窓辺の、誰も知らない悲鳴
夏の終わり、私はあることに気づいてしまった。
向かいのマンションのベランダに、今年もLED提灯が灯っている。
去年と同じ場所、同じ角度、同じ青白い光。
住人が変わったのか、それとも同じ人が同じ手順でスイッチを入れたのか。
どちらにせよ、その光は去年と寸分違わぬ均一さで闇を切り裂いている。
炎ならば、そうはいかない。
風が吹けば傾き、雨が近づけば怯え、虫が寄れば揺らめく。
炎とは、環境との対話そのものだ。
だがあのLEDは、まるで真空の中に封じ込められた標本のように、何にも応答せず、ただ光っている。
ふと、その光の周りを何かが旋回しているように見えた。
蛾だろうか。
いや、蛾にしては軌道が不規則すぎる。
近づいては離れ、離れては近づく。
まるで何かを確かめようとして、そして何度も裏切られているかのような動き。
私は窓を閉めた。
エアコンの効いた部屋の中で、なぜか背中だけがひんやりと冷たかった。
あの光景を見てから、私の中で長年眠っていた記憶が、ゆっくりと解凍され始めた。
祖母の家の、薄暗い仏間。
蝋燭の炎が作り出す、生き物のような影。
線香の煙が天井に向かって昇っていく、あの独特の重力に逆らう動き。
そして何より、火が発するあの「熱」。
顔を近づけると頬が温まり、遠ざかると寂しさすら覚えるあの感覚。
「火は生きているんだよ」
祖母はよくそう言っていた。私は子供心に、それを詩的な比喩だと思っていた。
だが今、四十年以上の時を経て、その言葉の重さを別の角度から理解し始めている。
もしも火が「生きている」のだとすれば、LEDは何なのか。
そして、その「生きていない光」で先祖を迎え、送ることの意味を、私たちは本当に理解しているのだろうか。
このエッセイは、LED提灯という現代の利器に潜む、ある種の「霊的な欠陥」について考察するものである。
科学的な正確性よりも、民俗学的な想像力と、失われつつある感覚の記録を優先して書き進める。
お盆とは、死者が一時的にこの世に戻ってくる期間だと言われる。
迎え火で道を照らし、送り火で帰路を示す。
その「火」が、いつの間にか「光」に置き換えられたとき、死者たちは何を感じているのだろうか。
窓の外では、今夜も無数のLEDが都市を照らしている。
その一つ一つが、もしかすると帰れなくなった魂を閉じ込める「冷たい檻」なのかもしれない。
火は「生」、LEDは「静」――熱という名の羅針盤
「火は生きている」という言葉の真意
火を見つめていると、不思議な感覚に襲われる。
揺らめく炎の中に、何か意思のようなものを感じてしまうのだ。
風もないのにふっと傾いたり、消えそうになっては盛り返したり。
まるで呼吸をしているかのように、炎は絶え間なく姿を変え続ける。
これは錯覚ではない。
火は実際に「生きている」のだ。
少なくとも、生命の定義のいくつかを満たしている。
火は酸素を「呼吸」する。
燃料を「摂取」し、熱と光を「排出」する。
周囲の環境に「反応」し、条件が整えば「増殖」さえする。
そして最も重要なことに、火はいつか「死ぬ」。
燃料が尽きれば、酸素が断たれれば、水をかけられれば、火は消える。
その有限性こそが、火を生命たらしめている。
祖母の家の仏壇には、いつも蝋燭が灯っていた。
電気が普及してからも、祖母は頑なに蝋燭を使い続けた。
「じいさまが帰ってくるときの目印だからね」
祖母はそう言って、毎朝丁寧に蝋燭を灯した。
その手つきには、ガスコンロに火をつけるときとは明らかに違う、ある種の敬意のようなものが込められていた。
私が中学生の頃、一度だけ祖母に尋ねたことがある。
「電気の方が安全だし、長持ちするのに、どうして蝋燭にこだわるの」
祖母は少し困ったような顔をして、それから窓の外を見た。
「電気の光はね、冷たいんだよ」
「冷たい? でも、電球だって熱くなるよ」
「そうじゃないんだ。
電気の光には、命がないの。
揺れないでしょう。
息をしないでしょう。
死なないでしょう」
祖母は蝋燭の炎を見つめながら続けた。
「死なない光は、死んだ人には見えないんだよ。
だって、あっちの世界には、死なないものなんてないんだから」
その言葉の意味を、私は長い間理解できなかった。
死者が火を求めるのはなぜか。
民俗学的な解釈の一つに、「体温の投影」という説がある。
生きている間、人間の体温は常に三十六度前後を保っている。
その温もりこそが、生命の証だ。
死ぬということは、その温もりを永遠に失うということでもある。
お盆に帰ってくる先祖の霊は、失った体温を求めているのかもしれない。
だからこそ、熱を発する火に引き寄せられる。
炎の温もりの中に、かつて自分が持っていた「生」の残滓を見出そうとしている。
火は、死者にとっての「生命のシミュレーター」なのだ。
揺らめく炎を見つめていると、まるで自分がまだ生きているかのような錯覚を覚える。
酸素を吸い、熱を発し、やがて消えていく。
その儚いサイクルこそが、死者にとって最も親しみのある「生」の形なのかもしれない。
だが、LEDにはそれがない。
LEDは死なない。
電池が切れるか、回路が壊れるまで、LEDは永遠に同じ光を発し続ける。
揺らめくことも、息をすることも、消えることもない。
いや、正確に言えば「消える」ことはある。
だがそれは「死」ではない。
スイッチを切れば消え、入れれば点く。
それは生死ではなく、オンとオフだ。
祖母の言葉を借りれば、死なない光は、死んだ人には見えない。
いや、見えないのではないかもしれない。
見えてはいるが、理解できないのだ。
死者にとって、死なないものは存在しないはずのものだから。
LEDの光は、死者にとっての「蜃気楼」なのかもしれない。
近づこうとしても決して触れられない、実体のない幻。
「熱のない光は、死者にとっての蜃気楼だよ」
祖母が最後の盆に、ぽつりと漏らした言葉が、今も耳の奥に残っている。
物理的な「熱」が魂を導く仕組み
火が発するものは、光だけではない。
熱がある。
煙がある。
音がある。
匂いがある。
火とは、五感のすべてに訴えかける、総合的な現象なのだ。
対してLEDが発するものは、光だけだ。
わずかな熱を発することはあるが、それは炎の熱とは質が根本的に異なる。
炎の熱は赤外線として放射され、離れた場所にいても肌で感じることができる。
それは「届く」熱だ。
一方、LEDの発する熱は、半導体素子の抵抗によって生じる廃熱に過ぎない。
光を生むための副産物であり、何かに届けるための熱ではない。
民俗学において、赤外線と霊魂の関係について興味深い仮説がある。
赤外線は、人間の目には見えないが、確実に存在する「不可視の熱」だ。
そして霊魂もまた、目には見えないが存在すると信じられてきたものだ。
この両者には、ある種の親和性があるのではないか。
炎から放射される赤外線は、生者には「温もり」として感じられる。
だが死者にとっては、それ以上の意味を持つのかもしれない。
彼らが失った「体温」の記憶を呼び覚ます、一種の信号として機能しているのではないか。
迎え火の炎が放つ赤外線は、あの世とこの世の境界を越えて、死者に「ここに来い」と呼びかけているのかもしれない。
そして送り火の赤外線は、「こちらへ戻れ」という帰路の指標になっているのかもしれない。
LEDは赤外線をほとんど発しない。
正確に言えば、赤外線LEDというものは存在するが、照明用のLEDは可視光のみを効率よく発するように設計されている。
つまり、LED提灯は「光」は発するが、「呼びかけ」は発していないのだ。
死者にとって、それはどう映るのだろうか。
遠くから見れば、確かに光っている。
だが近づいても、温もりがない。
触れても、熱がない。光があるのに、熱がない。
その矛盾に、死者は困惑するのではないか。
もう一つ、火には煙がある。
線香の煙、迎え火の煙、送り火の煙。
日本の供養において、煙は極めて重要な役割を果たしてきた。
煙には「質量」がある。
目に見え、匂いがあり、空気の流れに乗って移動する。
それは光とは違う、物質的な存在だ。
そして興味深いことに、煙は必ず上に昇る。
熱せられた空気は軽くなり、上昇気流を生む。
煙はその流れに乗って、天へと昇っていく。
この「上昇」という動きに、人々は霊魂の帰還を重ねてきた。
煙が昇るように、魂もまた天へと還っていく。
送り火の煙は、死者を送る「道」そのものなのだ。
LEDには煙がない。
当たり前のことだ。
LEDは燃焼を伴わない。
だから煙も出ない。
それは「クリーン」であり、「安全」であり、「環境に優しい」ことの証だ。
だが、その清潔さが、霊的なコミュニケーションを遮断してしまっているのではないか。
煙とは、この世とあの世を繋ぐ「媒体」だったのかもしれない。
質量を持ち、上昇し、やがて消えていく。
その性質が、霊魂にとっての「乗り物」として機能していたのではないか。
LED提灯には、その「乗り物」がない。
光はあるが、魂が乗るべき煙がない。
死者は目的地を示されながら、そこへ至る手段を奪われている。
現代の「クリーンな供養」は、実は「孤立した供養」なのかもしれない。
私たちは先祖を迎えようとしながら、彼らが来るための道を舗装し損ねているのだ。
「波長」の乖離――青白い光が招く違和感
火の色は、オレンジだ。
正確に言えば、火の色は温度によって変化する。
低温の炎は赤く、高温になるにつれて橙、黄、白へと変化していく。
だが、蝋燭や提灯、焚き火といった、私たちが日常的に目にする炎は、おおむね橙色から黄色の範囲に収まる。
この色の正体は、光の「波長」だ。橙色の光は、おおよそ五百九十から六百二十ナノメートルの波長を持つ。
人間の目は、この波長を「温かい色」として知覚する。
夕焼け、暖炉、蝋燭。橙色は、私たちの脳に「安心」と「温もり」を連想させる。
一方、多くのLEDは青白い光を発する。
白色LEDの多くは、青色LEDに黄色の蛍光体を組み合わせて作られている。
そのため、白色LEDの光には、青色の波長成分が多く含まれている。
四百五十から四百九十ナノメートルの、鋭く冷たい光。
人間の脳は、この波長を「覚醒」と「警戒」に結びつける。
青い光は、朝の空の色であり、昼間の色だ。
私たちの体内時計は、青い光を浴びると「起きろ」「動け」という信号を発する。
だから夜にスマートフォンを見ると眠れなくなる。青い光は、休息の対極にある。
死者は、どちらの光を求めるだろうか。
お盆とは、死者が一時的に「休息」する期間だと解釈できる。
あの世での長い時間を経て、一年に一度だけ、懐かしい家族のもとに帰ってくる。
それは彼らにとっての安らぎであり、温もりを取り戻すひとときであるはずだ。
その休息の場に、青白い光があったらどうだろう。
「起きろ」「動け」という波長を浴びせられる死者は、安らげないのではないか。
迎えられたはずなのに、落ち着かない。
帰ってきたはずなのに、居場所がない。
その違和感が、死者の魂を不安定にさせるのではないか。
昆虫は、特定の波長の光に引き寄せられることが知られている。
蛾が灯りに集まるのは、彼らが月の光を頼りに飛行しているからだと言われる。
月の光を目指して飛んでいた蛾が、より強い人工の光に惑わされて、その周りをぐるぐると回り続けてしまう。
霊魂にも、同じようなことが起きているのではないか。
炎のオレンジ色の波長を頼りに帰ってきた死者が、LED の青白い光に惑わされる。
本能的に光へ向かうが、たどり着いた先にあるのは、求めていたものとはまったく違う「冷たい光」だ。
困惑した死者は、それでも光の周りを離れられない。
なぜなら、光があるのだから。
光があるなら、そこに温もりがあるはずだ。
かつてはそうだった。光と熱は、常にセットだった。
だから離れられない。
期待して近づき、裏切られて離れ、それでもまた近づいてしまう。
あの夜、向かいのマンションのLED提灯の周りを旋回していたものは、蛾だったのかもしれない。
だが、もしかすると、それは蛾ではなかったのかもしれない。
さらに恐ろしい仮説がある。
LEDの冷たい光に長時間さらされた霊魂は、その「冷たさ」に染まってしまうのではないか。
温もりを求めて来た死者が、冷たい光に囲まれて過ごす数日間。
彼らの魂は、少しずつ熱を失っていく。
かつて持っていた体温の記憶が、LEDの青白い光に上書きされていく。
そして送り火の夜、彼らはもはや「温かい死者」ではなくなっている。
冷え切った魂。
かつての温もりを忘れた存在。
そんな状態であの世に戻った彼らは、翌年また帰ってくるのだろうか。
それとも、もはや温もりを求める理由すら思い出せなくなっているのだろうか。
祖母が言っていた。
「冷たいものを置いたら、じいさまが霜焼けになって、二度と帰ってこれなくなる」
私はその言葉を、祖母特有の大げさな表現だと思っていた。
だが今、その言葉の真意が、骨身に沁みるようにわかる。
LEDは、死者を凍らせるのだ。
光があるのに温もりがない。
その矛盾が、死者の存在そのものを変質させてしまう。
温かかったものが、冷たくなる。
帰りたかったものが、帰れなくなる。
そしてそのことに、生者は気づかない。
だって、光は灯っているのだから。
毎年同じ場所に、同じ角度で、同じ明るさで。
去年と同じようにお盆を迎え、去年と同じように送り火を焚いたつもりになっている。
だが、その光が照らしているのは、本当に「帰ってきた」先祖なのだろうか。
それとも、帰れなくなった、冷え切った何かなのだろうか。
閉じ込められた魂――出口なき「光の迷路」
影を殺す光、行き先を奪う光
影について、考えたことがあるだろうか。
私たちは普段、光ばかりを意識する。
明るい、暗い、眩しい、薄暗い。
光の量や質については敏感に反応するのに、影についてはほとんど意識しない。
影は光の「不在」であり、「欠如」であり、つまり「無」だと思い込んでいる。
だが、影とは本当に「無」なのだろうか。
古来、日本人は影を特別な存在として扱ってきた。
影踏み遊びには「影を踏まれると魂を抜かれる」という禁忌があった。
影法師という言葉には、影そのものが一つの「存在」であるという感覚が込められている。
影は光の欠如ではなく、光とは別の、もう一つの世界への入口だったのだ。
お盆において、この「影」が決定的に重要な役割を果たしていることを、現代の私たちは忘れてしまっている。
迎え火を焚くとき、炎は光を放つと同時に、濃い影を作り出す。
揺らめく炎が作る影もまた、揺らめく。
明と暗が絶え間なく入れ替わり、境界線が曖昧になる。
その曖昧さの中に、この世とあの世の境界を越える「隙間」が生まれるのだと、祖母は教えてくれた。
「火を焚くとね、影が躍るでしょう。
あの躍っている影の中を通って、ご先祖様は帰ってくるんだよ」
子供の頃、私は庭で焚いた迎え火をじっと見つめていた。
炎の向こう側に広がる闇。
その闘と光の境界線が、波打つように揺れている。
確かに、そこには何かが通り抜けられそうな「揺らぎ」があった。
送り火もまた同じだ。
炎の光と影の境界を通って、死者はあの世へと帰っていく。
光だけでは足りない。
影がなければ、帰り道がないのだ。
LEDの光は、影を殺す。
正確に言えば、LEDは非常に均一な光を発する。
点光源である炎と違い、LEDは面光源に近い発光をするものが多い。
光が均一に拡散するため、濃い影ができにくい。
できたとしても、その輪郭はぼんやりとして曖昧だ。
いや、この「曖昧さ」は、炎の作る曖昧さとは質が違う。
炎の影は、明確な境界線を持ちながら揺らいでいる。
「ここからが影です」という線がはっきりとあり、その線自体が動いている。
だがLEDの影は、最初から境界線が不明瞭だ。
どこからが影で、どこからが光なのか、判然としない。
グラデーションのように、光が徐々に薄れていく。
この違いが、死者にとって致命的なのではないか。
炎の影は「入口」だ。
揺らめく境界線は「ここを通れ」という合図だ。
だがLEDの光が作る曖昧な影は、入口ではない。どこにも繋がっていない、ただの薄暗がりだ。
死者はその薄暗がりの中をさまよい、どこにも行けないまま立ち尽くしている。
迎え火をLEDで行うということは、先祖を呼びながら、玄関のドアを閉めているようなものだ。
「お帰りなさい」と声をかけながら、家の鍵を二重にかけている。
光は見える。
声は聞こえる。
だが、入る場所がない。
さらに深刻なのは、送り火の場合だ。
迎え火では、死者は「入れない」だけだ。
入れなければ、あの世に留まるだけのこと。
悲しいことではあるが、致命的ではない。
だが送り火で同じことが起きたら、事態は一変する。
こちら側に来てしまった死者が、帰り道を見失う。
入口として機能した境界線が、出口としては機能しない。
来たときは炎の迎え火だったのに、帰るときはLEDの送り火。
非対称な扉は、入ることはできても出ることができない。
あるいは、迎え火も送り火もLEDだった場合。
そもそも死者はこちら側に来ることすらできず、しかし光に引き寄せられて、境界線の近くをうろうろしている。
来ることもできず、戻ることもできない。
お盆の数日間、彼らはどこにいるのだろう。
この世でもあの世でもない、光に照らされた狭間の領域に、立ち尽くしているのではないか。
祖母の家の隣に住んでいた老人が、ある年の盆にぽつりと漏らした言葉がある。
「近頃の盆は、帰ってきた気がせんのよ」
その老人は、息子の家に引き取られてから、LED提灯で盆を迎えるようになったらしい。
便利だし、火事の心配もない。
息子夫婦は、そう言って最新の提灯を仏壇に飾った。
「光っとるのは光っとる。
でもな、婆さんの気配がせんのよ。
前は、盆になると何かこう、空気が変わる感じがあったんじゃが」
老人は首を傾げていた。
私もその時は、年のせいで感覚が鈍ったのだろうと思っていた。
だが今は違う解釈をしている。
婆さんは、来たくても来られなかったのではないか。
現代の日本の夜は、明るすぎる。
都市部では、完全な闇を見つけることが難しい。
街灯、看板、自動販売機、コンビニの明かり、マンションの共用灯。
どこを向いても何らかの光源があり、影が薄い。
その多くがLEDに置き換わり、かつての白熱灯が持っていたわずかな「熱」すらも、都市から消えつつある。
死者にとって、これは一種の「ホワイトアウト」なのではないか。
雪山で遭難したとき、四方を白い雪に囲まれると、方向感覚が失われる。
上下左右の区別がつかなくなり、どちらに進めばいいのかわからなくなる。
それが「ホワイトアウト」だ。
現代の都市の夜は、死者にとってのホワイトアウトなのかもしれない。
どこを見ても光がある。
だがその光に温もりがない。どこにも「入口」がなく、どこにも「出口」がない。均一な光の海に浮かんで、方向感覚を失った死者たち。
彼らは毎年のお盆に、家族のもとへ帰ろうとして、そしてたどり着けないまま、光の迷路をさまよっているのではないか。
あなたの住む街の夜を、想像してみてほしい。
見渡す限りの光。
そのほとんどがLED。
冷たく、均一で、揺らがない光。
影は薄く、境界は曖昧。
どこにも濃い闇がなく、どこにも深い影がない。
その光景を、死者の目で見たらどう感じるだろうか。
光に満ちているのに、どこにも行けない。
明るいのに、道が見えない。
その絶望を、私たちは想像したことがあるだろうか。
「冷たいトラップ」――LEDに吸い寄せられる迷い子たち
先述の「蛾と灯り」の比喩を、もう少し深く掘り下げてみたい。
蛾が灯りに集まる習性は、「走光性」と呼ばれる。
光に向かって移動する本能だ。
だが蛾は、光を「好いている」わけではない。
彼らは月明かりを頼りに飛行する生き物であり、人工の光はその本能を狂わせるバグのようなものだ。
光源に向かって飛ぶ蛾は、幸福なのだろうか。
おそらく違う。
彼らは混乱し、疲弊し、やがて力尽きる。
光の周りをぐるぐると旋回し続け、目的地にたどり着けないまま消耗していく。
人工の光は、蛾にとって「罠」なのだ。
霊魂にも、同じことが起きているとしたら。
温もりを求める本能が、死者にはあるのかもしれない。
失った体温を取り戻したいという、消えることのない渇望。
その本能が、光に向かわせる。
なぜなら、生きていた頃、光には常に熱が伴っていたからだ。
だがLEDの光には、熱がない。
死者は光に引き寄せられ、近づき、そして何も得られないことに気づく。
だが本能は光から離れることを許さない。
光があるなら、そこに熱があるはずだ。
かつてはそうだった。
だから離れられない。
蛾が灯りの周りを旋回し続けるように、死者もまたLEDの光の周りを旋回し続ける。
熱を求めて、しかし永遠に得られないまま。
その孤独は、想像を絶する。
ある都市伝説がある。
深夜のスーパーマーケットや、二十四時間営業のコンビニエンスストアには、無縁仏が集まってくるというものだ。
オカルト的な与太話だと、多くの人は一笑に付すだろう。
だが私は、この話に妙な説得力を感じている。
コンビニやスーパーの照明は、ほぼ例外なくLEDだ。
明るく、均一で、二十四時間消えることがない。
そしてそれらの店舗は、日本中いたるところにある。
住宅地のど真ん中にも、かつて墓地だった場所の近くにも、無数のコンビニが立ち並び、冷たい光を放っている。
行き場を失った霊魂が、その光に引き寄せられる。
お盆に帰るべき場所を見失った魂。
身寄りのないまま死んだ魂。
供養されることなく忘れ去られた魂。
彼らは温もりを求めてさまよい、そしてコンビニの光にたどり着く。
だがそこに温もりはない。
いくら近づいても、冷たいだけだ。それでも離れられない。
他に行くところがない。
お盆が来ても迎えてくれる人がいない。
だから、せめて光のある場所に留まろうとする。
深夜のコンビニの、妙な冷たさを感じたことはないだろうか。
エアコンが効きすぎているわけでもないのに、なぜか背筋が寒い。
店内は明るいのに、どこか陰鬱な空気が漂っている。
それを「気のせい」で片付けることは簡単だ。
だが、その「気のせい」が、本当にただの気のせいなのかどうか、私には確信が持てない。
冷え切った魂たちが、温もりを求めて集まっている。
だが得られるのは、さらなる冷たさだけ。
その絶望が、空間全体を重く沈めている。
そんな想像が、頭から離れない。
もう一つ、恐ろしい可能性がある。
冷たい光の周りを旋回し続けた死者は、やがて諦めて別のものを求め始めるのではないか。
LEDからは、どれだけ待っても熱が得られない。
そのことを、長い時間をかけて学習した死者は、別の熱源を探し始める。
人間だ。
生きている人間の体は、三十六度前後の体温を持っている。
その温もりは、どんなLEDよりも、死者が求めているものに近い。
深夜、あなたがコンビニを出たとき、ふと寒気を感じたことはないだろうか。
夏なのに、鳥肌が立つような冷たさ。
振り返っても誰もいない。
だが、何かが背後にいるような感覚が消えない。
それは、あなたの体温を求めて近づいてきた、冷え切った霊魂かもしれない。
LEDの光に引き寄せられ、しかし何も得られず、絶望の果てに見つけた「熱い」存在。
彼らは生者にすがりつき、その体温を奪おうとする。
悪意があるわけではない。
ただ、凍えているだけだ。
長い間、冷たい光の中をさまよい続けて、芯まで冷え切ってしまった魂が、最後に見つけた温もり。
その「重さ」を感じたことがある人は、少なくないのではないか。
理由のわからない倦怠感。
消耗。
疲労。
夏なのに冷えが取れない。
肩が異様に重い。
そんな症状を、単なる体調不良として片付けていないだろうか。
冷え切った霊魂は、生者の温もりを吸い取る。
彼ら自身が温まるわけではない。
奪った熱は、すぐにまた冷えていく。
だから際限なく求め続ける。
生者から熱を奪い、それでも満たされず、また奪う。
かつて、先祖の霊は迎え火で温まり、数日間を家族と過ごし、送り火で温かいまま帰っていった。
その循環が正しく機能していた時代には、霊魂が生者から熱を奪う必要はなかった。
だがLEDの時代、その循環は壊れてしまった。
デジタルな「揺らめき」が招く狂気
最近のLED提灯には、「ゆらぎ機能」が搭載されているものがある。
マイコン制御によって光の強弱を変化させ、あたかも炎が揺らめいているかのような効果を生み出す。
メーカーは「本物の火のようなリアルな揺らぎ」と宣伝し、火災のリスクなく風情を楽しめると謳う。
だが、その「揺らぎ」は、本当に炎の揺らぎと同じものだろうか。
自然界には「1/fゆらぎ」と呼ばれるパターンが存在する。
小川のせせらぎ、木漏れ日、そよ風、心臓の鼓動。
これらに共通するのは、規則性と不規則性が絶妙なバランスで混在しているリズムだ。
完全にランダムでもなく、完全に規則的でもない。
そのパターンに、人間は心地よさを感じる。
炎の揺らめきも、1/fゆらぎを持っている。
気流、酸素濃度、燃料の状態、無数の要因が絡み合って、予測不能でありながら、どこか心地よいリズムを生み出す。
LED提灯の「ゆらぎ機能」は、この1/fゆらぎを模倣しようとしている。
アルゴリズムによって生成された擬似乱数が、光の強弱を制御している。
しかし、決定的な違いがある。
自然の1/fゆらぎは、環境との相互作用から生まれる。
炎は風に応答し、酸素に応答し、燃料に応答する。
その「応答」が、ゆらぎを生む。
一方、LEDのゆらぎはプログラムに従っているだけだ。
環境が変わっても、風が吹いても、LEDの「ゆらぎ」は変わらない。
それは対話ではなく、モノローグだ。
死者は、その違いを見抜くのではないか。
最初は騙されるかもしれない。
遠くから見れば、確かに揺らめいている。
本物の火だと思って近づいてくる。
だが近づくにつれて、何かがおかしいと気づき始める。
揺らぎが、機械的だ。
規則性の中に埋め込まれた不規則性。
だがその不規則性すらも、どこか規則的だ。パターンがある。一周すると、また同じリズムが繰り返される。
永遠に。
環境に関係なく。
風が吹いても、手をかざしても。
その「繰り返し」に、死者は狂気を感じ始めるのではないか。
炎の揺らぎは、一度として同じ瞬間がない。
だがLEDの揺らぎは、同じパターンを繰り返す。
最初は気づかない。
だが数時間、数日、数週間とその光の前にいると、パターンが見えてくる。
同じリズム。
同じ強弱。
同じ間隔。
それは死者にとって、悪夢のような体験ではないか。
生きていた頃、火は常に新しかった。
昨日の焚き火と今日の焚き火は違う。
去年のお盆の迎え火と、今年の迎え火は違う。
その「違い」が、時間の流れを教えてくれた。
だがLEDの光には「違い」がない。
昨日も今日も明日も、同じ光、同じ揺らぎ、同じパターン。
時間が止まっている。
いや、時間という概念そのものが、LEDの前では意味を失う。
永遠に同じものが繰り返される空間に閉じ込められる。
それは「死」の追体験ではないか。
あるいは「死」よりもなお恐ろしい、「永遠」という牢獄。
騙されたことに気づいた死者は、どうなるのだろう。
怒るのかもしれない。
悲しむのかもしれない。
狂うのかもしれない。
あるいは、そのすべてかもしれない。
炎だと思って近づいたら、偽物だった。温もりがあると思ったら、冷たかった。
揺らめきがあると思ったら、機械的な繰り返しだった。
三重の裏切り。その絶望は、いかばかりか。
そして彼らは、家の中で「おかしな挙動」を始めるのかもしれない。
電気製品の不調。
特に照明の不具合。
LEDがチカチカと点滅する。
リモコンが効かなくなる。
スマートフォンの画面にノイズが走る。
それを私たちは「故障」だと思っている。
あるいは「電波干渉」だと。
だが、もしかすると。
それは騙されたことに気づいた死者の、小さな抵抗なのかもしれない。「これは違う」「これは本物じゃない」と訴えているのかもしれない。
偽物の火を消そうとして、電気系統に干渉しているのかもしれない。
祖母の家では、そういうことは起きなかった。
蝋燭の火は、死者を騙さない。
本物の火は、正直だ。
熱ければ熱い、消えれば消える。
その誠実さが、死者の怒りを招かない。
私たちは「便利さ」と引き換えに、死者に嘘をつき始めている。
エピソード:電池の異常消耗
知人から聞いた話だ。
彼の実家では、数年前からLED提灯を使うようになった。
高齢の母親が火の管理を不安がったからだという。
最新の、揺らぎ機能付きの立派な提灯。
単三電池四本で、カタログには「連続使用七十二時間」と書いてあった。
お盆の初日、新品の電池を入れて灯りを点けた。
翌朝、提灯は消えていた。
電池切れだ。わずか十時間ほどで、新品のアルカリ電池が空になっていた。
不良品かと思い、また新しい電池を入れた。
その夜も、提灯は翌朝には消えていた。
三日間で、電池を三セット、計十二本消費した。
「故障じゃないか」と息子は言った。
だが提灯をメーカーに送って調べてもらっても、異常は見つからなかった。
テスト環境では、カタログ通り七十二時間持ったという。
奇妙なのは、その三晩、家族全員が悪夢にうなされたことだ。
共通していたのは、「凍えるような寒さ」だった。
夏の盛りだというのに、毛布をかぶっても震えが止まらない夢。
息が白くなるほどの寒さの中で、誰かに腕を掴まれている夢。
その「誰か」の手は、氷のように冷たかった。
四日目の朝、母親がぽつりと言った。
「お父さんが怒っとるんじゃないか」
父親、つまり知人の祖父は、三年前に亡くなっていた。
生前、仏壇の蝋燭の火を大切にする人だった。
その年以降、知人の実家では、お盆の間だけは蝋燭を使うことにしたという。
LED提灯は、物置にしまわれたまま出番がない。
電池は、いったいどこへ消えたのだろう。
知人は、こんな仮説を立てている。
「じいちゃんが、あの光から熱を取ろうとしたんじゃないか。
熱がないから、代わりに電気エネルギーを吸い取って。
でも電気じゃ温まれなくて、何度も何度も試して」
そして最後には、生きている家族の体温まで奪おうとした。
あの「凍える夢」は、祖父が家族に触れようとした痕跡だったのではないか。
私はその話を聞いて、背筋が冷たくなるのを感じた。
次章では、この「冷たい光」の問題が都市空間全体に拡張されていく様子を描く。
マンションのオートロック、孤独死の部屋で灯り続けるLED、そして霊が「電子的なノイズ」として現代のテクノロジーに干渉し始める現象。
私たちの「便利な暮らし」は、霊的な世界との断絶を深めながら、同時に新たな形の「怪異」を生み出しているのかもしれない。
都市化する霊域――マンションのオートロックとLED
結界を突き抜ける光、拒絶される実体
マンションに住んでいると、ある矛盾に気づくことがある。
光は壁を越えるが、人は越えられないという矛盾だ。
隣の部屋から漏れる光。
向かいのマンションの窓明かり。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光。
私たちはそれらを日常的に目にしている。
光は壁を透過し、ガラスを通り抜け、カーテンの繊維の隙間から侵入してくる。
だが人間は、そうはいかない。
壁があれば止まる。
ドアがあれば開けなければ入れない。
オートロックがあれば、暗証番号を知らなければエントランスにすら入れない。
この「光は通すが実体は通さない」という現代の住居構造は、霊魂にとってどのような意味を持つのだろうか。
民俗学において、霊魂の性質については様々な説がある。
一つの有力な考え方は、霊魂は「光に近い存在」だというものだ。
実体を持たず、物理的な障壁を越えることができる。
だからこそ、壁をすり抜けて現れる幽霊の話が各地に伝わっている。
だが、別の考え方もある。
霊魂は、生前の「身体の記憶」を保持しているという説だ。
生きていた頃、ドアを開けて入っていた記憶。
玄関で靴を脱いだ記憶。
その習慣が、死後も霊魂を縛っている。
だからこそ、古い怪談では幽霊は「ちゃんと玄関から入ってくる」のだと。
お盆の先祖返りは、この後者の考え方に基づいている。
迎え火を焚くのは、「ここが入口ですよ」と示すためだ。
先祖の霊は、その火を目印にして、きちんと「正しい入口」から家に入ってくる。
彼らは壁をすり抜けることも、おそらくはできる。
だが、そうしない。生きていた頃の作法を守って、迎え火の灯る場所から、招かれて入ってくる。
それが、礼儀なのだ。生者と死者の間の。
現代のマンションでは、この礼儀が成立しなくなっている。
オートロックという仕組みを考えてみてほしい。
住人と、住人に呼ばれた訪問者だけが入れる。
それ以外の者は、エントランスで足止めを食らう。
防犯上、これは正しい。
だが、霊的な観点からはどうだろうか。
先祖の霊は、オートロックの暗証番号を知らない。
インターホンを押すこともできない。
いや、できたとしても、誰が応答するのか。
「お盆なのでご先祖様がいらっしゃいました」と告げる声が、モニター越しに聞こえてきたら、あなたは解錠ボタンを押すだろうか。
もちろん、これは比喩的な話だ。
霊魂がオートロックを「通れない」と言いたいわけではない。
物理的には、おそらく通れるのだろう。
壁を抜けることができるなら、オートロックなど意味を持たない。
問題は「作法」の方だ。
正しい入口から、招かれて入る。
その礼儀を守ろうとする先祖の霊は、オートロックの前で立ち尽くすことになる。
迎え火がない。
呼び鈴を押しても応答がない。
正面から入る方法がない。
壁を抜けて入ることはできる。
だがそれは、不法侵入だ。
招かれていない者が、勝手に家に入り込む行為だ。
生前、そんなことをした記憶はない。
だから、できない。
私たちの「便利さの追求」は、先祖を「不法侵入者」に変えてしまっているのかもしれない。
正面から迎える手段を奪っておきながら、「どうぞお入りください」と言う。
その矛盾に気づかないまま、お盆を過ごしている。
そしてここで、LEDの光が追い打ちをかける。
ベランダに飾られたLED提灯の光は、マンションの外まで届く。
光は壁を越える。
オートロックも関係ない。
遠くからでも、その冷たい光は見える。
先祖の霊は、その光を目指してやってくる。
光があるなら、そこが入口だろうと思って。
だが、たどり着いた先にあるのは、オートロックのガラスドアだ。
光は中から漏れてきている。
だが入る方法がない。
見えるのに、入れない。
呼ばれているのに、応答がない。
光があるのに、熱がない。
三重の拒絶。
LEDの光は外まで届くが、それは「招待状」ではなく「展示」に過ぎない。
ショーウィンドウ越しに見せられるご馳走のようなものだ。
見えるが、手が届かない。
私たちは無意識のうちに、先祖を「窓の外のショー」として扱っているのかもしれない。
迎えるつもりで、展示している。招くつもりで、見世物にしている。
先祖の霊は、ガラスの外側から、自分たちの子孫が過ごす部屋を見ている。
LEDの冷たい光に照らされた仏壇。
形ばかりの供物。
スマートフォンを見ながら素麺をすする家族。
それを、外から見ている。
入れないまま。
その視線が、ガラスに残っていないだろうか。
マンションの共用廊下を歩いていて、ふと寒気を感じたことはないだろうか。
夏なのに、特定の階だけ空気が冷たい。
特定のドアの前だけ、何か重苦しい。
それを「建物の構造上の問題」で片付けることは簡単だ。
空調の吹き出し口の位置とか、日当たりの具合とか。
だが、もしかすると。
そこには、入れなかった誰かが立っているのかもしれない。
毎年のお盆に、入口を探してやってきて、結局入れないまま帰っていった誰かが。
そして何年も繰り返すうちに、その「待機場所」に留まるようになってしまった誰かが。
オートロックの外側には、そういう「滞留」が起きている可能性がある。
入れない霊が、入口の前で待ち続けている。
お盆が終わっても、帰る方法がわからないまま。
送り火を見ていないから、帰り道が示されていないから。
現代のマンションは、無数の「入れなかった先祖」を抱えている。
エントランスの自動ドアの前。
エレベーターホールの隅。
各階の廊下の端。
そこここに、諦めきれない気配が漂っている。
LED提灯の光だけが、無情にも外まで届いている。
「ここにいますよ」と示しながら、「でも入れませんよ」と拒絶している。
その残酷さに、私たちは気づいていない。
孤独死とLED――消えない「冷たい灯り」の下で
ここで、さらに陰鬱な話題に踏み込まなければならない。
孤独死という現象がある。
一人暮らしの人が、誰にも看取られずに亡くなり、発見されるまでに長い時間が経過するケース。
高齢化と核家族化が進む現代日本では、年々その数が増加している。
孤独死の現場には、ある共通点があると聞いたことがある。
部屋の電気が、点いたままになっていることが多いのだ。
考えてみれば当然のことだ。
人は「死のう」と思って電気を消してから死ぬわけではない。
日常生活の延長として、ある日突然、心臓が止まる。
脳が停止する。
その瞬間、電気のスイッチを操作する余裕などない。
かつての白熱灯や蛍光灯なら、いずれは切れた。
フィラメントが焼き切れ、蛍光管が寿命を迎え、部屋は暗くなった。
それは一種の「服喪」のようでもあった。
住人の死を悼むかのように、光もまた消えていく。
だが、LEDは違う。
LEDの寿命は、四万時間とも六万時間とも言われる。
二十四時間点けっぱなしにしても、五年近く持つ計算になる。
孤独死の発見が数週間、数ヶ月遅れたとしても、LEDは消えない。
消えないまま、部屋を照らし続ける。
変わり果てた住人の姿を、無機質に照らし続ける。
この光景を、想像してほしい。
誰もいない部屋。
いや、「誰もいない」というのは正確ではない。
肉体は、そこにある。
ただし、もう動かない。
呼吸もしない。
心臓も止まっている。
それでも LEDは光り続ける。
時間が経つにつれ、肉体は変化していく。
腐敗が進む。
形が崩れる。
匂いが立ち込める。
だが光は変わらない。
初日と同じ明るさで、同じ色温度で、同じ角度で、その変化を照らし続ける。
もし私が霊魂だったら、これほど恐ろしい状況はない。
自分の肉体が朽ちていくのを、冷たい光の下で見せられ続ける。
目を背けたくても、光があるから見えてしまう。
闇に逃げ込みたくても、LEDは消えない。
自分で消しに行こうにも、もう肉体を動かすことはできない。
暗闇の中なら、見なくて済む。
何も見えないという慈悲がある。
だがLEDの光は、その慈悲を奪う。
見たくないものを、見せ続ける。
終わりなく。
さらに恐ろしいことがある。
光があるせいで、自分の死を自覚できない霊魂がいるのではないか。
目が覚める。
部屋がある。
光がある。
いつもと同じだ。
少し体がだるいが、そのうち治るだろう。
そう思って、立ち上がろうとする。
だが体が動かない。
おかしい。
力が入らない。
ふと、視界の隅に何かが見える。
布団の上に、誰かが横たわっている。
誰だろう。
自分の部屋に、誰かが勝手に入ってきたのか。
近づいて、顔を見ようとする。
だが足が動かない。
そもそも、自分は今どこにいるのだろう。
立っているのか、座っているのか、それすらわからない。
横たわっている人物の顔が、少しずつ見えてくる。
見覚えのある顔。
毎朝、鏡で見ていた顔。
だがどこかおかしい。
色が悪い。
動かない。
息をしていない。
LEDの光が、その顔を照らしている。
その瞬間、理解する。
あれは自分だ。
そして自分は、死んだのだ。
だがLEDは消えない。
日常は続いているかのように光り続けている。
その「日常の継続」が、死の自覚を鈍らせる。
夢を見ているだけかもしれない。
目が覚めれば、また動けるようになるかもしれない。
LEDがまだ光っている。
電気代が勿体無い。
消しに行かなければ。
でも体が動かない。
その混乱が、何日も、何週間も、何ヶ月も続く。
光があるから、終わりが来ない。
終わりが来ないから、次の段階に進めない。
あの世に行くべきなのか、ここに留まるべきなのか、判断がつかない。
だって、部屋は明るいのだから。
まだ「日常」は続いているのだから。
孤独死の部屋で灯り続けるLED。
それは、死者を「死」に閉じ込める檻なのかもしれない。
生にも死にも属せない、宙吊りの状態。
光があるせいで、闇に溶けることもできない。
発見されるまでの数週間、数ヶ月。
その間、霊魂はLEDの光の下で、自分の肉体が朽ちていくのを見ている。
見なければならない。
光が、消えてくれないから。
電子的怪異への変質――光からノイズへ
ここまで、LEDの「光」としての問題を論じてきた。
だがLEDには、もう一つの側面がある。それは「電子デバイス」としての側面だ。
LEDは、半導体素子である。
電流を流すと発光する、電子部品だ。
蝋燭や提灯の火とは、根本的に原理が異なる。
火が化学反応によって光を生むのに対し、LEDは電子の振る舞いによって光を生む。
この「電子デバイスである」という性質が、霊魂と奇妙な相互作用を生んでいるのではないか。
超常現象の研究において、「霊的な存在は電磁場に影響を与える」という説がある。
心霊スポットで機材が誤作動するという話は珍しくない。
カメラのバッテリーが急速に消耗する。
録音機にノイズが混じる。
電波時計が狂う。
これらの現象は、霊魂が何らかの形で電磁場に干渉しているためだと解釈されることがある。
科学的な検証が困難な領域ではあるが、体験談として語られる頻度は高い。
そして興味深いことに、電子機器が普及してから、このタイプの怪異
報告は増加している。
かつての怪異は「視覚的」だった。
幽霊を見た、気配を感じた、冷たい風が吹いた。
五感で捉えられる範囲の現象だ。
だが現代の怪異は、しばしば「電子的」な形で現れる。
テレビにノイズが走る。
スマートフォンの画面が勝手に動く。
パソコンがフリーズする。
電子機器を介して、霊的な存在が「干渉」してくる。
LED提灯は、その絶好の媒体なのではないか。
考えてみれば、LED提灯は「霊魂を呼ぶための電子デバイス」だ。
本来、迎え火は霊魂を引き寄せるためのものだ。
その機能をLEDが(不完全ながらも)果たしているなら、LED提灯の周囲には霊的な存在が集まってくるはずだ。
そして彼らは、そのLEDが「偽物」であることに気づき、怒り、悲しみ、混乱する。
その感情が、LEDという電子デバイスに干渉するとしたら。
最も単純な形は、光の明滅だろう。
消えたり点いたりを繰り返す。
接触不良かと思って確認しても、原因が見つからない。
電池を替えても、コンセントを差し直しても、不規則な明滅が続く。
それは死者からの「信号」なのかもしれない。
モールス信号のような規則性があるわけではない。
だがその不規則な点滅の中に、何かを訴えようとする意思を感じることはないだろうか。
「違う」「これじゃない」「冷たい」「助けて」。
言葉にならない叫びが、光の明滅として表れている。
エピソード:視覚的違和感――光の中のノイズ
ある人から聞いた話だ。
彼女は、実家の仏壇に供えられたLED提灯を、何気なく見つめていた。
お盆の夜。
家族は居間でテレビを見ていて、仏間には彼女一人だった。
揺らぎ機能付きの、少し高価なLED提灯だった。
オレンジ色の光が、ゆっくりと明滅を繰り返している。
本物の炎のようには見えないが、それなりに風情がある。
そう思って、ぼんやりと眺めていた。
いつからか、光の中に何かが混じり始めた。
最初は気のせいだと思った。
目を凝らすと消え、力を抜くとまた現れる。
テレビの砂嵐のような、細かい粒子のちらつき。
オレンジ色の光の中に、灰色のノイズが踊っている。
彼女は目をこすった。
だがノイズは消えない。
次第に、そのノイズが「形」を持ち始めた。
粒子が集まり、輪郭を作り、人の顔のようなものが浮かび上がってくる。
曖昧で、不定形で、だが確かに「顔」だ。
その顔は、こちらを見ていた。
光の中から、恨みがましい目で、じっとこちらを見つめている。
口が動いているようにも見える。
何かを言おうとしている。
だが声は聞こえない。
ノイズの向こう側で、誰かが叫んでいる。
彼女は悲鳴を上げて、仏間から飛び出した。
家族が駆けつけたときには、LED提灯は普通に光っていた。
ノイズも、顔も、どこにもなかった。
「疲れているのよ」と母親は言った。
「お盆で忙しかったから」と。
だが彼女は知っている。あれは幻覚ではなかった。
確かに、誰かがいた。
LEDの光の中に。
電子的なノイズの向こう側に。
本物の火なら、あんなものは見えなかったはずだ。
火の光は純粋だ。
ノイズが混じる余地がない。
だがLEDは、電子デバイスだ。
電気信号で動いている。
だから、霊魂も「電気的な存在」として、そこに入り込むことができたのではないか。
彼女はそれ以来、LED提灯を見ることができなくなった。
どんなに明るくても、その光の奥に何かが潜んでいるような気がして。
私たちは、霊魂のための「依代」を電子化してしまった。
かつての依代は、自然物だった。
木や石、紙や布。
それらは霊魂を受け止め、しかし「支配」はしなかった。
霊魂は依代に宿り、やがて去っていく。
それが自然な循環だった。
だがLEDは違う。
電子デバイスとしてのLEDは、「制御」を前提としている。
回路が電流を制御し、プログラムが明滅を制御し、人間がスイッチで全体を制御する。
その「制御」の構造が、霊魂を捕らえてしまうのではないか。
入ったら、出られない。
制御されているから。
依代として招き入れられ、しかし電子回路の中に閉じ込められる。
出口がプログラムされていないから、自力では抜け出せない。
私たちは「便利な提灯」を作ったつもりで、「霊魂のトラップ」を量産してしまっているのかもしれない。
LED提灯の明滅を、注意深く観察したことがあるだろうか。
普通の明滅。
揺らぎ機能による、プログラムされた明滅。
だが時々、それとは違うパターンが混じることはないだろうか。
一瞬だけ、不自然に長い消灯。
あるいは、異様に短い点滅の連続。
プログラムにはないはずの、不規則なリズム。
それは「ノイズ」かもしれない。
電子回路の不具合かもしれない。
だが、別の解釈もできる。
閉じ込められた誰かが、必死に信号を送っている。
「ここにいる」「助けてくれ」「出してくれ」。
電子回路を乗っ取って、光を点滅させることで、メッセージを発している。
だが私たちは気づかない。
「故障かな」で片付けてしまう。
あるいは、見て見ぬふりをする。
だって、そんなことを真剣に考えたら、怖くて仕方がないから。
科学で制御しているつもりが、実は制御不能な「依代」を量産している。
その現実を、私たちは直視すべき時期に来ているのかもしれない。
熱の記憶を取り戻すために――現代の「灯火」論
わずかな「熱」を供える作法
ここまで、LEDの「冷たさ」がもたらす霊的な問題を論じてきた。
読者の中には、暗澹たる気持ちになった方もいるかもしれない。
現代社会で蝋燭の火を日常的に使うことは、もはや現実的ではない。
火災のリスク、高齢者の安全、集合住宅の規約。
様々な制約が、本物の火から私たちを遠ざけている。
だからといって、先祖を「冷たい檻」に閉じ込め続けていいわけがない。
このジレンマに、解決策はあるのだろうか。
結論から言えば、完全な解決策はない。
LEDは、どこまでいってもLEDだ。
熱を発しない光源に、炎と同じ役割を求めることには無理がある。
それを認めた上で、私たちにできることを考えたい。
祖母が生前、興味深いことを言っていた。
「道具が変わっても、心が変わらなければ、ご先祖様は迷わない」
当時の私は、それを精神論だと思っていた。
「心が大事」という、ありふれた教訓。
だが今は、その言葉に具体的な意味を見出している。
LEDという「冷たい道具」を使いながらも、別の方法で「熱」を補うことはできないか。
道具の欠陥を、人間の行為で補完することはできないか。
いくつかの実践を提案したい。
第一に、香を焚くこと。
線香の煙は、LED提灯が失ったものの多くを補ってくれる。
熱がある。
火を使って線香に点火するため、わずかながら「本物の火」との接点が生まれる。
煙がある。
質量を持ち、上昇し、空間に漂う。
匂いがある。
五感のうち、LEDが満たせない嗅覚を補完する。
そして何より、煙は「道」になる。
第一章で述べたように、煙は天へと昇っていく。
その上昇運動が、霊魂の帰還を導く。
LED提灯で「入口」を示せなくても、線香の煙で「道」を示すことはできる。
お盆の期間中、LED提灯を灯すなら、必ず線香も焚くこと。
できれば一日に数回、煙が途切れないように。
提灯の光が「見せかけの入口」だとしても、煙という「本物の道」があれば、先祖は迷わずに済むかもしれない。
第二に、温かい供物を捧げること。
精進料理、温かいお茶、炊きたてのご飯。
これらには「熱」がある。
LED提灯からは得られない温もりを、食べ物から補う。湯気が立ち昇る様子は、煙と同じく「上昇」の動きを持つ。
その湯気を目印にして、先祖は供物にたどり着けるかもしれない。
冷たい供物よりも、温かい供物を。
これは衛生面での注意が必要だが、供えてすぐに下げれば問題ないだろう。
大切なのは、供える瞬間に「熱」があること。
先祖が来たときに、そこに温もりがあること。
祖母は毎朝、炊きたてのご飯を小さな茶碗に盛って仏壇に供えていた。
「冷めないうちにね」と言いながら、急いで仏間に向かっていた。
その理由を、今なら理解できる。
第三に、自分の体温を意識すること。
これは最も原始的で、最も確実な方法かもしれない。
仏壇の前に座るとき、手を合わせるとき、自分の体が三十六度の熱を発していることを意識する。
その熱が、LED提灯に代わって先祖を導く。
人間の体は、それ自体が「熱源」だ。
先祖が求めているのは、失った体温の記憶だと第一章で述べた。
その体温を、私たち生者が提供することはできないか。
物理的に触れることはできなくても、「ここに温かい存在がいます」と示すことはできる。
具体的には、仏壇の前で過ごす時間を長くすることだ。
LED提灯を灯して終わり、ではなく。
その光の近くに座り、手を合わせ、語りかける。
あるいは黙って、ただ一緒にいる。
その時間が長いほど、私たちの体温は空間に染み込んでいく。
先祖は、その温もりを感じ取れるかもしれない。
「物理的な接触と摩擦が、冷たい供養を温める」
祖母がそう言っていたかどうか、正確には覚えていない。
だが、祖母は実践していた。
毎日、長い時間を仏壇の前で過ごしていた。
掃除をし、花を替え、語りかけ、時には居眠りをし。
その「共にいる時間」が、LEDなどなかった時代の、本当の供養だったのかもしれない。
第四に、物理的な「儀式」を省略しないこと。
迎え火・送り火を、可能な限り本物の火で行うこと。
LED提灯を日常的に使うのは仕方がない。
だが、お盆の始まりと終わりだけは、本物の火を使えないだろうか。
マンションのベランダでも、小さな焙烙(ほうろく)でオガラを焚くことはできる。
火災報知器が心配なら、玄関先や共用部分の許可された場所で。
あるいは、実家に帰省したときだけでも。
「入口」と「出口」だけは、本物であるべきだ。
途中の照明がLEDでも、入口と出口が本物の火であれば、先祖は道を見失わずに済む。
逆に言えば、入口も出口もLEDでは、どこから入ってどこから出ればいいのか、まったくわからなくなってしまう。
すべてを諦める必要はない。
要所だけ押さえればいい。その「要所」が、迎え火と送り火なのだ。
記憶の火は、まだ消えていない
ここまで「行為」について述べてきた。
だが、もっと根本的なことがある。それは「記憶」だ。
人間の脳には、火の記憶が刻まれている。
これは比喩ではなく、進化の事実だ。
人類は数十万年にわたって火と共に生きてきた。
火を囲んで食事をし、火を頼りに夜を過ごし、火で獣を追い、火で土地を拓いた。
その長い歴史の中で、火への親和性は私たちの遺伝子に刻み込まれた。
焚き火を見ると心が落ち着く。
蝋燭の炎を見つめていると時間を忘れる。
それは「懐かしさ」ではなく「本能」だ。
私たちの体は、火を「知っている」のだ。
この記憶は、死んでも消えないのではないか。
霊魂が「かつての自分」の記憶を保持しているなら、火の記憶も保持しているはずだ。
むしろ、死後に残るのは本能的な記憶だけかもしれない。
名前や社会的地位は忘れても、温もりを求める感覚は残る。
炎の揺らめきに惹かれる本能は残る。
だとすれば、私たち生者の側にも、火の記憶がある限り、死者と繋がることができるはずだ。
LEDの問題は、「道具」の問題であると同時に、「記憶」の問題でもある。
私たちが炎を知らなくなれば、炎の記憶は途絶える。
子供たちが焚き火を見たことがなければ、火への本能は薄れていく。
そうなったとき、先祖との接続は完全に断たれる。
道具(ハードウェア)がLEDに変わることは、仕方がない。
だが、祈り(ソフトウェア)に込める「熱」は、私たち次第で維持できる。
仏壇の前で手を合わせるとき、かつて見た焚き火を思い出す。
祖母の家の囲炉裏。
キャンプで焚いた火。
神社で見たどんど焼きの炎。
そのイメージを、祈りの中に込める。
目の前にあるのはLEDでも、心の中には炎がある。
その炎のイメージが、祈りを通じて先祖に届くとしたら。
私たちの記憶の中の「熱」が、冷たいLEDの光を補完するとしたら。
これは宗教的な話ではなく、コミュニケーションの話だ。
死者と生者の間で、何が共通言語になりうるか。
それは「火の記憶」ではないか。
両者がともに知っている、温もりと揺らめきの記憶。
その記憶を鮮明に保ち続けることが、現代における供養の核心ではないか。
だからこそ、子供たちに火を見せることが大切だ。
危険だから、汚れるから、面倒だから。
様々な理由で、現代の子供たちは火に触れる機会を失っている。
オール電化の家では、ガスコンロの炎すら見ることがない。
焚き火など、一度も経験したことがない子供も珍しくない。
それは、先祖との接続手段を失いつつあるということだ。
火を知らない世代が親になり、その子供もまた火を知らずに育つ。
二世代、三世代と経つうちに、火の記憶は人類から消えていく。
そうなったとき、私たちは本当の意味で「先祖」から切り離される。
同じ記憶を共有しない存在と、どうやって繋がることができるだろうか。
祖母が私に見せてくれたもの。
囲炉裏の火。
仏壇の蝋燭。
盆の迎え火と送り火。
それらは「古い習慣」ではなかった。
未来に繋ぐための「記憶の継承」だった。
私は、その記憶を持っている。
目を閉じれば、炎の色を、熱を、揺らめきを、今でも鮮明に思い出せる。その記憶がある限り、私は祖母と、そして
祖母より前の先祖たちと、繋がることができる。
問題は、この記憶をどうやって次世代に伝えるかだ。
火を見せること。それが、現代における最も重要な「供養」かもしれない。
年に一度でもいい。
キャンプに行って焚き火を囲む。
神社のお焚き上げを見に行く。
仏壇の蝋燭を、一緒に灯す。
その体験が、子供の中に「火の記憶」を刻み込む。
そして、その記憶を言葉にして伝えること。
「この火はね、ご先祖様が帰ってくるための目印なんだよ」
「火は熱いでしょう。その熱が、あの世まで届くんだよ」
「揺らめいているのはね、火が生きているからなんだよ」
祖母が私にしてくれたように、私たちも次の世代にそう伝える。
言葉と体験が重なることで、記憶は強化される。
その記憶が、やがて彼らの祈りの「熱」となる。
道具は変わる。
LEDが普及し、やがてもっと別の光源が現れるかもしれない。
だが、火の記憶を持った人間がいる限り、先祖との接続は維持される。
記憶という「ソフトウェア」が、道具という「ハードウェア」の欠陥を補い続ける。
その継承を怠れば、私たちは本当に「冷たい時代」に突入する。
先祖を迎えることも、送ることもできない時代。
帰る場所を失った魂が、都市の冷たい光の中を永遠にさまよい続ける時代。
そしてそのことに、誰も気づかない時代。
そうならないために、今、私たちにできることがある。
あなたの提灯は、誰を照らしていますか?
このエッセイを書き始めたのは、夏の終わりだった。
向かいのマンションのLED提灯。
その周りを旋回する何か。
その光景が頭から離れず、かつての祖母の言葉を思い出し、そして長い文章を書くことになった。
書き終えた今、窓の外を見る。
もうお盆は過ぎた。
LED提灯は片付けられ、向かいのマンションのベランダは暗い。
だが、街にはまだ無数の光がある。
街灯、看板、コンビニ、自動販売機。
そのほとんどがLEDに置き換わり、都市全体が冷たい光に包まれている。
あの光の一つ一つが、誰かを閉じ込めているとしたら。
帰れなくなった先祖。
送られることなく留まってしまった魂。
オートロックの外で立ち尽くしている誰か。
孤独死の部屋で、自分の死を受け入れられないまま漂っている誰か。
その数は、年々増えているのではないか。
私は今夜、部屋のLED電球を消してみようと思う。
完全な闇の中に身を置いて、何が感じられるか試してみたい。
冷たい光がなくなったとき、この空間に何が訪れるか。
怖いような気もする。
だが、それ以上に、何かを解放できるような気もしている。
光を消す。
その単純な行為が、誰かにとっての「出口」になるかもしれない。
冷たい檻の扉を、ほんの少し開けることになるかもしれない。
読者のあなたにも、問いかけたい。
今夜、あなたの部屋を照らしている光は、何色ですか。
それは温かいですか、冷たいですか。
その光が、誰かの帰り道を塞いでいないと、言い切れますか。
窓の外に広がる光の海。
コンビニの明かり、マンションの灯り、街灯の列。
その一つ一つが、帰れない魂を閉じ込める「冷たい檻」だとしたら。
私たちは毎晩、無数の檻を眺めながら暮らしていることになる。
気づかないふりをすることはできる。
「科学的に根拠がない」と一蹴することもできる。
だが、胸の奥で何かが反応しなかったろうか。
このエッセイを読む間、一度も背筋が冷たくならなかっただろうか。
その「冷たさ」は、エアコンのせいだけではないかもしれない。
最後に、一つの場面を想像してほしい。
あなたが眠りにつく前、部屋の灯りを消す。
LED電球のスイッチをパチリと切る。真っ暗な闇が訪れる。
その瞬間、どこかで、誰かが安堵のため息を漏らす。
長い間、冷たい光に囲まれて出口を見つけられなかった誰かが。
あなたが光を消してくれたおかげで、やっと闇に溶けることができた誰かが。
「ありがとう」
声は聞こえない。
だが、部屋の空気がほんの少し、軽くなったような気がしないだろうか。肩の荷が下りたような、そんな感覚。
それは、あなたの先祖かもしれない。
あるいは、見知らぬ誰かかもしれない。
どちらにせよ、あなたが「冷たい檻」を開けてあげたのだ。
火は、いつか消える。
それが火の本質だ。
だからこそ、火の光は「生」を感じさせる。
死があるから、生がある。消えるから、灯っている間が尊い。
LEDは消えない。
正確には、「勝手には」消えない。
私たちがスイッチを切らなければ、永遠に光り続ける。
その「永遠」が、死者を苦しめている。
死んでいるのに、終わりが来ない。
闇に帰りたいのに、光が消えてくれない。
私たちには、光を消す力がある。
スイッチ一つで、冷たい檻の扉を開けられる。
それは、蝋燭を吹き消すよりも簡単なことだ。
ただ、指を動かすだけでいい。
今夜、灯りを消す前に、少しだけ考えてみてほしい。
この光は、誰を照らしていたのだろう。
そして、この闇は、誰を解放するのだろう。
祖母の最後の言葉を、今でも覚えている。
病院のベッドで、もう目も開けられなくなっていた祖母が、私の手を握ってこう言った。
「盆には、ちゃんと火を焚いてね。
冷たい光じゃ、帰り道がわからなくなるから」
私は泣きながら頷いた。
約束した。
祖母が逝ったのは、その三日後だった。
あれから何年経っただろう。
私は約束を守れているだろうか。
LED提灯を使いながらも、線香を絶やさず、温かい供物を欠かさず、火の記憶を心に灯しながら、祖母を迎え、送れているだろうか。
正直に言えば、自信がない。
だがこのエッセイを書いたことで、少なくとも「忘れていない」ことだけは、祖母に伝えられたと思う。
火の大切さを。
温もりの意味を。
冷たい光の危険を。
祖母は今夜も、私の部屋のどこかにいるような気がする。
もうお盆ではないけれど。
LED電球が光っているけれど。
それでも、私が火の記憶を持っている限り、祖母は迷わずにここへ来られる。
そう信じている。
窓の外の光が、少しだけ温かく見えた気がした。
気のせいだろう。
LEDの光は、どこまでいっても冷たいはずだ。
だが、それでも。
私の目に映る光には、私の記憶の温もりが混じっている。
火を見た記憶。
祖母と過ごした記憶。
迎え火と送り火の記憶。
その温もりが、冷たい光を中和しているのかもしれない。
だとすれば、希望はある。
まだ、火の記憶を持っている人がいる。
それを次世代に伝えようとしている人がいる。
完全な「冷たい時代」は、まだ来ていない。
私たちには、まだ時間がある。
お盆の夜、あなたはどんな光を灯しますか。
その光は、誰を迎えますか。
その光は、誰を送りますか。
その光は、誰かを閉じ込めていませんか。
その問いを、自分自身に投げかけてほしい。
毎年、お盆が来るたびに。
盆提灯を出すたびに。
スイッチを入れるたびに。
そして時々は、スイッチを切ることも忘れないでほしい。
真っ暗な闘の中で、耳を澄ませてみてほしい。
安堵のため息が、聞こえるかもしれないから。