あなたはいま、どこにいますか
この文章を読み始める前に、一つだけ確認しておきたいことがあります。
あなたは今、自分の足が床についている感覚を、はっきりと感じていますか。
椅子に座っているなら、その座面の硬さを。
立っているなら、重力があなたの身体を地面に繋ぎ止めている、あの確かな引力を。
感じていますね。
よかった。
では、続きを読んでください。
ただし、読み進めるうちに、その感覚がゆっくりと薄れていくことに気づいたら――そのときは、一度この画面から目を離して、深く息を吸ってください。
自分の名前を、声に出さなくてもいいので、心の中ではっきりと唱えてください。
これは、警告ではありません。
ただの、作法です。
お盆の夜、迎え火を灯すとき、私たちは何を見ているのでしょうか。
オガラが燃える。
炎が立ち上がる。
その揺らめきの向こうに、私たちは「帰ってくる誰か」の姿を探します。
祖父の影を、祖母の面影を、あるいはもう名前さえ思い出せない、遠い血縁の誰かを。
迎え火とは、読んで字のごとく「迎える」ための火です。
あちら側から、こちら側へ。
冥界から、現世へ。
その流れは一方通行であるはずでした。
死者が帰ってくる道を照らす灯火であり、生者はその火を灯す側として、あくまでこちら側に踏みとどまっているはずでした。
しかし、もしその「流れ」が、ある瞬間に逆転するとしたら。
火が「迎える」のではなく、「吸い込む」装置に変わるとき。
私たちは無防備に、その炎を見つめています。
そして、気づかないうちに、足元の地面がゆっくりと、こちら側ではないどこかへスライドし始めているのです。
この文章は、迎え火という日本の民俗儀礼に潜む「逆転現象」について探求するものです。
しかし同時に、この文章そのものが、ある種の「火」として機能することを意図しています。
文字を目で追うという行為。一行一行、ゆっくりと、意識を沈めていくという体験。
それは、炎のゆらめきを凝視する行為と、どこか似ていないでしょうか。
読み進めるうちに、あなたの周囲の音が遠のき、視界の端が暗くなり、この文章の言葉だけが浮かび上がってくる感覚。
もし、そのような状態に入りつつあるなら。
それは、私の意図通りです。
そして、それこそが「火を見つめる」という行為の本質なのです。
視線の吸着――火を見つめるという「潜水」
瞳の中の火、脳内の異界
人間の脳は、炎を見ると変わります。
これは詩的な比喩ではなく、神経科学的な事実です。
焚き火やロウソクの炎を見つめ続けると、脳波は覚醒状態を示すベータ波から、リラックス状態のアルファ波へ、そしてさらに深く、瞑想やトランス状態に特有のシータ波へと移行していきます。
炎の揺らめきには、規則的でありながら予測不可能なリズムがあります。
1/fゆらぎと呼ばれるこのパターンは、心拍や呼吸と共鳴し、私たちの意識を「日常」という係留から解き放っていきます。
つまり、火を見つめるという行為は、脳にとって一種の「潜水」なのです。
水面下へ、水面下へ。
日常意識という「水面」から、どんどん深いところへ。
そして深く潜れば潜るほど、水面の光は遠ざかり、周囲は暗く、静かに、そして冷たくなっていく。
祖母は、幼い私にこう言いました。
「火の芯をじっと見てはいけないよ。
魂が火の粉になって飛んでいってしまうからね」
子供の頃は、それを詩的な言い回しだと思っていました。
しかし今なら分かります。
あれは比喩ではなかったのです。
祖母は、火を見つめることで「こちら側」から離脱していく魂の危うさを、経験的に知っていたのです。
火の粉が舞い上がるように、意識が上昇し、身体から遊離していく感覚。それは美しく、心地よく、そして致命的に危険な体験なのです。
視界の消失と、内なる闇の拡大
火を見つめ続けると、奇妙なことが起こります。
最初は、炎の周囲にある世界が――庭の草木が、隣家の屋根が、夕暮れの空が――ゆっくりと暗くなっていきます。
目の錯覚だ、と思うかもしれません。
瞳孔が炎の明るさに適応したから、周囲が相対的に暗く見えるのだ、と。
しかし、そうではないのです。
暗くなっていくのは、視界だけではありません。
音が遠ざかっていきます。
蝉の声が、風の音が、家族の話し声が、まるで水の中に沈んでいくように、くぐもり、薄れていく。
やがて、炎と自分だけが取り残されます。
周囲の空間が消失し、ただ揺れる火だけがそこにある。
いや、「そこ」という場所の感覚さえ曖昧になっていく。
火と私。
私と火。
その境界線さえも、炎のゆらめきの中に溶けていく。
これが「火のトランス」です。
古来、シャーマンや巫女が火を用いて異界と交信したのは、この状態を意図的に作り出すためでした。
火は単なる熱源ではなく、意識の状態を変容させる「装置」だったのです。
しかし、現代の私たちは、そのことを忘れています。
迎え火を灯すとき、私たちはそれを「儀式」として認識してはいますが、その儀式が持つ本来の力を理解してはいません。
油断しているのです。
そして油断している者ほど、深く沈んでいくのです。
気がついたとき、自分が「どこに」立っているのか分からなくなる。
足元を見下ろしても、見慣れた庭の地面が見えない。
暗い。
暗すぎる。
なぜこんなに暗いのか。
いつの間に、こんなに暗くなったのか。
そして、ふと気づく。
自分は、いつから立っていたのだろう。
火を灯したのは、夕方だったはずだ。
では、なぜ空は、こんなにも深い闇に覆われているのか。
その疑問が浮かんだ瞬間、あなたは既に、一歩を踏み外しているのです。
瞳孔に宿る「あちらの光」
東北地方のある村には、こんな言い伝えがあります。
「迎え火を長く見つめすぎた者の目は、現実の光を映さなくなる」
最初、私はこの言い伝えの意味が分かりませんでした。
光を映さない、とはどういうことか。盲目になる、という意味なのか。
しかし、古老たちの話を聞くうちに、少しずつ理解が深まっていきました。
彼らが言っているのは、「視力の喪失」ではないのです。
「反射の消失」なのです。
鏡を見たとき、あるいは水面を覗き込んだとき。
正常な人間の瞳孔は、光を反射します。
きらりと光る、あの小さな白い点。
それは、こちら側の光がこちら側の目に映っている証拠です。
しかし、火を見つめすぎた者の瞳孔は、その反射を失うのだと言います。
光が、目の中に吸い込まれていく。
あるいは、目の中に灯っているのが、こちら側の光ではなくなっている。
だから、反射しない。
こちら側の光は、あちら側の目には映らないから。
さらに恐ろしい話があります。
火を見つめすぎた後、鏡を覗き込むと、自分の瞳孔の中に「誰か」がいるのが見える、というのです。
自分ではない誰かが、瞳孔の奥から、こちらを見つめ返している。
視線を外そうとしても、外せない。
それは、自分が「見たい」から外せないのではありません。
向こう側から、誰かに「引き留められている」から外せないのです。
瞳孔という小さな窓を通じて、あちら側の誰かが、こちら側の誰かを見つめている。
その視線が絡み合い、解けなくなっている。
見つめる者が見つめられ、見つめられる者が見つめ返す。
その無限の反復の中で、どちらがこちら側で、どちらがあちら側なのか、分からなくなっていく。
さて。
ここまで読み進めてきたあなたに、もう一度お尋ねします。
足元の感覚は、まだありますか。
椅子の硬さを、床の冷たさを、重力の引力を、まだ感じていますか。
文字を追うあなたの目は、画面の光を正しく反射していますか。
もし、少しでも不安を感じたなら。
一度、画面から目を離してください。
周囲を見回してください。
自分の名前を、心の中で唱えてください。
そして、自分がまだ「こちら側」にいることを確認してから、次の章へ進んでください。
第二章では、「跨ぐ」という行為に潜む禁忌について語ります。
迎え火を跨ぐとき、私たちは一瞬だけ、「どちらの世界にも属さない場所」に立つことになります。
その瞬間に何が起こるのか。
そして、なぜ「立ち止まってはいけない」のか。
続きは、あなたの足元がしっかりと地面についていることを確認してから、お読みください。
跨ぐという禁忌――「境界」の上で立ち止まるリスク
「門」としての火、その物理的横断
迎え火には、もう一つの作法があります。
火を「跨ぐ」という行為です。
地域によって細部は異なりますが、迎え火や送り火を跨いで通り抜けることで、身体を浄化する、あるいは邪気を払うという習俗が各地に残っています。
火の上を跨ぐことで、病が焼き払われる。
厄が落ちる。
穢れが清められる。
一見すると、これは理にかなった発想です。
火は浄化の象徴であり、その炎を通過することで、身体に付着した「見えない汚れ」が焼き落とされる。
まるで、金属を火で熱して不純物を取り除く精錬のように。
しかし、この作法には、誰も口にしない真実が隠されています。
跨いでいる、その瞬間。
あなたは「どちらの世界」にも属していないのです。
右足はまだこちら側にあり、左足は既にあちら側へ踏み出している。あるいはその逆。
いずれにせよ、跨いでいる最中のあなたは、現世にも冥界にも帰属しない、宙吊りの存在になっています。
民俗学では、この状態を「境界」あるいは「あわい」と呼びます。
門の敷居。
橋の中央。
峠の頂。
川の中洲。
どちらにも属さない場所。
どちらからも見える場所。
どちらからも手が届く場所。
そのような場所には、古来より「何か」が棲むとされてきました。
迎え火を跨ぐとき、あなたは自らその「あわい」に足を踏み入れているのです。
通常であれば、跨ぐという動作は一瞬で終わります。
右足を上げ、火を越え、左足を着地させる。
その間、わずかコンマ数秒。
「あわい」に身を置く時間は、ほんの一瞬です。
しかし、その一瞬に、何かが起こることがあります。
重力の感覚が、消えるのです。
足を上げた瞬間、身体が妙に軽くなる。
地面に引かれる力が弱まる。
まるで水の中にいるような、あるいは夢の中で歩いているような、ふわりとした浮遊感。
その感覚は心地よくもあります。
しかし、それは「こちら側」から離れ始めている証拠なのです。
立ち止まってはいけない、振り返ってはいけない
跨ぐときには、立ち止まってはいけません。
これは、多くの地域で共通して語り継がれている禁忌です。
火の上で足を止めるな。
考え込むな。
振り返るな。
一息に、迷いなく、跨ぎ切れ。
なぜか。
祖母は、こう教えてくれました。
「門の途中で止まるとね、向こうの人に見つかってしまうんだよ。
あの人たちは、門のところでずっと待っているの。
こっちに来たいのに、来られないから。
だから、誰かが門を開けて、途中で止まってくれるのを、ずっとずっと待っている」
跨いでいる最中に立ち止まる。
それは、門を開けたまま動かなくなるようなものなのです。
そして、開いた門からは、待ち構えていた者たちが入ってくる。
あるいは、出て行こうとする者を、引き留める。
立ち止まった瞬間、背後から声が聞こえたという話は、各地に残っています。
自分の名前を呼ぶ声。
懐かしい誰かの声。
もう二度と聞けないはずの、あの人の声。
振り返ってはいけません。
振り返れば、目が合います。
目が合えば、繋がります。
繋がれば、引かれます。
九州地方のある町では、こんな怪異譚が語り継がれています。
送り火を跨いでいた中年の男が、火の上でふと立ち止まった。
何かを思い出そうとするように、虚空を見つめ、そして振り返った。
家族が見ていた。
男の背後には、誰もいなかった。
しかし男は、誰かと目を合わせていた。
誰もいない暗闇の、ある一点を、じっと見つめていた。
「おう」と男は言った。
「久しぶりだな」
誰に向かって言っているのか。
家族には分からなかった。
男はそのまま、火を跨ぎ終えることなく、闇の中へ歩き出した。
あとずさるように、しかし確実に、暗がりへ向かって歩いていった。
家族が慌てて腕を掴んだとき、男の目は焦点が合っていなかった。
瞳孔が開ききり、何も映していなかった。
こちら側の家族の顔も、家の灯りも、何も。
正気に戻るまで三日かかった、と言われています。
そして男は、その三日間のことを何も覚えていませんでした。
ただ、「懐かしい友人に会った」とだけ、繰り返し呟いていたそうです。
その友人が誰なのか、家族は最後まで聞き出せませんでした。
男自身も、顔は覚えているのに、名前だけがどうしても出てこない、と首を傾げていたからです。
もう一つ、跨ぎにまつわる怪異があります。
跨ぎ終えたはずなのに、足が動かない。
火を越え、向こう側に着地したはずの足が、まるで泥に埋まったように重い。
冷たい。
自分のものではないような感覚がある。
北陸のある村で、若者がふざけて迎え火を跨いだときのことです。
跨ぐ瞬間、若者は「何かに足を掴まれた」と感じました。
振り払おうとしたが、掴んでいるものが見えない。
ただ、足首のあたりに、氷のように冷たい感触があった。
友人たちが引っ張り上げ、なんとか跨ぎ終えた若者の右足は、膝から下が土気色に変わっていたと言います。
以来、その足は二度と温かくならなかったそうです。
どんなに厚い靴下を履いても、湯船に浸かっても、右足だけが氷のように冷たいまま。
そして夜になると、その足が勝手に動き出すのです。
寝ている間に布団から這い出し、玄関へ向かおうとする。
外へ出ようとする。
どこかへ、歩いて行こうとする。
向こう側に置いてきた「何か」を取り戻しに行こうとしているのか。
あるいは、向こう側に掴まれた部分が、本体を引きずって帰ろうとしているのか。
若者は、それから毎晩、右足を紐で縛って眠るようになったと伝えられています。
逆転するベクトル――迎え火が「吸い込み火」に変わるとき
迎え火とは、本来、「外から内へ」流れる力を持つものです。
あちら側にいる死者が、こちら側へ帰ってくる。
その道筋を照らし、方向を示し、迷わず戻れるようにする。
それが迎え火の本義です。
力のベクトルは、常に「冥界から現世へ」。
外から内へ。
彼岸から此岸へ。
しかし、ある条件下で、このベクトルが逆転することがあります。
火が「迎える」のではなく、「吸い込む」装置に変わるのです。
その条件とは何か。
一つは、灯す者の「念」です。
迎え火を灯すとき、私たちは何を思うでしょうか。
亡くなった祖父に会いたい。
もう一度、祖母の声が聞きたい。
早逝した友人と、あの頃のように笑い合いたい。
その思いが強すぎるとき。
「会いたい」ではなく「行きたい」に変わるとき。
火は、あなたの願いを正直に叶えようとします。
向こうから来てもらうのではなく、こちらから行けばいい。
そう、火が判断するのです。
「寂しい」という念。
それは、火を最も強力な吸引装置に変える燃料です。
現世に繋ぎ止めるものが少ない人。
孤独な人。
もう誰も自分を必要としていないと感じている人。
そのような人が迎え火を灯すとき、火は「迎える」力ではなく「連れ去る」力を帯びるのです。
関西のある家で起きた出来事です。
一人暮らしの老婆が、お盆に迎え火を灯しました。
夫を亡くして十年。
子供たちは遠方に住み、滅多に帰ってこない。
近所付き合いもほとんどない。
その年の夏は、殊更に寂しかったのでしょう。
老婆は迎え火を灯しながら、心の中で繰り返していたと言います。
「おじいさん、会いたいよ。迎えに来てよ。私も連れて行ってよ」
火を灯した瞬間、老婆は強烈な引力を感じたそうです。
身体が前のめりになる。火に向かって、吸い寄せられる。
足元の地面が、自分を支えてくれなくなるような感覚。
立っているのに、落ちていくような感覚。
火の中に、何かが見えました。
煙か、炎の揺らめきか。いや、違う。
人影でした。
老婆の夫に似た、人影。
手を伸ばしている。こちらへ。おいで、と言うように。
老婆は無意識に一歩を踏み出しました。
その瞬間、隣家の犬が激しく吠え始めました。
我に返った老婆は、自分がオガラの火の、すぐ目の前に立っていることに気づきました。あと一歩で、火の中に足を踏み入れるところでした。
老婆は腰を抜かし、その場にへたり込みました。
火はもう消えかけていました。オガラは燃え尽き、残り火がちろちろと明滅するだけ。
しかしその残り火の中に、老婆は確かに見たのです。
手が、引っ込んでいくのを。
伸ばされていた手が、残念そうに、ゆっくりと闇の中へ引っ込んでいくのを。
もう一つ、火の「逆転」を示す現象があります。
迎え火を灯した瞬間、意識が「家の奥」ではなく「闇の奥」へ引っ張られる感覚です。
通常、家の玄関先や庭で迎え火を灯すとき、私たちは背後に「家」という安全な空間を意識しています。
火を灯し終えたら、家の中へ戻る。
そこには明かりがあり、家族がおり、夕食の匂いがする。
しかし、火が「吸い込み」に転じたとき、この方向感覚が狂います。
背後にあるはずの家が、遠くなる。
目の前の闇が、近くなる。
火を見ているはずなのに、火の向こう側にある「何か」を見ている。
そして、その「何か」に向かって、ゆっくりと、引き寄せられていく。
家族の呼ぶ声が、遠くなっていく。
自分の名前を呼んでいるのに、誰のことを呼んでいるのか分からなくなる。
振り返ろうとしても、首が動かない。
見つめ続けるしかない。
火の奥へ。
闇の奥へ。
スライドしていく。
ここで、一つの体験談を記しておきます。
ある男の話です。
その年のお盆、男は一人で実家に帰省していました。
両親は既に他界し、妻とは離婚し、子供はいない。
古い家に、一人きりで。
日が暮れ、男は玄関先でオガラに火を灯しました。
迎え火。
誰を迎えるのか、自分でもよく分かっていませんでした。
父か、母か、あるいは誰でもいいから、誰かに来てほしかっただけかもしれません。
火が灯りました。
男はその炎を見つめました。
オレンジ色の揺らめき。白い煙。夏の夕暮れの匂い。蝉の声。
美しい、と思いました。
懐かしい、と思いました。
このまま、ずっとここにいたい、と思いました。
その「ここ」が、どこを指しているのか。
男は考えませんでした。
ただ、心地よかった。
火を見つめていると、全てが溶けていくようだった。自分という輪郭が、少しずつ曖昧になっていくようだった。
そして、気がつくと。
ロウソクは燃え尽きていました。
オガラの灰が、白く積もっていました。
空は暗く、星が出ていました。
男は、自分がいつから立っていたのか、分からなくなっていました。
火を灯したのは夕方の六時頃だったはずです。
しかし腕時計を見ると、深夜の二時を指していました。
八時間。
男は八時間、玄関先に立ち尽くしていたのです。
その間、何を見ていたのか。何を考えていたのか。
覚えていませんでした。
ただ、夢のようなものを見た気がしました。
どこか知らない場所で、知らない人々と過ごした記憶。長い長い時間を、そこで暮らした記憶。
しかし、思い出そうとすると、指の間から砂がこぼれるように、記憶が逃げていく。
顔が、名前が、場所が、全て霞んでいく。
残ったのは、ただ「長かった」という感覚だけでした。
ほんの数秒、火を見つめていただけのつもりだったのに。
実際には八時間が経っていた。
そして、その八時間のどこかで、男は「別の場所」に行っていたのです。
最初の章でお話しした「火のトランス」の、これは極端な事例と言えるでしょう。
しかし、程度の差こそあれ、似たような体験をした人は少なくありません。
迎え火を見つめているうちに、ふと我に返ると思った以上に時間が経っていた。
家族に呼ばれて振り向いたとき、自分がなぜそこに立っているのか一瞬分からなかった。
火が消えた後、妙な虚脱感があり、何かを忘れてきたような気がした。
それらは全て、同じ現象の断片なのです。
火を通じて、意識が「あちら側」へスライドした痕跡。
完全に向こうへ渡ってしまったわけではない。
しかし、片足を踏み入れた。あるいは、魂の一部を置いてきた。
だからこそ、「何かを忘れてきた」ような気がするのです。
さて、ここで再び、あなたに問いかけます。
この文章を読み進めている間、あなたの意識はどこにありましたか。
文字を追う目は、確かに画面を見ていたでしょう。
しかし、心は。
火の揺らめきを想像しませんでしたか。
オガラが燃える匂いを、どこかで感じませんでしたか。
夏の夕暮れの空気が、肌に触れる感覚がありませんでしたか。
もしあったなら。
あなたの意識は、既に少しだけ「そちら側」へスライドし始めているかもしれません。
大丈夫です。
まだ戻れます。
次の章では、「帰還」について語ります。
あちら側へ引き込まれた者が、どのようにしてこちら側へ戻ってくるのか。
そして、戻ってきた者が、本当に「本人」なのかどうか。
その恐ろしい問いについて、向き合うことになります。
トランスの果て――「帰ってきた」のは誰か
精神の神隠し――数秒の空白、数時間の不在
先ほど、八時間を失った男の話をしました。
しかし、それは序の口にすぎません。
新潟県のある山間部に、こんな話が伝わっています。
昭和の初め頃、村の男がお盆の迎え火を灯しました。
夕方のことです。
妻と幼い娘が、縁側からその様子を見ていました。
男は火を灯し、じっと炎を見つめました。
妻が「ご飯ですよ」と声をかけようとした、その瞬間。
男の姿が、消えました。
比喩ではありません。
立っていた場所に、男がいなくなっていたのです。
妻は悲鳴を上げました。
娘は泣き出しました。
近所の人々が駆けつけ、あたりを探しましたが、男の姿はどこにもありませんでした。
三日後。
男は、村から十里も離れた峠道で発見されました。
裸足で、泥だらけで、虚ろな目をして、道端にうずくまっていたそうです。
男は、自分がどうやってそこに来たのか、全く覚えていませんでした。
それどころか、こう言ったのです。
「何を言っているんだ。
俺は、ずっと向こうにいたんだ。
三十年も、向こうで暮らしていたんだ」
三十年。
しかし、男が消えていたのは三日間です。
村の人々は困惑しました。
男は気が狂ったのだと思いました。
しかし男は、正気でした。
狂人の目ではなかった。困惑していたのは、むしろ男の方でした。
「なぜ、みんな若いままなんだ」と男は言いました。
「俺は三十年、向こうで暮らしたんだ。
なのに、なぜ俺の体も、娘も、何も変わっていないんだ」
男の記憶の中には、「向こうの世界」での三十年分の体験が、克明に刻まれていました。
見たことのない町。
聞いたことのない言葉を話す人々。
そこで男は新しい家族を持ち、子を育て、年老いていった。白髪になり、腰が曲がり、杖をつくようになった。
そして、ある日。
散歩に出かけた男は、道端で不思議な火を見つけました。
揺らめく小さな炎。
懐かしい、と思った瞬間、気がつくと、元の村の峠道に立っていたのです。
三十年分の記憶を持ったまま、三日しか経っていない世界に。
男はその後、徐々に「向こう」での記憶を失っていきました。
夢から覚めた後、夢の内容を忘れていくように。
三十年分の妻の顔。
子供たちの名前。
住んでいた家の間取り。
好きだった食べ物。
全てが、砂のように指の間からこぼれ落ちていった。
一年後には、ほとんど何も覚えていませんでした。
ただ、「長い間、どこかにいた」という感覚だけが残りました。
そして、男は二度と迎え火を灯すことはなかったそうです。
これは「精神の神隠し」とでも呼ぶべき現象です。
肉体はこちら側に残っている。
しかし、魂だけがあちら側へ連れ去られる。
そしてあちら側で、こちらとは異なる時間を過ごす。
民話研究者の間では、この種の話は「異郷訪問譚」として分類されます。
浦島太郎がその典型です。
竜宮城で過ごした三年が、地上では七百年だった。
しかし、浦島の話と決定的に違う点があります。
この男は、「行こうとして」行ったのではないのです。
火を見つめていただけ。
それだけで、魂が「あちら」へ吸い込まれてしまった。
しかも、戻ってきたとき、あちらでの「三十年」を覚えている。
つまり、男にとっては確かに三十年が経ったのです。
実際に年を取り、実際に暮らし、実際に人生を送った。
その記憶を持ったまま、三日前の世界に戻ってきた。
これは、想像するだけで眩暈のするような体験です。
三十年分の人生が、なかったことになる。
あるいは、三日間の不在が、三十年に引き延ばされる。
どちらが現実なのか。
どちらの自分が「本物」なのか。
男が記憶を失っていったのは、あるいは救いだったのかもしれません。
二つの人生を同時に覚えていることに、人間の精神は耐えられないからです。
戻ってきた者には、もう一つの問題があります。
「後遺症」です。
火を通じてあちら側へ行き、こちら側へ戻ってきた者は、多くの場合、何かが変わっています。
言葉を忘れる、という報告があります。
一時的に、特定の言葉が出てこなくなる。
「箸」という単語が思い出せない。「水」と言おうとして、違う音が口から出る。
家族が「あなたは誰?」と問いかけてくることもあるそうです。
戻ってきた当人は、自分は自分だと確信している。
しかし、家族から見ると、何かが違う。
顔は同じなのに、目の奥にいる「誰か」が違って見える。
多くの場合、この違和感は数日で消えます。
しかし、消えない場合もあります。
それが、次にお話しする「入れ替わり」の恐怖です。
身体の簒奪――火を通じて入れ替わる魂
迎え火は、あちらとこちらを繋ぐ「門」です。
門は、双方向に開いています。
こちらから行けるなら、あちらからも来られる。
もし、あちら側で待っている「誰か」が、門が開いた瞬間にこちら側へ滑り込んできたら。
そして、うっかり門の近くで立ち止まっていた生者の魂と、入れ替わってしまったら。
岡山県のある家で起きた出来事です。
お盆の迎え火の後、一家の主人の様子がおかしくなりました。
最初は、些細な変化でした。
いつも使っていた茶碗を、「これは俺のじゃない」と言い出した。
家族と話しているとき、突然、聞いたことのない昔の言い回しを使った。
子供の名前を、一瞬、別の名前で呼んだ。
妻は「疲れているのだろう」と思いました。
しかし、日が経つにつれて、変化は顕著になっていきました。
主人は、自分が子供の頃の話を始めました。
しかし、その話の内容が、家族の知っているものと違うのです。
「俺が子供の頃は、この辺りはまだ田んぼだらけでな」
主人が子供の頃、その地域は既に住宅地でした。
「学校まで、峠を越えて通ったもんだ」
主人が通っていた学校は、家から歩いて五分の場所にありました。
峠などありません。
「親父によく連れられて、蛍を見に行った」
主人の父親は、主人が生まれる前に亡くなっています。
おかしい、と妻は思いました。
しかし、主人に「あなた、何を言っているの」と尋ねると、主人は不思議そうな顔をするのです。
「何って、本当のことだろう。お前、俺のこと、忘れたのか」
俺のこと。
その「俺」は、誰のことなのか。
妻は、恐ろしくなりました。
夜、主人が眠っている横で、その寝顔を見つめました。
見慣れた顔です。二十年以上連れ添った夫の顔です。
しかし、何かが違う。
顔のパーツは同じなのに、全体の印象が違う。
表情の作り方、眉間の皺の寄り方、寝息のリズム。
まるで、同じ家に別の住人が住み着いたような。
同じ服を、別の誰かが着ているような。
その違和感は、正しかったのかもしれません。
後に、妻はあることに気づきました。
お盆が終わり、送り火を灯した後、主人の様子が元に戻ったのです。
「この前、変なこと言ってた?」と主人は首を傾げました。
「全然覚えてないな」
妻は安堵しました。
しかし同時に、新たな恐怖を覚えました。
お盆の間、夫の身体の中にいたのは、誰だったのか。
そして、その「誰か」は、送り火で送り返されたのか。
それとも、まだどこかに潜んでいるのか。
火を媒介にした「魂の交換」。
生者が向こうへ行き、死者がこちらに居座る。
あるいは、生者の身体を「間借り」する死者。
送り火が灯されるまでの数日間だけ、懐かしい身体に戻りたい、という死者の願望。
それは、ある意味では悲しい話でもあります。
しかし、「間借り」されている側にとっては、たまったものではありません。
自分の身体が、自分のものでなくなる。
自分の口が、自分の意思とは違う言葉を発する。
自分の足が、自分の行きたくない場所へ歩いていく。
そして何より恐ろしいのは、「戻ってきた」後、その間の記憶がないことです。
お盆の数日間、自分の身体で何が行われていたのか。
誰と会い、何を話し、どこへ行ったのか。
何も分からない。
ただ、身体のどこかに、自分のものではない記憶の残滓のようなものが残っている。
知らないはずの道を、なぜか知っている。
会ったことのない人の顔を、なぜか懐かしく思う。
食べたことのないはずの料理の味を、なぜか覚えている。
それは、「間借り人」が残していった痕跡なのです。
ここで、最も恐ろしい可能性について触れなければなりません。
「私は帰ってきたよ」
その言葉を発する口は、誰のものなのか。
「帰ってきた」の主語は、誰なのか。
迎え火を灯した人が、そのまま正気を保っていたとして。
火を見つめ、ご先祖様を迎え、家の中に通し、数日間を共に過ごし、送り火で送り返したとして。
その一連の儀式を終えた後、鏡を見たとき。
そこに映っているのは、本当に「自分」なのでしょうか。
お盆の間のどこかで、気づかないうちに入れ替わっていた、ということはないでしょうか。
「帰ってきた」のは、ご先祖様ではなく。
ご先祖様の振りをした、別の何かではなかったか。
そして、「送り返された」のは、その何かではなく。
本当は、あなた自身だったのではないか。
今、この文章を読んでいるあなた。
あなたは、本当にあなたですか。
去年のお盆、あなたは迎え火を灯しましたか。
その後、何か変わったことはありませんでしたか。
言葉が出てこなくなったこと。
見覚えのない場所を懐かしく思ったこと。
家族の目が、一瞬、他人を見るような目になったこと。
なかったですか。
本当に?
「火酔い」の民俗学――祭りの狂気と日常の裂け目
集団で火を囲むとき、人は「火酔い」の状態に入ります。
京都の大文字焼き。奈良の若草山焼き。各地の松明祭り。
巨大な火を見つめる群衆は、一種のトランス状態に陥ります。
脳波が変わり、興奮と陶酔が入り混じり、個人の意識が集団の意識に溶け込んでいく。
この状態は、古来より「祭り」の本質として認識されてきました。
日常からの解放。
自我の融解。
神や霊との一体化。
祭りとは、社会が公認した「狂気の時間」なのです。
その時間だけは、普段は閉じている「門」が開く。
あちらとこちらの境界が曖昧になる。
人々は火を囲み、踊り、叫び、笑い、泣き、そして時に「何か」を見る。
しかし、祭りは集団で行われるものです。
周囲に人がいる。音がある。動きがある。
完全なトランスに落ちる前に、誰かの声や接触で現実に引き戻される安全装置が働いています。
だから、祭りで「帰ってこられなくなる」人は、滅多にいません。
問題は、静かな迎え火です。
現代の家庭の、小さな迎え火。
庭先で、あるいは玄関前で、一人きりで灯す小さな炎。
周囲に人はいない。
音もない。
動きもない。
夏の夕暮れの、静かな時間。
蝉の声すら遠くなり、自分と火だけが取り残される、あの瞬間。
それは、「個人の祭り」なのです。
集団の安全装置が外れた状態での、一対一の火との対峙。
そこでは、トランスを止めるものがありません。
落ちていくなら、どこまでも落ちていける。
滑り込むなら、どこまでも滑り込んでいける。
そして何より、お盆という時期そのものが、現世の地盤を緩めています。
あちらとこちらの境界が、一年で最も薄くなる時期。
死者が帰ってくることを、社会全体が受け入れている時期。
その時期に、一人きりで火を見つめること。
それは、薄くなった壁に、自ら穴を開けるようなものです。
穴から覗けば、向こう側が見える。
向こう側からも、こちらが見える。
そして、穴を通って、何かが出入りする。
第二章の最後で、あなたに問いかけました。
この文章を読んでいる間、意識がどこにあったか、と。
今、改めて確認してください。
あなたは、どのくらいの時間、この文章を読んでいましたか。
体感時間と、実際の時間は一致していますか。
読み始めたとき、窓の外は明るかったですか、暗かったですか。
今はどうですか。
変わっていませんか。
もし、思ったより長い時間が経っていたなら。
あなたの意識は、どこかへ「行っていた」のかもしれません。
この文章の中に描かれた火を見つめながら。
この文章が作り出した、薄暗い境界の上を歩きながら。
気づかないうちに、一歩、あるいは半歩、向こう側へ踏み出していたのかもしれません。
大丈夫です。まだ戻れます。
次の章では、戻り方について語ります。
どうすれば、火に呑まれずに済むのか。
どうすれば、滑り落ちていく意識を繋ぎ止められるのか。
「錨」の話です。
綱渡りの帰還――正気を繋ぎ止めるための「錨(いかり)」
現世への「呼び声」の重要性
ここまで、火に呑まれる恐怖について書いてきました。
視線の吸着。
境界の上での宙吊り。
時間の歪み。魂の入れ替わり。
しかし、何百年もの間、人々は迎え火を灯し続けてきました。
そして、そのほとんどの人は、無事にこちら側へ戻ってきています。
なぜか。
それは、先人たちが「戻り方」を知っていたからです。
火との付き合い方。
境界の渡り方。
そして、向こう側に引きずり込まれそうになったときの、自分を繋ぎ止める方法。
それらは、民俗知として、口伝として、あるいは「おばあちゃんの言いつけ」として、静かに受け継がれてきました。
現代の私たちが危ういのは、その知恵を忘れてしまったからです。
火の本当の力を知らないまま、無防備に炎を見つめてしまうからです。
この章では、その「戻り方」について、できる限りお伝えしようと思います。
まず、最も重要な原則があります。
火を見つめている人を、背後から急に呼んではいけない。
これは、多くの地域で共通して伝えられている作法です。
なぜか。
火を見つめている人の意識は、既にこちら側から離れ始めています。
浅いトランス状態、あるいはその入り口に立っている状態です。
その状態で、背後から大きな声で名前を呼ばれると、魂が「驚いて」しまうのです。
驚いた魂は、身体に戻ろうとします。
しかし、急いで戻ろうとするあまり、戻る場所を間違えることがある。
あるいは、驚いた拍子に、もっと深くへ落ちてしまうことがある。
だから、火を見つめている人を呼び戻すときは、静かに、ゆっくりと行わなければなりません。
まず、その人の近くに立つ。
気配を感じさせる程度に、そっと近づく。
それから、小さな声で、あるいは触れるか触れないかの距離で、名前を呼ぶ。
「○○さん」と、穏やかに。
急がせてはいけません。
向こう側から戻ってくるには、時間がかかるのです。
水の底から浮かび上がってくるように、ゆっくりと、意識が浮上してくるのを待たなければなりません。
急かすと、溺れます。
物理的な接触も、有効な手段です。
ただし、これも急にやってはいけません。
肩を叩く、腕を掴む、といった強い接触は、かえって魂を驚かせます。
そうではなく。
そっと、手を握る。
背中に、軽く手を当てる。
身体の温かさを、ゆっくりと伝える。
その温もりが、こちら側への「道しるべ」になるのです。
向こう側は、冷たい場所だからです。
火を見ていると、不思議なことに、身体が冷えていきます。
炎の熱は感じているはずなのに、指先が、足先が、芯から冷えていく。
それは、魂が向こう側に近づいている証拠です。
あちら側には、生きた温もりがないのです。
だから、生きた人間の手の温かさは、強力な錨になります。
「ここがこちら側だ」と、身体が思い出すのです。
匂いも重要です。
現世の、強い匂い。
塩。
酒。
線香。
あるいは、味噌汁の匂いや、焼き魚の匂い。
生活の匂い、生きている者の匂いが、意識を引き戻す力を持っています。
特に、塩と酒は古来より「浄化」と「覚醒」の力があるとされてきました。
火を灯す前に、傍らに塩を盛っておく。
小さな杯に、酒を注いでおく。
それらの匂いが、迎え火を灯している間、ずっとあなたを守ってくれます。
もし、意識が遠のきそうになったら。
塩をひとつまみ取り、舌に乗せる。
酒を一口、口に含む。
その鮮烈な味と匂いが、あなたを現実に繋ぎ止めてくれるでしょう。
そして、最も手軽で、最も強力な護身術があります。
火を消す際、「自分の名前」を心の中で唱えることです。
私は、○○である。
私は、ここにいる。
私は、こちら側の人間である。
名前は、存在の錨です。
名前を呼ばれることで、人は自分が誰であるかを思い出します。
逆に言えば、名前を忘れたとき、人は自分が誰であるか分からなくなる。
向こう側の者たちは、名前を持ちません。
いや、かつては持っていたのでしょう。
しかし、長い時間の中で、忘れてしまった。
だから、彼らはこちら側の者の名前を欲しがるのです。
名前を奪えば、代わりにこちら側に居座ることができる。
名前を奪われた者は、向こう側へ行くしかなくなる。
だから、自分の名前を、しっかりと握りしめておかなければなりません。
火を灯す前に、唱える。
火を見つめている間、心の隅で握りしめる。
火を消す時、もう一度唱える。
私は、○○である。
私は、帰ってきた。
私は、ここにいる。
お祖母様が握らせてくれた「重し」
祖母は、いくつかの作法を教えてくれました。
その中でも、特に印象に残っているのは「重し」の話です。
「火を灯すときはね、ポケットに石を入れておきなさい」
幼い私には、意味が分かりませんでした。
「なぜ?」と聞くと、祖母はこう答えました。
「魂は軽いからね。
火の粉と一緒に、ふわふわと飛んでいってしまう。
だから、身体を重くしておくんだよ。
石を持っていれば、魂が飛ぼうとしても、身体が『おもい、おもい』って引き留めてくれる」
今なら、この教えの深さが分かります。
トランス状態に入ると、身体感覚が希薄になります。
自分が立っているのか座っているのか、分からなくなる。
地面を踏んでいる感覚、重力に引かれている感覚が、薄れていく。
その状態が、「魂が浮く」感覚なのです。
身体と意識の繋がりが弱まり、魂がふわりと浮き上がろうとする。
それを防ぐために、身体の「重さ」を自覚させるのです。
石をポケットに入れる。
その重みを感じる。
あるいは、火を灯す前に、地面を強く踏む。
足裏の感覚を確かめる。
「私はここにいる。
私の身体はここにある。
重力は私をこの場所に繋ぎ止めている」
その自覚が、錨になるのです。
別の地域では、こんな作法もあります。
火を灯す前に、両足の親指に力を入れる。
地面を「掴む」ようなイメージで、ぐっと踏みしめる。
そうすることで、身体が地面に根を下ろす。
根を下ろした身体は、簡単には浮き上がらない。
これも、同じ原理です。
身体感覚を強く意識することで、意識が身体から離れるのを防ぐ。
浮遊感に抗い、重力を味方につける。
あちら側へ引っ張る力に対して、こちら側に留まる力で対抗する。
ここで、現代人に対する警告を述べておかなければなりません。
私たちの精神状態は、かつてないほど「ふわふわ」しています。
スマートフォンの画面を眺め、SNSのタイムラインを流し見し、動画を次から次へとスワイプしていく。
意識は常に拡散し、一つのことに集中する時間が短くなっている。
身体を動かす機会が減り、自分の身体の感覚を意識することが少なくなっている。
地面を踏みしめる感覚。重力に引かれている感覚。息を吸い、息を吐いている感覚。
それらが、希薄になっている。
この状態は、火に呑まれやすい状態です。
既に半分、こちら側から離れかけているようなものです。
意識がふわふわと漂っているところに、火の揺らめきが加われば。
あっという間に、向こう側へ滑り落ちてしまうでしょう。
だから、現代において迎え火を灯すなら、より一層の注意が必要です。
火を灯す前に、しばらく身体を意識する時間を取る。
深呼吸をする。
足裏の感覚を確かめる。
自分の体重を感じる。
「私はここにいる」ということを、身体で確認してから、火を灯す。
それが、現代の私たちに必要な作法なのです。
あなたは今、どちら側にいますか?
長い文章を、ここまで読んでくださいました。
ありがとうございます。
そして、お疲れ様でした。
最後に、もう一度、あなたに問いかけます。
あなたは今、どちら側にいますか。
この文章を読み始めたとき、あなたは確かにこちら側にいました。
椅子に座り、画面を見つめ、文字を追っていた。
周囲には見慣れた部屋があり、聞き慣れた音があり、日常があった。
しかし、読み進めるうちに、どうでしたか。
火の揺らめきを、想像しませんでしたか。
オガラの燃える匂いを、どこかで嗅ぎませんでしたか。
夏の夕暮れの、あの空気を、肌に感じませんでしたか。
あの男の話を読んでいるとき、あなたの意識はどこにありましたか。
三十年を失った男の、その空白の時間に、あなたも一緒に入り込んでいませんでしたか。
入れ替わりの話を読んでいるとき、ふと、自分の手を見ませんでしたか。
これは本当に自分の手だろうか、と。
この文章は、一つの実験でもありました。
文字を目で追う行為そのものが、火を見つめる行為と似ている、と序文で述べました。
行から行へ、段落から段落へ、ゆっくりと意識を沈めていく体験。
周囲の世界が薄れ、文章の中の世界だけが浮かび上がってくる感覚。
それは、火を見つめているときに起こることと、本質的に同じなのです。
だとすれば。
この文章を読み終えようとしている今、あなたの意識は、読み始めたときと同じ場所にあるでしょうか。
少しだけ、ずれていませんか。
少しだけ、滑っていませんか。
少しだけ、向こう側に近づいていませんか。
大丈夫です。
戻り方は、既にお伝えしました。
まず、画面から目を離してください。
周囲を見回してください。
あなたのいる場所を、確認してください。
壁の色。窓の外の景色。置いてあるもの。聞こえる音。
それらを、一つ一つ確かめてください。
次に、自分の身体を感じてください。
椅子の感触。足が床についている感覚。呼吸のリズム。
手を握ったり開いたりしてみてください。
その感覚が、あなたの身体が、ここにあることの証拠です。
そして、自分の名前を、心の中で唱えてください。
私は、○○である。
私は、ここにいる。
私は、こちら側の人間である。
さて、お盆は近づいてきます。
あなたも迎え火を灯すかもしれません。
玄関先で、あるいは庭で、小さな火を焚くかもしれません。
そのとき、この文章のことを思い出してください。
火には力があります。
門を開く力。境界を溶かす力。意識を変容させる力。
その力は、正しく使えば、亡き人と再び繋がるための手段になります。
しかし、油断すれば、あなた自身を向こう側へ連れ去る力にもなりうるのです。
火を灯す前に、足元を確かめてください。
火を見つめる間、自分の名前を忘れないでください。
火を消したら、深く息を吸い、自分がこちら側にいることを確認してください。
そして、もし、火を見つめている最中に、懐かしい誰かの姿が見えたとしても。
その人が手を伸ばしてきたとしても。
「おいで」と呼んでいるように見えたとしても。
行ってはいけません。
あなたが行くべき場所は、火の向こうではないのです。
少なくとも、今はまだ。
この文章を閉じた後、あなたが無事にこちら側にいることを願っています。
次に火を灯すとき、それが「誰かを迎えるための火」であることを。
「あなたを連れ去るための合図」ではないことを。
それを決めるのは、あなた自身の足元の確かさだけです。
どうか、地面を踏みしめて。
どうか、自分の名前を握りしめて。
どうか、こちら側に、留まっていてください。
この文章を読み終えた後、しばらく火を見ることに抵抗を感じるかもしれません。
それは正常な反応です。
その抵抗感は、あなたの「自己防衛本能」が正しく働いている証拠です。
恐れる必要はありません。
ただ、敬意を持ってください。
火は、古来より人間とともにあったものです。
私たちを温め、私たちを照らし、私たちを守ってきたものです。
同時に、私たちを焼き、私たちを惑わし、私たちを連れ去る力も持っているものです。
その両面を知った上で、火と付き合っていくこと。
それが、この文章の本当の目的でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
どうか、良いお盆を。