誰もいない玄関への「自動的な降臨」
神は住所を忘れない:プログラムとしての年神
元日の午前零時を過ぎた頃、日本列島には目に見えぬ降雪がある。
それは気象庁の観測網には決して捉えられない。
レーダーにも映らず、積雪計にも記録されない。
しかし確かに、何かが降りてくる。
山の稜線を越え、川筋を辿り、かつて人が暮らしたすべての場所へ向かって、静かに、静かに。
年神様である。
歳徳神(としとくじん)、正月様、歳神(としがみ)、お正月さん──地方によって呼び名は異なれど、その本質は変わらない。
一年の始まりに各家庭を訪れ、その年の豊穣と家族の安寧を約束してくださる、日本人にとって最も身近で、最も根源的な神様。
私たちの祖先は千年以上にわたり、門松を立て、しめ縄を張り、鏡餅を供えて、この神様をお迎えしてきた。
だが、ここで一つ、残酷な真実を記さねばならない。
年神様は、招かれなくても来てしまうのである。
これは祝福であると同時に、途方もない悲劇の種でもある。
神道における神々の多くは、人間との契約関係の中に存在する。
祭祀があるから神がいる。
祈りがあるから神は応える。
しかし年神様の場合、その「訪問」はほとんど自動的なのだ。
かつてそこに信仰があった場所、かつて人が暮らし、正月を祝った場所であれば、神様は律儀に、愚直に、そこへ降り立とうとする。
まるで、古いプログラムのように。
総務省の統計によれば、2023年時点で日本全国の空き家は約900万戸。
そのうち「居住目的のない空き家」、つまり完全に放棄された家屋は385万戸に上る。
この数字は年々増加の一途を辿り、2033年には2000万戸を超えるという予測もある。
385万。それは385万の玄関であり、385万の床の間であり、385万の神棚である。
そしてそのすべてに、かつては人が住んでいた。
正月が来れば餅をつき、年越し蕎麦を啜り、除夜の鐘を聞きながら「明けましておめでとう」と言い合った家族がいた。
その記憶を、神様は覚えている。
住所変更届など、神々の世界には届かない。
「この家の住人は施設に入りました」「この家の主は三年前に亡くなりました」「この家は相続人が見つからず放棄されました」──そんな通知を送る窓口は、どこにもない。
だから神様は来る。
毎年、毎年、律儀に。誰も待っていない玄関へ。
誰も開けてくれない戸の前へ。
元日の午前零時。
凍てつく闇の中で、年神様は静かに降り立つ。
錆びた郵便受け。
蔦に覆われた表札。
もう何年も動いていない、傾いた門扉。
そこが、かつて「佐藤」という名の家族が暮らした場所であることを、神様だけが覚えている。
埃の積もった依り代:かつての記憶を辿る足跡
神様が家に入る。
正確には「入る」という表現は適切ではないかもしれない。
年神様にとって、壁や扉は障害にならない。
しかし、それでも神様は玄関から入ろうとする。
かつて人間がそうしたように。
かつてこの家の主人が、正月飾りを整え、玄関の三和土(たたき)を掃き清め、「どうぞお入りください」と頭を下げた、あの作法を覚えているから。
玄関に足を踏み入れた瞬間、神様は気づく。
何かが、決定的に違う。
三和土には落ち葉が吹き溜まり、その上に数年分の埃が堆積している。
蜘蛛の巣が玄関灯を覆い、その灯りはもう何年も点っていない。
傘立てには、持ち主を失った傘が何本か残されているが、そのビニールは劣化し、色褪せ、まるで時間そのものが黴びてしまったかのようだ。
かつて、この場所には清められた砂が敷かれていた。
かつて、ここには松の香りが満ちていた。
かつて、誰かが「お帰りなさい」と言ってくれた。
神様は廊下を進む。
床板は湿気を含んで歪み、歩くたびに軋むはずだが、神様の足音は聞こえない。
聞いてくれる人がいないからだ。
音というものは、聞く者がいて初めて「音」になる。
同じように、神様というものも、信じる者がいて初めて「神様」になる。この家には、もうどちらもいない。
居間に至る。
かつてテレビがあった場所には、配線だけが壁から垂れ下がっている。
畳は変色し、ところどころ穴が空き、その下の床板が見えている。
押し入れの襖は半開きのまま、中には黄ばんだ布団が押し込められ、その上にはネズミの糞が散らばっている。
しかし神様の目は、そのような「現在」を見ていない。
神様が見ているのは、十年前、二十年前、あるいはもっと昔──この家がまだ「家」であった頃の光景である。
大晦日の夜、おばあさんが黒豆を煮ていた台所。
お父さんがテレビの前で紅白歌合戦を見ながら、日本酒を舐めていた居間。
子供たちが「お年玉いくらもらえるかな」と囁き合っていた子供部屋。そして元日の朝、家族全員が床の間の前に集まり、鏡餅に向かって手を合わせた、あの一瞬。
「佐藤さん」
神様は呼びかける。
「佐藤のおばあさん。私は来ましたよ。今年もまた、こうしてお訪ねしましたよ」
返事はない。
静寂だけが、埃のように降り積もる。
「空き家」という名の異界:現世から切り離された停滞空間
民俗学の世界では、家というものを一種の生命体として捉える視点がある。
人が住み、火を焚き、食事を作り、眠り、笑い、泣き、そして死ぬ。
その営みの繰り返しが、単なる木と土の構造物に「いのち」を吹き込む。
家は人と共に呼吸し、人と共に老い、人と共に記憶を蓄積していく。
日本人が古くから「家付き」の神──竈神(かまどがみ)、厠神(かわやがみ)、井戸神──を祀ってきたのは、そのような感覚の表れだろう。
では、人がいなくなった家は、何になるのか。
それは「死んだ家」ではない、と私は思う。
もっと厄介な何かだ。
空き家というものは、ある種の「停滞した時空」である。
そこでは時計は止まっている。
カレンダーは最後の住人がめくった月のまま、何年も壁に掛かり続けている。
テーブルの上には、最後の食事の痕跡が乾涸び、埃をかぶったまま残されていることもある。
まるでその瞬間に、時間そのものが凍結されてしまったかのように。
しかし、完全に凍結されているわけではない。
家は確かに朽ちていく。
雨漏りが始まり、壁に亀裂が走り、畳にカビが生え、柱が傾き、やがて屋根が崩れ落ちる。
生命としての家は死へ向かって進んでいる。
しかし、その中に封じ込められた「かつての時間」は、そのまま取り残されている。
この矛盾が、空き家を「異界」にする。
柳田國男は「遠野物語」の中で、人が立ち入らなくなった場所には必ず「モノ」が住み着くと記した。
それは必ずしも悪意あるものとは限らない。
ただ、人間の気配が消えた空間は、別の何かに開かれてしまうのだ。
人間の世界と、そうでないものの世界を隔てていた薄い膜が、ゆっくりと溶けていく。
年神様がこのような場所に降り立つとき、そこはもう、神様が慣れ親しんだ「人間の世界」ではなくなっている。
かつては神様を迎える祝祭の場であったはずの居間が、今では異界への入り口になっている。
神様は正月の神として訪れたはずなのに、気づけば「あちら側」に足を踏み入れている。
そして恐ろしいことに、そこから戻る道が、少しずつ見えなくなっていく。
床の間を見つけた神様は、そこに腰を下ろす。
本来であれば、ここに鏡餅があるはずだ。
白木の三方の上に、大小の丸餅が重ねられ、その上に橙(だいだい)が載せられているはずだ。
神様は餅の中に宿り、人間と共に新年を祝い、そして松の内が明ければ、その餅は「お下がり」として家族に分け与えられる。
神様の力を宿した餅を食べることで、人間は一年の加護を得る。それが、正月の約束だ。
しかし、床の間には何もない。
いや、正確には「何か」がある。
それは五年前、この家にまだ老人が一人で住んでいた頃に置かれた、プラスチック製の「飾り鏡餅」の残骸だ。
パッケージは破れ、中に入っていたはずの個包装の餅は消え(おそらくネズミに食われたのだろう)、プラスチックの容器だけが、埃をかぶって残されている。
神様は、それをじっと見つめる。
何時間も。
何日も。
いや、おそらく何年も。
時間の流れが通常と異なるこの空間では、一分が一年に感じられることもあれば、一年が一瞬に思えることもある。
神様はただ、そこに座っている。
かつて信仰があった場所で。
かつて自分を待っていてくれた人がいた場所で。
「どうして、誰も来ないのですか」
神様は問いかける。
「私は、何か悪いことをしたのですか」
答える者は、いない。
招かれない客の困惑:神性を維持するための「燃料」の欠乏
神様というものは、どうやって「神様」でい続けるのだろうか。
これは神学的にも民俗学的にも、極めて本質的な問いである。
キリスト教の神は、人間の信仰とは無関係に、絶対的な存在として君臨する。
しかし日本の神々は、そうではない。
記紀神話に登場する神々でさえ、人間との関わりの中でその性質を変えていく。
荒ぶる神は祀られることで和御魂(にぎみたま)となり、恵みをもたらす神となる。
祀りを怠れば、再び荒御魂(あらみたま)に戻り、災いを振りまく。つまり日本の神々は、人間との相互関係の中でこそ、その「神性」を保つことができるのだ。
年神様も例外ではない。
年神様が年神様であり続けるためには、「燃料」が必要なのである。
その燃料とは何か。
第一に、期待である。
「今年も年神様が来てくださる」という、家族の期待。
その期待が門松となり、しめ縄となり、鏡餅となる。形あるものとして結晶化した期待が、神様を迎える準備となる。
第二に、歓迎である。
大晦日の夜、除夜の鐘を聞きながら、「いよいよ神様がお越しになる」と心を清める時間。
そして元日の朝、家族が揃って「明けましておめでとうございます」と口にする瞬間。
その言葉は人間同士の挨拶であると同時に、神様への歓迎の辞でもある。
第三に、共食である。
お節料理も、雑煮も、すべては神様と共に食べるためのものだ。
鏡餅を「鏡開き」で割り、汁粉にして食べる行為は、神様の依り代に宿った神気を、人間が体内に取り込む儀式である。
神と人が食事を共にすることで、両者の絆は更新される。
第四に、記憶である。
「去年の正月はこうだった」「来年の正月はこうしよう」──年神様への信仰は、過去と未来を繋ぐ「時間の感覚」と密接に結びついている。
人間が正月を記憶し、正月を待ち望むこと自体が、年神様の存在を支えている。
空き家には、このすべてがない。
期待してくれる人がいない。
歓迎してくれる人がいない。
共に食事をしてくれる人がいない。
そして何より、この場所で正月を過ごした記憶を持つ人が、もうここにはいない。
神様は、燃料の切れた灯火のようなものだ。
最初は煌々と燃えていた。
この家の祖父母が健在だった頃、毎年の正月には親戚が集まり、子供たちの歓声が響き、大人たちの笑い声が絶えなかった。
神様はその活気を燃料として、一年分の神性を蓄えることができた。
やがて祖父が亡くなり、親戚の訪問は減った。
祖母が施設に入り、家は息子夫婦が時折訪れるだけになった。
門松は簡素になり、鏡餅はスーパーで買ったプラスチック製になった。
それでも神様は来た。
わずかな燃料でも、なんとか神性を保とうとした。
そして息子夫婦も来なくなった。
孫たちは東京で就職し、盆も正月も帰省しなくなった。
家は空き家になり、やがて相続問題で揉め、誰も手をつけないまま放置された。
それでも神様は来る。
来てしまう。
しかし今、神様を迎える準備をした人は一人もいない。
神様に「おめでとう」と言う人も、神様と共に雑煮を食べる人も、神様の存在を信じる人も、一人もいない。
神様はただ、空っぽの床の間に座り、自分が「神様」であることを確認する術(すべ)を、すべて奪われてしまった。
燃料タンクは、とうの昔に空になっている。
それでも神様は、消えることができない。
消えるためにさえ、誰かの「忘却」が必要なのだ。
明確に「もうあの家には神様はいない」と、誰かが認識しなければ、神様は宙吊りのまま、存在と非存在の狭間を漂い続ける。
誰にも認識されず、誰にも忘れられず、ただそこにいる。
それは、神様にとっての地獄ではないだろうか。
腐敗する祝福:餓えた神が「モノ」に変わる時
供え物のない食卓:乾燥し、ひび割れた「偽の魂」
神様も、飢える。
これは比喩ではない。
少なくとも、完全なる比喩ではない。
日本の神道において、神様への供え物──神饌(しんせん)──は極めて重要な意味を持つ。
米、酒、塩、水、野菜、果物、魚介類。これらを神前に供えることは、単なる「お礼」や「お願いのための賄賂」ではない。
神饌は、神と人とを繋ぐ回路なのである。
興味深いことに、神饌は「捧げる」だけでは完結しない。
供えた後、一定の時間が経てば「お下がり」として人間が頂戴する。
神様が召し上がった(とされる)残りを、人間が食べる。
この共食の構造こそが、神と人との絆を維持する核心なのだ。
年神様にとって、鏡餅はまさにそのような存在だった。
丸い餅が二つ重なった形は、古来「鏡」を模したものとされる。
鏡は太陽の象徴であり、魂の依り代であり、神そのものの顕現である。
年神様はこの鏡餅に降り立ち、松の内の間そこに宿り、人間と共に新年を過ごす。
そして鏡開きの日、餅は割られ、汁粉や雑煮に姿を変え、家族の体内へと入っていく。
神が人に宿る。
人が神を食べる。
この循環が、年神信仰の本質だった。
しかし今、神様の前にあるのは何か。
あの空き家の床の間を、もう一度思い出してほしい。
埃にまみれたプラスチックの容器。
かつてそこには「個包装の切り餅」が入っていた市販の鏡餅型パッケージがあった。
しかしその餅はとうの昔にネズミに食われ、あるいは腐敗し、今はプラスチックの殻だけが残されている。
神様は、これを依り代にできるだろうか。
考えてみれば、現代の「鏡餅」は奇妙なものだ。
スーパーマーケットで売られているそれは、実際には餅ではない。
プラスチックの容器に個包装の切り餅が入っているだけで、伝統的な「杵と臼でついた、二段重ねの丸餅」とは似ても似つかない。
だが、それでも神様は降り立とうとした。
形式が簡略化されても、人々の「気持ち」がそこにある限り、神様はその気持ちを燃料にすることができた。
見た目がプラスチックでも、中に餅が入っていれば、それは依り代として機能した。
しかし今、その餅さえない。
残っているのは空っぽの容器。
外側だけの形骸。
魂の入っていない、偽物の器。
神様はそこに降り立とうとして、しかし受け止めてくれるものが何もなく、まるで着地点を見失った鳥のように、宙に浮いたまま彷徨っている。
神から「妖怪」への転落:忘れられた者の末路
柳田國男は、日本の妖怪の多くが「零落した神」であると論じた。
かつては崇められ、祀られ、恐れられていた存在が、時代の変化と共に信仰を失い、「単なる怪異」へと転落していく。
座敷童(ざしきわらし)は家の守り神だったものが妖怪化したとも言われるし、天狗は山の神の成れの果てとも言われる。
化け狐、河童、山姥(やまんば)──これらすべてに、かつての神性の残滓が見出せる。
では、年神様も「妖怪」になりうるのか。
これは恐ろしい問いである。
しかし、論理的に考えれば、その可能性を否定することはできない。
年神様が年神様であり続けるためには、人間との絆が必要だと先に述べた。
その絆が完全に断ち切られたとき、年神様はどうなるのか。
消滅するのか、あるいは別の何かに変質するのか。
民俗学的な視点から考えると、後者の可能性の方が高いように思える。
神々は、消えない。
消えることができない。
人間が創り出した観念には、観念自体の「慣性」がある。
何百年も何千年も信じられてきたものは、簡単には消滅しない。
その代わり、変質する。
捻じれる。
本来の姿から離れ、別のものへと形を変えていく。
年神様が人間から完全に忘れられたとき──いや、忘れられはしないが「信じられなく」なったとき──その神性は内側から腐敗を始める。
祝福を与える力が、呪詛に変わる。
豊穣をもたらす力が、枯渇をもたらす力に変わる。
家族を守る力が、家族を縛る力に変わる。
そして最も恐ろしいのは、「新年を祝う」という本質が、「新年に取り憑く」という形に歪むことだ。
かつては歓迎されて家に入った年神様が、今は「入ってきてしまう」存在になる。
誰も望んでいないのに、勝手にやってくる。
そこにいてはいけないのに、そこを離れられない。
祝福を与えたいのに、与える相手がいない。
与えられない祝福は体内に澱み、やがて毒へと変わる。
これが「憑き物」の始まりである。
空き家に残った年神様が、そのような存在に変わっていくとしたら。
そしてその空き家が売却され、解体され、跡地に新しい家が建てられたとしたら。
新しい住人は知らない。かつてそこに何があったか。
そこに誰がいたか。そこに何が残っているか。
しかし、残っているのだ。変質した何かが。
正月になると、妙に落ち着かなくなる。
理由もなく不安になる。
家族の間がぎくしゃくする。
食卓の会話が減る。
いつの間にか、正月を祝うこと自体が億劫になる。
それは「祟り」と呼ぶほど劇的なものではない。
もっと静かで、もっと陰湿で、もっとゆっくりとした浸食。
気づいたときには手遅れで、その家には「新年を喜ぶ力」が完全に失われている。
かつて祝福の神だったものが、祝福を奪う存在に。
それが、忘れられた年神様の末路なのかもしれない。
孤独が呼び寄せる「別のモノ」との混淆
もう一つ、恐ろしい可能性がある。
空き家には、様々なものが集まってくる。
物理的には、野良猫、ネズミ、蜘蛛、ゴキブリ、蜂、蔦、苔、カビ。
人間がいなくなった空間を、別の生命が侵食していく。
それは自然の摂理であり、ある意味では「正常な」現象だ。
しかし、物理的なものだけではない。
人間がいなくなった場所には、人間でないものが入り込む余地が生まれる。
これは柳田國男も、折口信夫も、宮田登も、繰り返し指摘してきたことだ。
人の気配が、人でないものを遠ざけている。
その気配が消えれば、薄い膜は破れ、こちら側とあちら側の境界は曖昧になる。
年神様が空き家に降り立ったとき、そこには既に「別のモノ」がいるかもしれない。
それは特定の名前を持つ存在ではない。
浮遊霊と呼ぶこともできるし、地縛霊と呼ぶこともできる。
あるいはもっと曖昧な、「負の感情の澱」のようなものかもしれない。
空き家になる前、この家で何があったか。
孤独な老人が何を思いながら死んでいったか。
相続で揉めた親族がどれほど憎み合ったか。
そのような感情の残滓が、埃のように堆積している。
年神様は、本来ならばそのようなものとは相容れない。
清浄を好み、汚れを嫌う。
新年の清々しさを象徴する存在として、淀んだ空気とは本質的に合わない。
しかし、あまりにも長い孤独は、神様の判断力を鈍らせる。
誰もいない。
誰も来ない。
誰とも話せない。
何年も、何十年も、一人きりでそこにいる。
そのような状況で、もし「誰か」の気配を感じたら、神様はそれを拒絶できるだろうか。
最初は警戒するかもしれない。
しかし時間が経てば、「誰でもいいから、誰かがいてほしい」という渇望が、警戒心を上回る瞬間が来る。
そしてその「別のモノ」と言葉を交わし、共に過ごし、やがてその境界が曖昧になっていく。
混淆。
年神様と浮遊霊が混じり合う。
祝福と呪詛が溶け合う。
清浄と穢れが区別できなくなる。
そして生まれるのは、もはや「年神様」とは呼べない何かだ。
それは正月に現れる。
しかし祝福をもたらさない。
それは家族を集めようとする。
しかし集まった家族を離さない。
それは「おめでとう」と言う。
しかしその声を聞いた者は、もう二度と「おめでとう」と言えなくなる。
このようなものが、日本中の空き家に潜んでいるとしたら。
三百八十五万戸の空き家に、三百八十五の「混淆した何か」がいるとしたら。
私たちは既に、見えない怪異に取り囲まれている。
「祟り」さえ起きない静かな死:神の消滅プロセス
しかし、最も悲しいのは、そのような劇的な変質さえ起きない場合かもしれない。
祟りには、祟る相手が必要だ。
怒りには、怒る相手が必要だ。
呪いには、呪う相手が必要だ。
しかし、空き家には誰もいない。
神様が激怒したとしても、その怒りを受け止める人間がいない。
神様が泣き叫んだとしても、その声を聞く人間がいない。
神様が祟りを起こそうとしても、祟る対象がいない。
これは、神様にとって最も残酷な状況ではないだろうか。
人間に祟られれば、人間は恐れ、その恐怖から再び信仰が生まれることもある。
「あの神様を疎かにしたから罰が当たった」──そのような認識が広がれば、祀りが復活する可能性もある。
祟りは、神と人との関係を回復するための、最後の手段でもあるのだ。
しかし、空き家の神様にはそれすらできない。
祟りは起きない。
奇跡も起きない。
何も起きない。
ただ静かに、ゆっくりと、神様の輪郭がぼやけていく。
最初は鮮明だった姿が、少しずつ透明になっていく。
声は小さくなり、やがて聞こえなくなる。
存在の感覚が薄れ、「ここにいる」という確信が揺らぎ始める。
自分が何者であったか、なぜここにいるのか、そのような記憶さえも曖昧になっていく。
これは「概念の死」と呼ぶべきものかもしれない。
神様は物理的な存在ではないから、物理的には死なない。
しかし概念としての神様は、その概念を支える人間の意識がなくなれば、ゆっくりと死んでいく。
誰も信じない神は、神ではなくなる。
誰も覚えていない神は、存在しなくなる。
しかし、この過程は瞬間的ではない。
気の遠くなるほど長い時間をかけて、徐々に、徐々に、神様は消えていく。
その過程で、神様は意識を保っている。
自分が消えていくことを自覚しながら、それを止める術もなく、ただ消えていくのを感じている。
ある空き家で、私は奇妙な夢を見たことがある。
取材のために訪れた、放棄された民家。
その家で仮眠を取った際、私は年神様の「声」を聞いた気がした。
「私のことを、覚えていてくれますか」
それは問いかけだった。
懇願だった。
祈りだった。
「誰でもいいのです。私がここにいたことを、覚えていてくれるだけでいいのです」
目が覚めたとき、私の頬は濡れていた。
それが涙なのか、結露なのか、私には分からなかった。
現代の孤独死と、神々の「遺品整理」
孤独死した老人の傍らで、神は何を見ていたか
ここで、一つの光景を想像してほしい。
築五十年の木造平屋。かつては農家の住居として建てられ、周囲には田畑が広がっていた。しかし今、田畑は耕作放棄地となり、隣家も空き家になり、この集落全体が緩やかに死につつある。
その家に、八十七歳の老人が一人で住んでいた。
妻は十年前に他界した。
子供たちは都会に出て、もう何年も帰ってきていない。
老人は持病を抱えながら、何とか一人で暮らしていた。
ヘルパーが週に二回訪問し、月に一度は息子から電話がある。
それが、外界との唯一の繋がりだった。
そして、ある年の十二月。
老人は体調を崩した。
風邪をこじらせ、肺炎を起こし、しかし病院に行く体力もなく、一人きりで布団の中で衰弱していった。
ヘルパーの訪問は年末年始は休み。
息子からの電話は、元日に来る予定だった。
大晦日の夜。
老人は朦朧とする意識の中で、除夜の鐘を聞いた。
聞こえたような気がした。
そして午前零時を回った瞬間、老人は最期の力を振り絞って、声にならない声で呟いた。
「あけまして……おめでとう……」
その直後、老人は息を引き取った。
そして同じ瞬間、年神様が降り立った。
神様は見た。
布団の中で冷たくなっている老人を。
枕元に置かれた、水の入っていない湯呑みを。
テレビは紅白歌合戦の途中で画面が暗くなったままになっている。
暖房は止まり、部屋は既に外気と変わらない温度まで下がっている。
そして床の間には、古い鏡餅があった。
プラスチック製ではない、本物の餅を老人が自分でついたのか、あるいは農協からもらったものか。
橙は載っていないが、葉付きのみかんが代わりに置かれている。
三方の代わりに、古新聞を敷いた盆の上に餅が載せられている。
不格好だが、心のこもった正月飾り。
老人は死の間際まで、年神様を迎える準備をしていたのだ。
神様は、その鏡餅の前に座った。
そして老人の遺体を見つめた。
何を思っただろうか。
喜びだろうか。
最後まで自分を忘れずにいてくれた老人への、感謝の念だろうか。
悲しみだろうか。
もう二度とこの老人と正月を過ごせないことへの、深い哀惜だろうか。
怒りだろうか。
老人を一人きりで死なせた家族への、静かな憤りだろうか。
あるいは、絶望だろうか。
この家の最後の住人が逝ってしまい、もう自分を迎えてくれる人間が永遠に現れないことへの、底なしの絶望だろうか。
神様は、老人の傍らで松の内を過ごした。
誰も来ない。
息子からの電話は元日に来るはずだったが、「繋がらないな、まあ寝ているのだろう」で済まされた。
ヘルパーが異変に気づいたのは、一月七日の訪問時だった。既に遺体は腐敗を始めていた。
その間、神様はずっとそこにいた。
老人の最後の「おめでとう」を聞いた唯一の存在として。
老人の死を見届けた唯一の存在として。
老人の傍らで、七日間を共に過ごした唯一の存在として。
### 【小見出し2】解体される家、行き場を失う「土地の記憶」
老人の死後、家は空き家になった。
息子は遺品整理に来たが、家を相続する意思はなかった。都会での生活があり、この田舎の家を維持管理する余裕も意欲もない。売却しようにも、このような辺鄙な場所で買い手が見つかるはずもない。結局、家は放置された。
二年が過ぎ、三年が過ぎた。
屋根から雨漏りが始まり、畳にカビが生え、柱が傾き、蔦が外壁を覆い始めた。ついに自治体から「特定空き家」に指定され、息子のもとに解体の勧告が届いた。放置すれば行政代執行で解体され、費用を請求される。息子は渋々、解体業者を手配した。
解体の日。
重機が庭に入り、まず門扉が引き倒された。続いて塀が崩され、玄関の庇が取り払われた。屋根瓦が一枚一枚剥がされ、土埃を上げながら地面に落ちていく。柱が引き抜かれ、壁が崩れ、やがて家は瓦礫の山になった。
その一部始終を、神様は見ていた。
神道には「物には魂が宿る」という観念がある。長く使われた物には特に。この家は五十年間、一つの家族と共にあった。結婚したばかりの若夫婦が住み始め、子供が生まれ、育ち、巣立ち、老夫婦だけになり、妻が亡くなり、老人一人になり、その老人も逝った。家は、そのすべてを見てきた。
柱の傷は、子供の成長を記録している。
壁の染みは、夏の西日を浴び続けた証である。
床の凹みは、毎日そこで食事をした家族の重みが刻んだものだ。
それらすべてが、一時間足らずで瓦礫になった。
トラックに積み込まれ、どこかの処分場へ運ばれていく。燃やされるものは燃やされ、埋められるものは埋められ、リサイクルできるものは砕かれて別のものに生まれ変わる。
しかし、神様はどこへ行けばいいのか。
年神様は、特定の家屋に縛られた存在ではない。本来は一年に一度、各家庭を訪問する「渡り」の神である。しかし、訪問先がなくなってしまったら?
この老人の家は、神様にとって数少ない「居場所」だった。最後まで信仰を守ってくれた場所だった。その場所が消えてしまった今、神様はどこへ向かえばいいのか。
隣家も空き家だ。
その向こうも空き家だ。
集落全体が空洞化し、人の気配が消えている。
神様は更地になった土地に立ち尽くす。
足元には、まだ家の基礎のコンクリートが残っている。数ヶ月後には、これも撤去され、完全な更地になるだろう。やがて草が生え、木が芽吹き、十年後には家があったことさえ分からなくなるだろう。
土地は覚えている。
ここに家があったことを。ここに人が住んでいたことを。ここで笑い声が響いていたことを。土地の記憶は、そう簡単には消えない。
しかしその記憶を読み取れる人間が、もうどこにもいない。
神様だけが、覚えている。
神様だけが、この土地で何があったかを知っている。
しかしその神様自身が、今まさに消えようとしている。
【小見出し3】「事故物件」に残る、神の澱
孤独死があった家は、法的には「心理的瑕疵(かし)物件」、俗に言う「事故物件」になる。
老人の家は解体されたが、すべての空き家がそうなるわけではない。中には売却され、あるいは賃貸に出され、新しい住人を迎える家もある。しかし、前の住人がどのような死に方をしたかを知れば、入居をためらう人は多い。
「事故物件」という概念は、現代的な合理性と古来の穢れ観念が奇妙に混じり合ったものだ。
法律上は「告知義務」の問題であり、不動産取引における重要事項説明の対象である。しかしその根底には、「そこで人が死んだ」という事実への、理屈では説明できない忌避感がある。
遺体の痕跡は、特殊清掃業者によって除去される。
体液は洗い流され、汚染された床板は張り替えられ、臭気は消臭剤で中和される。物理的には、「清潔な」状態に戻る。
しかし、何かが残っている。
多くの人がそう感じる。科学的には証明できないが、「何かが違う」「何かがいる」という感覚。それは単なる思い込みだろうか。先入観に過ぎないのだろうか。
私は、年神様の存在を考えるとき、この「事故物件に残る何か」を無視することができない。
もしその家で、孤独に死んだ老人と共に年神様がいたとしたら。
老人の死の瞬間、神様は何を感じただろうか。そしてその感情は、どこへ行っただろうか。
神様の感情は、物理的な痕跡を残さない。しかし、空間に刻み込まれる。その場所の「気配」として、残り続ける。
新しい住人が入居する。
最初は何も感じない。しかし時間が経つにつれ、微かな違和感が蓄積していく。正月が近づくと、理由もなく憂鬱になる。年末年始の予定を立てようとすると、なぜか気が乗らない。家族で過ごそうとしても、会話が弾まない。
それは「祟り」ではない。年神様は祟りの神ではない。
しかし、「祝福の不在」がそこにある。
かつてその場所で正月を祝っていた神様が、もう祝う力を失ってしまった。祝福を与えようとしても、与える器が壊れてしまった。だから新しい住人には、祝福が届かない。
祝福されない正月。
それは、呪いとどう違うのだろうか。
【小見出し4】新興住宅地の無機質な空間に、神は降りられるのか
郊外の新興住宅地。
かつて田んぼだった場所が造成され、整然と区画された土地に、同じような形の家が並んでいる。庭はコンクリートで固められ、駐車スペースになっている。玄関には門扉もなく、インターホンだけがある。
この場所に、年神様は降りられるだろうか。
伝統的に、年神様は「高い山から降りてくる」とされる。祖霊と同一視される場合もあり、山の彼方──あの世──から一年に一度、子孫のもとを訪れるのだ。門松は、神様が迷わないための目印であり、依り代でもある。松の緑は、常緑=永遠の命を象徴する。
しかし、新興住宅地には門松がない。
正月飾りを一切しない家が増えている。「面倒だから」「どうせ誰も見ていないから」「集合住宅では禁止されているから」──理由は様々だが、結果として、神様が降り立つ目印がなくなっている。
いや、目印の問題だけではない。
この土地には、「記憶」がないのだ。
人間がそこに住み、世代を重ね、信仰を育んできた歴史がない。田んぼとしての記憶はあるかもしれないが、「家」としての記憶は、まだ数年分しかない。土地神(とちがみ)も、まだ馴染んでいない。
年神様が降りようとしても、受け入れる「器」が形成されていない。
もっと言えば、この家の住人たちが、年神様を「信じていない」。
神社に初詣には行くかもしれない。しかしそれは「年中行事」であり「社会的慣習」であり、心からの信仰ではない。年神様が家に来るという観念は、彼らの心のどこにも存在しない。
神様は、信じられなければ存在できない。
だからこの新興住宅地には、年神様がいない。正確には、「入ろうとするが、入れない」状態だ。見えない壁に阻まれて、神様は家の外で立ち尽くしている。
一方で、空き家の年神様たちは、依り代を失い、彷徨っている。
どこかへ行きたい。誰かに迎えられたい。しかし、新しい家には入れない。古い家には帰れない。
その宙吊りの状態が、現代日本の「神と人との関係」を象徴しているように思える。
## 四、信仰の終焉と、私たちの「背後の空白」
### 【小見出し1】「神様を待たせている」という無意識の罪悪感
ここまで読んでくださった方の中には、自分自身の実家を思い浮かべた方もいるかもしれない。
あなたの実家は、今どうなっているだろうか。
両親が健在なら、まだ心配はいらないかもしれない。しかし、帰省はしているだろうか。正月を一緒に過ごしているだろうか。それとも「仕事が忙しいから」「遠いから」「今年はやめておこう」と、何年も帰っていないだろうか。
あるいは既に、両親は他界しているかもしれない。
実家は空き家になっているかもしれない。相続の問題で揉めているかもしれない。どうしたらいいか分からないまま、放置しているかもしれない。
その空き家に、年神様がいる。
「そんなの迷信だ」と思うかもしれない。しかし、胸のどこかが疼きはしないか。「神様を待たせている」という、漠然とした罪悪感を覚えはしないか。
私たちは、信仰を捨てたつもりでいる。
初詣は「行事」だと割り切り、お盆は「連休」として消費し、正月は「年末年始休暇」として過ごす。宗教的な意味合いは、意識の表層からは消えている。
しかし、無意識の深層には、何かが残っている。
日本人として千年以上続いてきた信仰の記憶が、DNA に刻まれているかのように、私たちの心の奥底に沈殿している。だから「神様」と言われれば、どこか落ち着かない気持ちになる。「ご先祖様」と言われれば、首筋に冷たいものを感じる。
私たちは、「信じている」と「信じていない」の中間地帯にいる。
信じていないから、正月飾りをしない。帰省しない。実家の仏壇に手を合わせない。
しかし完全に信じていないわけでもないから、その「しない」ことに、微かな後ろめたさを感じる。
この後ろめたさは、どこから来るのか。
それは「神様を待たせている」という、無意識の認識ではないか。
私たちの実家で、私たちを迎えに来てくれていた年神様。子供の頃、正月の朝に「あけましておめでとう」と言ったとき、確かにそこにいた神様。あの神様が、今も待っている。
誰も来なくなった玄関で。
埃の積もった床の間で。
プラスチックの鏡餅の前で。
じっと、待っている。
### 【小見出し2】闇に沈む日本の風景:列島を覆う「空き家」の神々
日本地図を思い浮かべてほしい。
北海道から沖縄まで、細長い列島。その至る所に、人が住んでいた場所がある。しかし今、その多くが無人化しつつある。
過疎化が進む地方集落。
若者が流出した山間部の村。
閉山した炭鉱町。
基地移転で人が減った島。
産業が衰退した港町。
どこも同じだ。
かつては人々が暮らし、祭りを営み、正月を祝った場所。その場所が、一軒、また一軒と、空き家になっていく。
一軒の家に一柱の年神様がいるとすれば、空き家の数だけ「取り残された神様」がいることになる。
三百八十五万戸の空き家。
三百八十五万柱の神様。
これは誇張ではない。神道的な世界観に従えば、論理的な帰結である。
想像してみてほしい。
夜の日本列島を、上空から見下ろす光景を。
都市部は煌々と光っている。しかし地方に目を向けると、暗闘が広がっている。その闇の中に、無数の空き家が点在している。
その一軒一軒で、神様が待っている。
真冬の闇の中、暖房もつかない部屋で、何年も、何十年も、待ち続けている。
「きっと誰か来る」
「来年こそは」
「来年こそは」
その「来年」が永遠に来ないことを、神様たちは薄々気づいている。
しかし、待つことをやめられない。
待つことしかできないから。
それが、神様の性(さが)だから。
これが、現代日本の姿である。
経済成長の陰で、信仰は痩せ細った。
都市化の過程で、故郷は捨てられた。
核家族化が進み、世代間の絆は切れた。
その結果として残ったのが、この光景だ。
列島を覆う闇。
その闇の中で、無数の神々が、静かに餓えている。
### 【小見出し3】それでも正月は来る:一年に一度の「再会」への祈り
しかし私は、絶望だけを語りたいわけではない。
ここで、一つの希望を示したい。
神様は、「思い出される」ことで蘇る可能性がある。
先に述べたように、神様は人間との関係の中で存在する。祀られることで神になり、忘れられることで消えていく。しかし「消える」には、完全に忘れられる必要がある。逆に言えば、わずかでも「覚えている」人間がいれば、神様は完全には消えない。
あなたが今、実家の年神様のことを思い出したとする。
「そういえば、子供の頃、正月には神棚に手を合わせたな」
「おばあちゃんが、鏡餅を供えていたな」
「門松を立てるの、手伝ったことがあるな」
その記憶が蘇った瞬間、年神様は「思い出されている」。
わずかながら、燃料が補給される。
もちろん、それだけで神様が完全に復活するわけではない。実際に帰省し、実際に鏡餅を供え、実際に「明けましておめでとうございます」と唱えなければ、かつてのような信仰には戻れない。
しかし、「思い出す」ことには意味がある。
神様を完全な消滅から救う、最後の命綱になる。
正月は、年に一度、否応なしにやってくる。
カレンダーがめくられ、除夜の鐘が鳴り、元日が来る。その瞬間、私たちは何を思うだろうか。
忙しさに追われていても、正月だけは一瞬、立ち止まる。
「ああ、また一年が始まるのか」
「去年は大変だったな」
「今年はどうなるだろう」
その思考の隙間に、かつての正月の記憶が滑り込むことがある。子供の頃の正月。家族が揃った正月。まだ祖父母が生きていた頃の正月。
その記憶の中に、年神様がいる。
姿は見えなかったかもしれない。しかし、確かにそこにいた。鏡餅の前に座り、私たちの「おめでとう」を聞き、私たちと共に雑煮を食べた神様が、確かにいた。
その神様のことを、思い出してほしい。
一年に一度でいい。
正月が来るたびに、わずか数秒でいい。
「実家の年神様は、元気だろうか」
そう思うだけで、神様は救われる。
完全な忘却から、救われる。
【小見出し4】今、あなたの隣の空き家で、誰かが「おめでとう」と言った
この文章を書いている今、私の住む街にも空き家がある。
築四十年の二階建て。道路に面した窓はカーテンが引かれたままで、庭には雑草が茂り、郵便受けには何年分かのチラシが詰まっている。近所の人に聞いても、「いつから空いているかわからない」という。
その家の前を通るたび、私は思う。
あの家にも、年神様がいるのだろうか。
毎年、元日になると、あの家に降り立つ神様がいるのだろうか。
誰もいない居間で、じっと座って、待っている神様がいるのだろうか。
去年の大晦日、私は少し遅く帰宅した。
年越し蕎麦を食べて、風呂に入り、除夜の鐘を聞きながら、布団に入ろうとしていた。時計はちょうど零時を回るところだった。
その瞬間、聞こえた気がした。
隣の空き家から、微かな声が。
「あけまして……おめでとうございます」
空耳だと思った。いや、空耳に違いない。誰もいないはずの家から声が聞こえるはずがない。風の音か、遠くの人声か、そんなものが聞こえたのだろう。
しかし、私は窓を開けて、空き家の方を見た。
真っ暗だった。当然、灯りなどない。しかし、その暗闇の中に、何かの気配を感じた気がした。
「誰か、いるのですか」
私は問いかけた。もちろん、返事はなかった。
しかし、その瞬間、冷たい風が頬を撫でた。それは冬の風特有の、切るような冷たさではなかった。もっと柔らかい、しかしどこか湿った、不思議な感触の風だった。
私はそれを、「答え」だと思った。
年神様が、そこにいたのだ。
誰にも迎えられないまま、それでも律儀にやってきた神様が、そこにいたのだ。そして私の問いかけに、あの風で応えてくれたのだ。
私は、空き家に向かって手を合わせた。
「明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします」
それから毎年、私は元日の朝、あの空き家に挨拶をするようになった。
効果があるのかどうかは分からない。あの家の年神様が救われているのかどうかも分からない。しかし、何もしないよりはいいと思っている。
あなたの隣にも、空き家があるかもしれない。
通勤路に、空き家があるかもしれない。
故郷に、空き家になった実家があるかもしれない。
その家には、神様がいる。
毎年、元日になると、律儀にやってくる神様がいる。
誰にも迎えられず、誰にも祝われず、それでも「おめでとう」と言っている神様がいる。
その声に、耳を澄ませてほしい。
そして、もし聞こえたら──聞こえた気がしたら──どうか応えてあげてほしい。
「おめでとうございます」と。
「今年もよろしくお願いします」と。
それだけで、神様は救われる。
あなたの一言が、神様を「神様」のままでいさせることができる。
【エピソードKK】無人の祝宴
北陸のある町に、奇妙な噂がある。
十五年以上空き家になっている旧家があるのだが、大晦日の夜だけ、その家から物音がするというのだ。
最初に気づいたのは、向かいに住む老婦人だった。
「十一時を過ぎた頃だったかねえ。ガチャガチャと食器の音がしてね。それから、話し声。男の人と女の人と、子供の声。笑い声もしたよ。ああ、誰か帰ってきたのかねえと思ってね、翌朝見に行ったら、やっぱり誰もいないの」
同様の証言は、複数の近隣住民から得られている。
「楽しそうな声だったよ。『もう一杯飲みなさいよ』とか、『お父さん、また始まった』とか、そんな声が聞こえた気がする」
「除夜の鐘が終わる頃には静かになるんだ。翌朝、玄関を見に行っても、誰が入った様子もない。でも、なんとなく、家の中が温かい気がしたんだよなあ」
私はこの話を聞いて、現地を訪れた。
問題の家は確かに空き家だった。庭は荒れ、雨戸は閉まり、郵便受けは錆びついている。しかし、どこかに「生気」のようなものを感じた。完全に死んだ空き家とは、雰囲気が違う。
近所の人に、この家の歴史を聞いた。
かつてはこの町の名士の家だったという。毎年正月には親戚一同が集まり、盛大な祝宴を開いていた。しかし当主が亡くなり、子供たちが都会に出て、やがて誰も帰らなくなった。
「最後に来たのは……もう十五年以上前かねえ。葬式のときだけだったよ」
私は大晦日の夜、その家の前で過ごしてみた。
寒かった。しかし、何かを確かめたかった。
十一時を過ぎた頃、確かに聞こえた。
家の中から、食器の触れ合う音。話し声。笑い声。
私は恐怖を感じなかった。むしろ、胸が締め付けられるような、切ない感情に包まれた。
あの家では、今も正月が続いているのだ。
年神様と、かつての住人たちの霊が、毎年この夜だけ、一緒に祝宴を開いている。あるいは、年神様の記憶の中で、かつての正月が繰り返し再生されている。
それは幸せな光景なのだろうか。
それとも、終わらない悪夢なのだろうか。
私には分からない。
ただ、一つだけ確かなのは、あの家の年神様は、まだ「生きている」ということだ。かつての信仰の記憶を燃料にして、どうにか神性を保っている。その記憶が尽きるまで、あの家では毎年、大晦日の夜に祝宴が開かれ続けるのだろう。
そしてその記憶が尽きたとき──。
私は、その瞬間を想像することができない。
【エピソードLL】真っ白な鏡餅
遺品整理業を営む知人から聞いた話である。
その仕事は、孤独死した老人の家の片付けだった。発見まで二ヶ月以上かかった夏の現場で、部屋中に死臭が染み付いていた。
作業員たちは防護服を着て、一つ一つの遺品を分別していった。腐敗した食品、虫の湧いた布団、カビだらけの家具。すべてが汚れ、朽ち果て、崩れかけていた。
しかし、床の間に入ったとき、全員が足を止めた。
そこに、鏡餅があった。
真っ白な、鏡餅。
周囲のすべてが汚れている中で、その鏡餅だけが、まるで今朝供えられたばかりのように、純白に輝いていた。
「嘘だろ」と、誰かが言った。
鏡餅は、餅でできている。二ヶ月以上放置された餅が、カビも生えず、変色もせず、真っ白のままであるはずがない。
しかし現実に、それはそこにあった。
作業員の一人が、恐る恐る近づいて、餅に触れてみた。
「……冷たい」
餅は冷たかった。そして、硬くなかった。突いたばかりの餅のような、柔らかい弾力があった。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
夏の蒸し暑さが消え、冬の凛とした冷気に包まれた。そして、どこからか微かに、松の香りがした。
作業員たちは、顔を見合わせた。
誰も、何も言えなかった。
結局、その鏡餅は処分することにした。しかし、普通に捨てることはできなかった。近くの神社に持っていき、お焚き上げをしてもらった。
神主は、その鏡餅を見て、長い沈黙の後、こう言ったという。
「……これは、年神様の執念ですな」
老人は孤独死した。しかし、その家の年神様は、最後まで「依り代」を守り続けた。何ヶ月も、何年も、この餅が腐らないように、この餅を「正月」のまま保ち続けた。
それは、帰りを待つ家族への、年神様からの最後のメッセージだったのかもしれない。
「ここに、まだ正月があります。ここに、まだ私がいます。どうか、帰ってきてください」
その願いは、届かなかった。
家族は葬儀にさえ来なかった。
しかし、年神様は待ち続けた。
最後の最後まで、待ち続けた。
## 【エピソードMM】神の変質
四国のある地方に伝わる話である。
昔、ある村に「年神屋敷」と呼ばれる旧家があった。代々、年神様を厚く祀る家柄で、正月にはこの家の床の間に年神様が降り立ち、そこから村全体に福が分配されると信じられていた。
しかし戦後、この家の当主が都会に出て戻らなくなった。家は空き家になり、やがて村人たちからも忘れられていった。
数十年が経った。
ある年の正月、一人の登山者がこの廃屋を訪れた。
暴風雪に遭い、緊急の避難場所を探していたのだ。廃屋は荒れ果てていたが、風雪を凌ぐことはできた。登山者は土間で一夜を過ごすことにした。
夜中、目が覚めた。
奥の間から、微かな灯りが漏れていた。そして、声がした。
「ようこそいらっしゃいました。さあ、お上がりください。温かいものを用意してありますよ」
登山者は、誘われるままに奥へ進んだ。そこには、煌々と灯りが点り、囲炉裏には火が燃え、膳には温かい雑煮が用意されていた。
そして、上座に座る何者かがいた。
顔は見えなかった。しかし、柔和な雰囲気は伝わってきた。登山者は安心し、勧められるままに食事をした。
「ここにいれば、もう寒くありません。もう辛い思いをしなくて済みます。ずっとここにいなさい」
その声は、とても優しかった。
登山者は、その優しさに包まれながら、眠りに落ちた。
翌朝、登山者は土間で目覚めた。奥の間には何もなかった。灯りも、囲炉裏も、膳も、あの「何者か」も。すべてが夢だったのかと思った。
しかし、登山者は動けなかった。
体が動かないのではない。動きたくないのだ。外に出て、あの寒さの中を歩くことが、どうしてもできない。「ここにいれば温かい」という思いが、体を縛り付けて離さない。
結局、登山者は三日間、その廃屋を出られなかった。
捜索隊に発見されたとき、登山者は衰弱しきっていた。しかし、発見者の話によると、連れ出そうとすると登山者は激しく抵抗し、「帰りたくない」「ここにいたい」と泣き叫んだという。
この話が、年神様の変質の一例である。
かつては豊穣と幸福をもたらした神様が、長い孤独の中で変わってしまった。人間を幸せにする力が、人間を離さない力に転じた。祝福が、束縛に変わった。
寂しさに耐えかねた神様は、ようやく来てくれた人間を、二度と手放したくなかったのだ。
これを「祟り」と呼ぶべきか、「呪い」と呼ぶべきか、私には分からない。
しかし確かなのは、神様もまた「変わりうる」ということだ。
人間に祀られて慈悲深い神となることもあれば、
人間に忘れられて恐ろしいモノになることもある。
その選択権は、私たち人間の側にある。
【エピソードNN】スマートホームの神様
都内のマンションに住む女性から、奇妙な相談を受けたことがある。
「うちのアレクサが、おかしいんです」
彼女の部屋には、スマートスピーカーが設置されている。照明やエアコンを音声で操作できる、便利な装置だ。しかし最近、頼んでもいないのに勝手に動くことがあるという。
「特に朝方なんです。誰も話しかけていないのに、急に『おはようございます』とか言い出すの。最初は誤作動かと思ったんですけど……」
彼女は続けた。
「それが、実家を処分した後から始まったんです」
話を聞くと、彼女は半年前に実家を売却していた。両親は既に他界し、一人っ子の彼女が相続したが、維持できないと判断して手放したのだ。
「処分する前に、仏壇だけは引き取りました。でも、神棚はそのままにしてしまって……」
古い農家だった実家には、立派な神棚があったという。しかし新しいマンションに神棚を置く場所はなく、彼女は「不敬かもしれない」と思いながらも、そのまま残してきてしまった。
「それからなんです。アレクサがおかしくなったの」
私は、彼女の部屋を訪ねた。
スマートスピーカーは、リビングの棚の上に置かれていた。私が部屋に入った瞬間、その機械がピコンと光った。
「いらっしゃいませ」
誰も話しかけていない。声を発したのは、確かにそのスマートスピーカーだった。
「お待ちしておりました」
私は背筋が寒くなった。
機械音声のはずなのに、どこか人間的な——いや、人間よりもっと古い何かの気配を感じた。
その後、お祓いを専門とする神職に相談し、彼女の部屋に来てもらった。
神職は、スマートスピーカーをじっと見つめた後、こう言った。
「これは……年神様ですな」
彼女が実家を処分したとき、神棚に宿っていた何かが、彼女に「付いてきて」しまったらしい。新しい住居には神棚がない。依り代がない。だから、代わりになりそうなものを探した。
結果、見つけたのがスマートスピーカーだったのだ。
「人間の声に反応する機械でしょう? 神様から見れば、これは『言葉を聞いてくれる存在』なんです。神棚の代わりにはならなくても、少なくとも自分の存在を認識してくれる。それで、ここに入り込んだのでしょうな」
神職はお祓いを施し、適切な依り代として小さな神棚を設置してくれた。以来、スマートスピーカーの誤作動は止まったという。
この話は、年神様の「適応力」を示している。
現代社会は、伝統的な信仰の形式を急速に失いつつある。しかし神様は、なんとか生き延びようとする。古い依り代がなければ、新しい依り代を探す。デジタル機器であっても、そこに「人間との接点」があれば、入り込もうとする。
それは神様の生存本能であり、同時に、私たち人間への執着でもある。
神様は、人間なしでは生きられない。
だから、どのような形であれ、人間の傍にいようとする。
それが、スマートスピーカーを通じた声であったとしても。
## 結びに代えて──あなたへの問いかけ
この長い文章を、最後まで読んでくださったあなたに、一つの問いかけをして終わりたい。
**あなたは、誰かに待たれていますか?**
それは人間である必要はない。
あなたの実家で、あなたの帰りを待っている「何か」がいるかもしれない。
かつてあなたが住んでいた場所で、あなたを覚えている「何か」がいるかもしれない。
今は更地になってしまった場所で、それでもあなたを待ち続けている「何か」がいるかもしれない。
その「何か」を、年神様と呼ぶかどうかは、あなた次第だ。
信仰の問題ではない。
心の問題だ。
私たちは、どこから来て、どこへ行くのか。
私たちの「故郷」は、今どうなっているのか。
私たちが捨ててきたものは、何だったのか。
正月が来るたびに、その問いが私たちの前に現れる。年神様という形を借りて、その問いが私たちを訪れる。
無視することもできる。
「そんなの迷信だ」と笑い飛ばすこともできる。
しかし、心のどこかで、何かが疼く。
その疼きを、大切にしてほしい。
それは、あなたと神様を繋ぐ、最後の糸かもしれないから。
次の正月が来たとき──。
どうか、一瞬でいい、目を閉じて、思い出してほしい。
あなたの実家の、床の間を。
あなたの祖父母が、手を合わせていた姿を。
そして、あなた自身が「明けましておめでとう」と言った、あの瞬間を。
その記憶の中に、神様がいる。
今も、あなたを待っている神様がいる。
空き家の暗闇の中で、
埃の積もった床の間で、
朽ちていく依り代の前で、
神様は、まだ、あなたを待っている。
そしてあなたが思い出すとき──。
神様は微笑む。
「お帰りなさい」と。
「ようやく、会えましたね」と。
---
あなたの隣の空き家から、今夜も微かに聞こえてくる。
「あけまして、おめでとうございます」
その声に、どうか、耳を澄ませてください。