だった。月は満ち欠けを繰り返し、死んでは甦る。
その円い光こそが、生命の永遠性を約束するものだったのだ。
鏡餅の「鏡」とは、もちろん「八咫鏡」に由来する。
だが、ここで決定的に重要なのは、古代の鏡が「映すための道具」ではなかったという事実である。
銅鏡は青く、歪み、曇っていた。
そこに顔を映しても、現代の鏡のように明瞭な像は得られない。
では、何のために鏡はあったのか。それは神を「封じる」ためだった。
円く、光を集め、その奥に何かを宿らせる器。
鏡の内部には、この世ならざるものが蠢いている。
そう信じられていたからこそ、三種の神器の筆頭に鏡が据えられたのである。
鏡餅とは、その「鏡」の食べられる版である。
つまり、あなたが毎年正月に飾っているあの白い塊は、「神の魂を封じ込めた容器」に他ならない。
もっと正確に言えば、あれは神の心臓なのだ。
心臓もまた、古来より魂の座と考えられてきた。
拍動し、温かく、止まれば死ぬ。
その臓器の形を想像してみてほしい。
赤黒く、丸みを帯び、二つの心房が重なり合う形状。
そう、二段に重ねられた円い餅と、驚くほど似ているではないか。
私たちは毎年、神の心臓を床の間に飾り、その鼓動が止まるのを待っていたのである。
二段重ねが意味する「生」と「死」、あるいは「陰」と「陽」
なぜ、餅は二段でなければならないのか。
一般的な解説では、「福が重なる」「めでたさを重ねる」といった縁起担ぎとして説明される。
あるいは「陰と陽」「月と太陽」の象徴とも言われる。
だが、それは本質の半分しか捉えていない。
二段の餅は、この世とあの世の境界そのものを表している。
下の大きな餅が「現世(うつしよ)」、上の小さな餅が「常世(とこよ)」。
常世とは、死者の国であり、神々の住まう国であり、永遠の彼岸である。
その二つの世界が重なり合う場所に、橙という「代々」続く生命の象徴が置かれる。
鏡餅は単なる飾り物ではない。
それは、家の中心に設えられた「小さな宇宙」であり、「異界への門」なのだ。
正月とは、元来「年神」を迎える行事である。
年神とは、先祖の霊であり、山から降りてくる神であり、海の彼方からやってくる「マレビト」でもあった。
民俗学者・折口信夫が提唱した「マレビト」とは、「稀に来る人」、すなわち異界から訪れる聖なる来訪者を意味する。
正月に門松を立て、注連縄を張り、鏡餅を飾るのは、このマレビトを迎え入れるための装置を整えることに他ならない。
だが、忘れてはならないことがある。
マレビトは「来る」だけではない。
マレビトは必ず「去る」のである。
そして、去った後に残されるもの。
それが、鏡餅という「抜け殻」だ。
正月の間、鏡餅の中には年神の魂が宿っている。
餅は呼吸し、微かに湿り、時にひび割れる。
それは神が「生きている」証拠である。
しかし、松の内が明け、七草粥を啜り、正月気分が遠のいていくにつれ、年神もまた去っていく。
彼らは常世へと帰るのだ。
そして私たちの手元には、魂の抜けた、冷たく硬い餅だけが残される。
二段重ねの餅は、まるで心臓が上下に切断された断面のようでもある。
あるいは、二つの世界が重なり合い、境界が曖昧になった瞬間を、白い米の塊として可視化したものとも言える。
いずれにせよ、あの形には尋常ならざる意味が込められている。
私たちはそれを、あまりにも長い間、忘れすぎていたのだ。
三種の神器としての「八咫鏡」と鏡餅の照応
三種の神器──八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉──の中で、鏡だけが「見ること」に関わる器物である。
剣は斬るためにあり、勾玉は魂を宿すためにある。
では、鏡は何のためにあるのか。
『日本書紀』には、天照大神が天岩戸から出る際、鏡に映った自分の姿を見て驚いたという記述がある。
だが、これを「自分の美しさに見惚れた」などと解釈してはならない。
古代人にとって、鏡に映る像は「自分自身」ではなかった。
それは「もう一人の自分」、あるいは「魂の複製」だったのである。
鏡は、神を映すことで神を「複製」する。
その複製された神の魂を閉じ込め、持ち運び可能にしたもの。
それが銅鏡であり、その食べられる変形が鏡餅である。
伊勢神宮の内宮に安置されている八咫鏡は、天照大神そのものとして扱われている。
つまり、鏡=神なのだ。
そして、その論理を延長すれば、鏡餅もまた神そのものということになる。
私たちは毎年、神そのものを家に迎え入れ、神そのものを叩き割り、神そのものを咀嚼し、神そのものを嚥下してきたのである。
この事実を、あなたはこれまで意識したことがあっただろうか。
飾られている間の「静かなる憑依」
鏡餅を飾ったまま、夜中にふと目が覚めたことはないだろうか。
暗い部屋の中、床の間に鎮座する白い塊が、微かに光を帯びているように見えたことはないだろうか。
あるいは、朝起きたとき、餅の表面に昨夜はなかったはずの亀裂が走っているのを発見したことはないだろうか。
正月の間、鏡餅は「生きている」。
そう言うと、馬鹿げていると思われるかもしれない。だが、餅が「呼吸」しているのは科学的な事実である。
搗きたての餅は水分を多く含み、時間とともにその水分が蒸発していく。
同時に、空気中の水分を吸収したり、温度変化によって膨張・収縮を繰り返したりもする。
表面に亀裂が入るのは、その「呼吸」の結果だ。
古代の人々は、この亀裂を「神の意志の表れ」として占った。
亀裂の方向、深さ、数。
それらが吉凶を示すと信じられていた。
亀の甲羅を焼いて占う「亀卜」と同じ原理である。
餅のひび割れは、神がそこに宿り、何かを伝えようとしている証拠だったのだ。
考えてみれば、それは恐ろしいことである。
正月の数日間、あなたの家の中央には、異界からの来訪者が滞在している。
その存在は目に見えず、声も発しない。
ただ、白い餅の中で沈黙を守り、刻一刻と何かを蓄積している。
それは「福」かもしれない。だが、
「福」だけだと誰が保証できるだろうか。
年神は、必ずしも善なる存在とは限らない。
柳田國男の研究によれば、先祖の霊は「祖霊」であると同時に「悪霊」にもなりうる存在だった。供養を怠れば祟り、敬意を欠けば災いをもたらす。
年神もまた、適切に迎え、適切に送らなければ、家に禍をもたらす危険な存在だったのである。
その危険な存在が、正月の間ずっと、餅の中で息を潜めている。
飾られている間、鏡餅は「静かなる憑依」の状態にある。
何かがそこに入り込み、満ちていく。その「何か」が溢れ出す前に、私たちは餅を「開かなければならない」。
そうしなければ、行き場を失った神のエネルギーが、家の中で暴れ始めるかもしれないのだから。
「切る」ことへの禁忌と、「開く」という名の暴力
なぜ刃物は「神」に届かないのか
一月十一日。鏡開きの日である。
あなたは鏡餅を前にして、どのような道具を手に取るだろうか。
包丁だろうか、それとも木槌だろうか。
現代の多くの家庭では、パック入りの鏡餅を開封し、中に入っている個包装の餅をそのまま調理するだけかもしれない。
しかし、かつては違った。
本物の鏡餅──搗きたての餅を二段に重ね、乾燥させて硬くなったあの塊──を「開く」には、明確な作法があった。
絶対に刃物を使ってはならない、という作法が。
その理由として一般的に語られるのは、「切る」という行為が切腹を連想させるため、武家社会において忌避されたという説明である。
確かに、武士の時代において「切る」「割る」という言葉は不吉なものとされた。
だから「鏡割り」ではなく「鏡開き」と言い換えたのだ、と。
だが、この説明は本質を捉えていない。
なぜなら、刃物を餅に使わないという習慣は、武家社会が成立するよりもはるかに古くから存在していたからである。
刃物の忌避は、切腹の連想などという表層的な理由ではなく、もっと根源的な恐怖に基づいている。
それは、「刃物では神を殺せない」という信仰である。
あるいは、こう言い換えてもいい。
「刃物で神を殺してはならない」と。
神は不死の存在である。この世の理屈では傷つけることができない。
人間が作った金属の刃など、神の前では無力だ。
そのような存在に刃物を向けるという行為そのものが、畏れ多く、禁忌なのである。
しかし同時に、神を「終わらせなければならない」瞬間がある。
松の内が明け、年神が去った後、残された鏡餅は「神の抜け殻」になる。
その抜け殻をいつまでも放置しておくわけにはいかない。
神の残滓は、時間が経てば経つほど澱み、腐り、禍をもたらす可能性があるからだ。
だから、私たちは餅を「開かなければならない」。
だが、刃物は使えない。
刃物は人間の道具である。
人間の論理で神を終わらせることは許されない。
では、どうするか。
そこで登場するのが、木槌という「原始の暴力」なのである。
木槌で叩き割るという「非日常的」な破壊衝動
木槌で餅を叩く。
その行為を、冷静に想像してみてほしい。
それは明らかに「調理」ではない。
「解体」ですらない。
それは、紛れもなく「破壊」である。
硬くなった餅を台の上に置き、木槌を振り上げ、力任せに叩きつける。
最初の一撃では、おそらく餅はびくともしない。
二撃、三撃と繰り返すうちに、ようやく亀裂が入り始める。
白い粉が飛び散り、餅の欠片が砕け、やがてそれは無残な塊となって散乱する。
この行為のどこに、神聖さがあるというのか。
しかし、だからこそ意味があるのだ。
神を終わらせるには、人間の秩序だった方法ではなく、秩序を超えた暴力が必要だった。
刃物は文明の産物であり、鍛冶の技術であり、人間の知恵の結晶である。
そのような「人間的なもの」で神に触れることは許されなかった。
だが、木槌は違う。
木は自然物であり、槌という形状は原始の道具である。
それは文明以前の暴力、人間が人間になる前の野性を象徴している。
神を終わらせることができるのは、神と同じく「文明の外側」にあるものだけなのだ。
考えてみれば、これは世界中の神話に共通するモチーフである。
神を殺す者は、常に神と同格か、あるいは神に準じる存在でなければならない。
人間の英雄が神を殺す場合でも、その英雄は半神半人であったり、神から授かった武器を使ったりする。
純粋な人間の力と道具で神を殺すことは、決して許されない。
鏡餅を木槌で叩くとき、私たちは無意識のうちに「文明人」であることを脱ぎ捨てている。
正月の数日間、丁重に扱ってきた神体を、最後には荒々しく叩き割る。
その行為には、積み重ねてきた敬意を一瞬で反転させる暴力性がある。
だが、その暴力こそが、神を「解放」するために必要な力なのだ。
私たちは神を崇め、神を迎え、神を饗し、そして最後に、神を殺すのである。
「鏡開き」──言葉のすり替えに隠された血の匂い
「開く」という言葉の欺瞞について、もう少し考えてみたい。
鏡餅を「割る」とは言わない。「砕く」とも言わない。
私たちはそれを「開く」と言う。
この言い換えは、単なる忌み言葉の回避ではない。
そこには、もっと深い呪術的な意図が隠されている。
「開く」とは、本来、閉じられたものを解放する行為を指す。
扉を開く、箱を開く、封印を開く。
そこには「内側に何かがある」という前提がある。
つまり、「鏡開き」という言葉は、鏡餅の内部に「何かが閉じ込められている」ことを暗黙のうちに認めているのだ。
その「何か」とは、もちろん年神の魂である。
しかし、ここで奇妙なことに気づく。
餅を「開いた」後、その内部から何かが出てくるわけではない。
餅は割れ、砕け、ただの白い塊になるだけだ。
年神の姿が現れるわけでも、光が放たれるわけでもない。
では、何が「解放」されたのか。
それは目に見えないものである。
餅を叩き割った瞬間、そこに閉じ込められていた神のエネルギーが空気中に散逸する。
あるいは、餅の破片一つ一つに分散する。
私たちはその破片を食べることで、分散した神の力を体内に取り込む。
「開く」という行為は、神の力を固体から気体へ、あるいは集中から分散へと変換する儀式なのだ。
だが、それは言い換えれば、神の「死」でもある。
神が一つの形を保っている間、神は「生きている」。
しかし、その形が砕かれた瞬間、神は死ぬ。
散逸した力は、もはや神としての統一性を持たない。
それは「元・神」の残滓でしかない。
「開く」という言葉は、この「死」を隠蔽するための呪術的偽装なのだ。
私たちは神を殺しておきながら、それを「開いた」と言い換えることで、殺害の罪悪感から逃れようとしている。
その言葉のすり替えの影に、かすかな血の匂いが漂っている。
神を殺す者は、常に何らかの代償を払わなければならない。
だから私たちは言葉を偽り、行為を粉飾し、神殺しの記憶を集合的に抑圧してきたのである。
ひび割れた餅の隙間から漏れ出すもの
乾燥した鏡餅には、必ずひび割れが入る。
その亀裂は、表面を走る細い線から始まり、やがて深く、広く、餅の内部にまで達する。
古代の人々は、この亀裂を「神託」として読み解いた。
亀裂の方向が吉を示せば、その年は豊作になる。
凶を示せば、災害に備えなければならない。
餅は占いの道具でもあったのだ。
だが、もう一つの解釈がある。
亀裂とは、閉じ込められたものが「出ようとしている」痕跡ではないか、という解釈が。
先に述べたように、鏡餅の内部には年神の魂が宿っている。
松の内の間、その魂は餅の中で満ちていく。
しかし、満ちすぎた力は、いつか器を破る。
亀裂とは、内部から外部へ向かう圧力の結果なのだ。
この解釈に立てば、鏡餅のひび割れは、神が「出たがっている」サインということになる。
あなたの家の鏡餅に、今年は亀裂が入っただろうか。
入ったとすれば、それはいつ、どのような形で現れただろうか。
もしかすると、あなたが気づかないうちに、その亀裂の隙間から、何かが漏れ出していたかもしれない。
夜中に聞こえた微かな音。
朝起きたときの原因不明の寒気。
家族の誰かが見た奇妙な夢。
それらはすべて、亀裂から漏れ出した神のエネルギーが引き起こしたものかもしれないのだ。
だからこそ、鏡開きは遅らせてはならない。
亀裂が広がり、神の力が制御不能な形で漏れ出す前に、私たちの手で「開かなければならない」。
適切な日に、適切な方法で、意図的に「開く」こと。
それが、神との関係を正しく終わらせる唯一の方法なのである。
捕食される神:直会(なおらい)という名の聖なる共食
「神人共食」の残酷な真実
直会(なおらい)という言葉をご存知だろうか。
神社で祭祀を行った後、神職や参列者が神に供えた食物を下げて共に食べる儀式のことである。
一般的には「神様と一緒に食事をすることで、神の恩恵にあずかる」と説明される。
穏やかで、麗しい解釈だ。
だが、それは真実の半分でしかない。
直会の本質は、「神と共に食べる」ことではない。
「神を食べる」ことなのだ。
民俗学や文化人類学の研究が明らかにしてきたように、世界中の古代宗教には「神を食べる」という儀式が存在した。
トーテム動物を屠って食べる行為、収穫した穀物の最初の一掴みを神に捧げた後に食べる行為、そして聖餐のパンとワインを食べる行為。
これらはすべて、「神の身体を取り込むことで、神の力を自分のものにする」という論理に基づいている。
鏡餅を食べる行為も、例外ではない。
むしろ、鏡餅ほど「神を食べる」という本質が露わになっている例も珍しい。
なにしろ、餅自体が「神の心臓」であり「神の依り代」なのだから。
私たちはそれを叩き割り、煮込み、咀嚼し、嚥下する。
それは紛れもなく、神の身体を解体し、摂取し、血肉化する行為である。
これを「カニバリズム」と呼ぶことに、抵抗を感じるだろうか。
だが、構造としては同じなのだ。
他者の肉体を食べることで、その力を取り込む。
愛する者を食べることで、永遠に一体となる。
敵を食べることで、その勇猛さを奪い取る。
人類の歴史には、そのような「食べること」の呪術的論理が深く刻み込まれている。
神を食べるとは、神と一体になることである。
しかし同時に、それは神を「消化する」ことでもある。
神は食道を通り、胃に落ち、腸で分解される。
神の身体は、私たちの血となり肉となり、やがて排泄される。
この生々しいプロセスを経て、神は完全に「人間の一部」になるのだ。
鏡餅を食べた後、あなたの体内で何が起きているか、想像してみてほしい。
白い餅は胃酸に溶かされ、糖に分解され、腸から吸収される。
そのエネルギーは血流に乗って全身に運ばれ、細胞の一つ一つに届けられる。
神の心臓は、あなたの心臓を動かす燃料になる。
神の魂は、あなたの思考を支える養分になる。
これ以上の「一体化」があるだろうか。
これ以上の「捕食」があるだろうか。
硬い餅を噛み砕く行為がもたらす「生命の更新」
正月に食べる硬い餅には、特別な意味がある。
「歯固め」という言葉を聞いたことがあるだろう。
これは平安時代の宮中で行われていた正月の儀式で、硬いものを食べることで歯を丈夫にし、長寿を願うというものだった。
食べられたのは餅だけではない。
大根、猪肉、鹿肉、押鮎、そしてカヤの実など、いずれも硬く、噛み応えのあるものばかりだった。
だが、単に歯を丈夫にするためなら、普段から硬いものを食べればよい。
なぜ、正月という特別な時期に、わざわざ儀式として行う必要があったのか。
それは「歯」が、生命力の象徴だったからである。
歯は、食べるための道具であると同時に、戦うための武器でもある。
獣が獲物を仕留めるとき、最も頼りにするのは牙だ。
人間も例外ではない。
歯が健康であることは、食べ物を咀嚼できることであり、それはすなわち「生きていく力がある」ということだ。
歯が抜け、咀嚼ができなくなれば、人は衰え、死に近づく。
歯固めとは、「老いない体を作る」ための呪術だったのだ。
そして、その呪術において最も重要なのは、「神の骨を噛み砕く」という行為だった。
硬い餅を噛むとき、私たちは神の心臓を、神の骨を、歯で砕いている。
その抵抗感、その硬さ、その噛み応えこそが重要なのだ。
柔らかい餅では意味がない。
神の身体は、簡単には壊れない。
それを自分の歯で、自分の顎の力で、砕いて嚥下する。
その瞬間、人は神に「勝つ」のである。
神を自分の力で咀嚼できた者は、その年を生き延びる資格を得る。
逆に、神を噛み砕けない者──歯が弱り、顎の力が衰えた者──は、その年のうちに命を落とすかもしれない。
歯固めとは、生命力の試験であり、神との力比べでもあったのだ。
だからこそ、現代の柔らかい餅には、本来の呪術的効果がない。
電子レンジで温めて柔らかくした餅、最初からつきたてのように柔らかい餅。
それらを食べても、「歯固め」にはならない。
神を噛み砕く行為が省略されれば、生命の更新も起こらない。
私たちは便利さと引き換えに、年に一度の「神との格闘」を放棄してしまったのである。
お雑煮の汁に溶け出した「神の血肉」
鏡餅の食べ方として最も一般的なのは、おそらくお雑煮だろう。
硬くなった餅を煮込み、出汁と野菜とともに熱い汁の中で柔らかくする。
餅は形を崩し、汁に溶け出し、やがて原形をとどめなくなる。
私たちはその汁を啜り、箸で餅をつまみ、口に運ぶ。
この「煮込む」という行為の意味を、考えたことがあるだろうか。
叩き割るだけでは、神の身体は「固体」のままである。
それを熱い液体の中に投入し、煮込むことで、神の身体は「液化」する。
形を失い、境界を失い、汁の中に拡散していく。
餅の成分が溶け出した汁は、もはや単なる出汁ではない。
それは「神の血肉が溶け込んだ液体」なのだ。
この構造は、キリスト教の聖餐と驚くほど似ている。
ミサにおいて、信者はパンとワインを口にする。
パンはキリストの肉体であり、ワインはキリストの血である。
その聖なる食物を摂取することで、信者はキリストと一体となり、救済に与る。
これが聖体拝領(エウカリスティア)の本質である。
お雑煮もまた、日本版の聖体拝領なのだ。
餅は神の肉体であり、汁は神の血である。
それを飲み干すことで、私たちは年神と一体となり、新しい年を生き抜く力を得る。
宗教も文化も異なるにもかかわらず、「神を食べる」という儀式の構造は、東西で一致している。
それは人類に共通する、根源的な宗教的衝動なのかもしれない。
雑煮の汁を最後の一滴まで飲み干すとき、あなたは神の血を飲んでいる。
その認識を持って、来年の正月を迎えてみてほしい。
汁の温かさが喉を通るとき、それは神のエネルギーが体内に流れ込む感覚である。
その熱さ、その旨味、その滋養。
すべてが「神から与えられたもの」であることを、忘れないでほしい。
分かち合わなければ「祟り」へと変わる
鏡餅は、一人で食べてはならない。
これは単なる作法ではなく、呪術的な禁忌である。
神の身体を独占する者には、必ず祟りがあると信じられてきた。
古い農村には、こんな伝承が残っている。
ある年、村のけちな男が鏡餅を独り占めにして食べた。
すると、その年の春から男の体は腐り始め、秋には死んでしまった。
男の腹の中で、神の魂が暴れたのだという。
神は、分かち合われることを望む。
鏡餅を「開く」行為には、家族全員が関与しなければならない。
叩く人、破片を集める人、調理する人、そして食べる人。
その全員が「神殺し」の共犯者となることで、罪は分散され、祟りは薄められる。
逆に、一人だけが全過程を担えば、その一人に罪が集中し、神の怒りを買うことになる。
これは、共同体を維持するための知恵でもあった。
正月に家族が集まり、鏡餅を分け合って食べる。
その行為を通じて、家族は「共犯関係」で結ばれる。
神を殺し、食べた記憶を共有することで、家族の絆は強化される。
逆に、この儀式に参加しなかった者は、共同体から疎外される危険がある。
「祟り」とは、共同体からの排除を意味していたのかもしれない。
神を一人で食べた者は、家族との絆を拒否した者である。
そのような者は、共同体の保護を受けられない。
病気になっても助けてもらえず、困難に陥っても手を差し伸べてもらえない。
やがて孤立し、衰え、死んでいく。
それが「祟り」の正体だったのではないか。
現代において、家族全員で鏡餅を食べる習慣は薄れつつある。
一人暮らしの人も多い。
だが、だからこそ気をつけなければならない。
鏡餅を食べるなら、誰かと分かち合うこと。
一人で食べるなら、せめて「神への感謝」を忘れないこと。
そうしなければ、神の力は祝福ではなく、呪いとなって跳ね返ってくるかもしれないのだから。
現代の鏡餅と、窒息する神の魂
プラスチック容器という「真空の牢獄」
スーパーマーケットの正月用品コーナーに並ぶ、あの光景を思い出してほしい。
透明なプラスチックの容器に封入された、鏡餅の形をしたオブジェ。
中には小さな個包装の餅が入っており、橙も樹脂製の模造品である。
それを買ってきて棚に置き、正月が終われば中身を取り出して食べる──あるいは、食べずにそのまま捨てる──というのが、現代の「鏡餅」の典型的な扱いだろう。
だが、立ち止まって考えてほしい。
そのプラスチックの中に、神は宿れるのだろうか。
本来の鏡餅は、搗きたての餅を重ねて作られた。
餅は生きていた。
呼吸し、水分を発し、時間とともに硬くなり、ひび割れた。
その変化の一つ一つが、神が「そこにいる」証拠だった。
しかし、パック入りの餅は違う。
真空状態で密封され、防腐処理を施された餅は、変化しない。
呼吸もできず、乾燥もせず、ひび割れることもない。
それは「死んだ餅」、あるいは「仮死状態の餅」である。
そのような餅に、生きた神の魂が宿れるとは思えない。
プラスチック容器は、神にとっての「真空の牢獄」なのだ。
想像してみてほしい。あなたが透明な棺桶に閉じ込められ、身動きもできず、声も出せず、外の世界を見ることだけはできる状態を。
空気は薄く、体は動かず、時間だけが過ぎていく。
年神にとって、パック入りの鏡餅はそのような場所なのかもしれない。
ある都市伝説がある。
パック入りの鏡餅を正月中ずっと放置していた家で、夜な夜なプラスチックの中から音が聞こえるようになった、という話だ。
「出せ、出せ」と叩くような音。
「ここから出してくれ」と訴えるような音。
最初は気のせいだと思っていたが、音は日に日に大きくなっていった。
恐ろしくなった住人が容器を開けると、中の餅は腐りもせず、カビもせず、買った時と全く同じ姿のままだった。
だが、その表面に、爪で引っ掻いたような無数の傷が刻まれていたという──。
これは作り話かもしれない。
だが、パック入りの鏡餅に「何か」が閉じ込められているという不安感は、多くの人が無意識に感じているのではないだろうか。
そうでなければ、なぜこのような話が生まれるのか。
「開かない」鏡餅が増えた街で
現代の日本では、鏡餅を「開かない」人が増えている。
飾るだけ飾って、正月が終われば捨てる。
あるいは、最初から飾りもしない。
鏡開きという行事そのものを知らない若い世代も少なくない。
その結果、何が起きているだろうか。
行き場を失った年神のエネルギーは、どこへ向かうのだろうか。
本来であれば、年神の力は鏡開きによって「解放」され、人々の体内に取り込まれ、一年の生命力の源となるはずだった。
しかし、その儀式が行われなければ、神の力は行き場を失う。
開かれなかった餅は、やがてゴミとして捨てられる。神と共に。
もしかすると、現代人が感じている漠然とした不安感や、原因不明の疲労感、理由のない虚しさの一部は、この「解放されなかった神のエネルギー」に起因しているのかもしれない。
かつて年神は、正月に家を訪れ、人々に祝福を与え、鏡開きによって送り出された。
そのサイクルが正常に機能している限り、神と人との関係は健全に保たれていた。
だが今、そのサイクルは途切れている。
神は来るが、送り出されない。
あるいは、来ることさえ拒まれている。
神を迎えない街。
神を送り出さない街。
神を食べない街。
そのような街で、人々の生命力は、どこから補給されているのだろうか。
便利さと引き換えに失った「死と再生」の感覚
鏡餅を叩き割り、噛み砕くプロセスを省略した私たちは、何を失ったのだろうか。
それは、「死と再生」の感覚だと私は思う。
かつて、正月は「年の死」と「年の誕生」が同時に起こる特別な時間だった。
古い年が死に、新しい年が生まれる。
その転換点において、人間もまた象徴的に「死んで生まれ変わる」必要があった。
鏡餅を叩き割る行為は、その「死」の模倣だった。
神の身体を破壊することは、自分自身の古い部分を破壊することでもある。
そして、砕かれた餅を食べることで、新しい生命力が体内に入ってくる。
叩いて、砕いて、噛んで、嚥下する。
その一連のプロセスが、「死と再生」の体験だったのだ。
しかし現代人は、そのプロセスを省略してしまった。
パック入りの餅は、叩かなくても食べられる。
電子レンジで温めれば柔らかくなり、噛み砕く必要もない。
便利だ。
効率的だ。
時間の節約になる。
だが、その便利さと引き換えに、私たちは年に一度の「死と再生」の体験を放棄してしまったのである。
生命の枯渇。
現代人が抱える、この漠然とした感覚は、もしかすると「再生の機会」を失ったことに起因しているのかもしれない。
私たちは生まれたまま、死ぬまで「一つの命」を生き続けている。
途中で死に、生まれ変わるという体験がない。
だから、命が擦り切れていく。
補充されることなく、消耗されていく。
鏡餅を叩き割り、噛み砕くことは、その「補充」の儀式だったのだ。
来年も、あなたは「神」を喰らえるか
この文章を読み終えたあなたは、もう以前と同じ気持ちで鏡餅を見ることはできないだろう。
白い円盤の中に、心臓の鼓動を感じるかもしれない。
二段重ねの形に、この世とあの世の境界線を見るかもしれない。
飾られた餅のひび割れに、神が「出たがっている」気配を感じるかもしれない。
それでいいのだ。
鏡餅は、本来そのように見られるべきものだった。
単なる飾り物ではなく、正月用品ではなく、伝統のオブジェでもない。
それは神の心臓であり、神の依り代であり、私たちが叩き割り、噛み砕き、血肉化すべき聖なる食物なのだ。
来年の正月、あなたは鏡餅を飾るだろうか。
飾るなら、できれば本物の餅で作ってほしい。
搗きたての餅を二段に重ね、三方に載せ、床の間に安置してほしい。
そして松の内の間、その餅を注視してほしい。
何かが満ちていく気配を、感じ取ってほしい。
そして一月十一日、鏡開きの日。
木槌を手に取り、餅を叩いてほしい。
プラスチックの容器から取り出すのではなく、自分の手で、自分の力で、神の身体を砕いてほしい。
その抵抗感を、腕に感じてほしい。
砕けた餅を鍋に入れ、煮込んでほしい。
餅が溶け出し、汁が白濁していく様を、見届けてほしい。
そして家族と分け合い、熱い雑煮を啜ってほしい。
神の血が喉を通っていく感覚を、味わってほしい。
それが、「神を喰らう」ということだ。
一年に一度だけ許される、聖なる捕食。
神の心臓を、自分の心臓に取り込む儀式。
その行為を通じて、あなたは古い自分を殺し、新しい自分として生まれ変わることができる。
来年も、あなたは神を喰らえるか。
その覚悟があるなら、次の正月を待て。
白い餅が、あなたを待っている。
食べられるのを待っている命が、そこにいる。
追記:神の欠片による魔除け
最後に、一つの伝承を記しておきたい。
古い農村では、鏡餅を割った時に出た「破片」を、そのまま庭に撒く習慣があった。
特に、細かく砕けた粉のような破片は、大切に集められた。
なぜか。
それは「魔除け」のためだった。
神の身体の一部である餅の破片には、強力な霊力が宿っていると信じられていた。
それを庭に撒けば、害虫が寄りつかなくなる。
田畑に撒けば、その年は豊作になる。
家の四隅に置けば、悪霊が侵入できなくなる。
神は食べられるためだけに存在するのではない。
神の身体は、あらゆる形で人間を守ってくれる。
心臓は食べ、骨は撒き、血は飲む。
余すところなく神を使い切ることが、神への最大の敬意なのだ。
来年の鏡開きでは、破片を少しだけ取っておいてほしい。
そしてそれを、窓辺に、あるいは玄関先に置いてほしい。
それは神があなたに残してくれた、小さな守りである。
神の欠片は、一年間あなたを見守り続けるだろう。
そして次の正月が来たとき、新しい神がその場所に入れ替わる。
古い欠片は土に還し、新しい欠片を迎える。
そのサイクルが、あなたの家を、あなたの命を、守り続けるのである。