主なき座敷の神事

「空き家」に降り立つ年神の変質と孤独

 

誰もいない玄関への「自動的な降臨」

神は住所を忘れない:プログラムとしての年神

 
元日の午前零時を過ぎた頃、日本列島には目に見えぬ降雪がある。
それは気象庁の観測網には決して捉えられない。
レーダーにも映らず、積雪計にも記録されない。
しかし確かに、何かが降りてくる。
山の稜線を越え、川筋を辿り、かつて人が暮らしたすべての場所へ向かって、静かに、静かに。
年神様である。

歳徳神(としとくじん)、正月様、歳神(としがみ)、お正月さん──地方によって呼び名は異なれど、その本質は変わらない。
一年の始まりに各家庭を訪れ、その年の豊穣と家族の安寧を約束してくださる、日本人にとって最も身近で、最も根源的な神様。
私たちの祖先は千年以上にわたり、門松を立て、しめ縄を張り、鏡餅を供えて、この神様をお迎えしてきた。
だが、ここで一つ、残酷な真実を記さねばならない。
年神様は、招かれなくても来てしまうのである。
これは祝福であると同時に、途方もない悲劇の種でもある。
神道における神々の多くは、人間との契約関係の中に存在する。
祭祀があるから神がいる。
祈りがあるから神は応える。
しかし年神様の場合、その「訪問」はほとんど自動的なのだ。
かつてそこに信仰があった場所、かつて人が暮らし、正月を祝った場所であれば、神様は律儀に、愚直に、そこへ降り立とうとする。
まるで、古いプログラムのように。
総務省の統計によれば、2023年時点で日本全国の空き家は約900万戸。
そのうち「居住目的のない空き家」、つまり完全に放棄された家屋は385万戸に上る。
この数字は年々増加の一途を辿り、2033年には2000万戸を超えるという予測もある。
385万。それは385万の玄関であり、385万の床の間であり、385万の神棚である。
そしてそのすべてに、かつては人が住んでいた。
正月が来れば餅をつき、年越し蕎麦を啜り、除夜の鐘を聞きながら「明けましておめでとう」と言い合った家族がいた。
その記憶を、神様は覚えている。
住所変更届など、神々の世界には届かない。
「この家の住人は施設に入りました」「この家の主は三年前に亡くなりました」「この家は相続人が見つからず放棄されました」──そんな通知を送る窓口は、どこにもない。
だから神様は来る。
毎年、毎年、律儀に。誰も待っていない玄関へ。
誰も開けてくれない戸の前へ。
元日の午前零時。
凍てつく闇の中で、年神様は静かに降り立つ。
錆びた郵便受け。
蔦に覆われた表札。
もう何年も動いていない、傾いた門扉。
そこが、かつて「佐藤」という名の家族が暮らした場所であることを、神様だけが覚えている。