あなたは今、どこにいますか
この文章を読んでいるあなたに、まず一つだけ確認しておきたいことがある。
あなたは今、どこにいますか。
自分の部屋だと答える人が多いだろう。
リビングのソファ、寝室のベッド、あるいは通勤電車の座席かもしれない。
いずれにせよ、あなたはおそらく「内側」にいると思っている。
壁があり、扉があり、鍵があり、だから安全だと。
しかし、その「内」と「外」を分ける境界線を、あなたは本当に意識したことがあるだろうか。
玄関の扉を開けるとき、あなたは何かを確認しているだろうか。
郵便受けの口から入ってくるものに、不審を感じたことはあるだろうか。窓の隙間から差し込む夜の風に、温度以外の何かを嗅ぎ取ったことは。
おそらく、ない。
現代に生きる私たちは、境界というものを物理的な隔壁としか認識していない。
コンクリートの壁、アルミサッシの窓枠、オートロックの電子錠。
それらが私たちを守っていると、疑いもなく信じている。
だが、かつてこの国の村落共同体には、まったく異なる境界認識が存在していた。
境界とは単なる物理的な線ではなく、「此岸」と「彼岸」、すなわち人間の領域と人間ならざるものの領域を分ける、霊的な結界線だったのである。
そしてその結界を守護するために、村人たちは奇妙な「門番」を立てていた。
藁で編まれた、巨大な人形を。
本稿では、日本各地に伝わる境界の藁人形と浄化の火が、いかにして村落を護り、そしていかにして村落を滅ぼしうるかを、民俗学的資料と各地に残る怪異譚を手がかりに読み解いていく。
読み進めるうちに、あなたはおそらく不安になるだろう。
自分が住んでいる場所の「境界」が、実はまったく無防備であること。
かつて存在していた霊的な門番が、現代社会からほぼ完全に消失していること。
そして何より、あなたの背後に――今この瞬間にも――何かが立っているかもしれないという、根源的な恐怖を。
だが、恐怖を知ることは、防御の第一歩でもある。
さあ、村の入口へ向かおう。
そこには藁で編まれた異形が、あなたを待っている。
門番としての藁――「境(サカイ)」に立つ異形
村の入口に立つもの――カシマ様と人形(ひとがた)
東北地方の山間部を車で走ったことのある人なら、あるいは記憶の片隅にあるかもしれない。
集落の入口、二本の杉の木に挟まれた細い道。
その脇に、妙に場違いな巨大な人形が立っていたことを。
藁で編まれた、高さ二メートルを超えるその人形は、両腕を広げ、村の入口を塞ぐように佇んでいた。
顔らしきものはあったが、目鼻の造形は曖昧で、それがかえって見る者に不安を与えた。
「あれは何だ」と同乗者に尋ねたかもしれない。
「さあ、案山子の一種じゃないか」と適当な返事が返ってきたかもしれない。
そしてあなたは、すぐにそのことを忘れただろう。
だが、あの人形は案山子ではない。
あれは「カシマ様」あるいは「ショウキ様」「仁王様」など、地域によって様々な名で呼ばれる、村の境界を守護する藁の神である。
秋田県から新潟県にかけての日本海側、岐阜県や長野県の山間部、そして山陰地方の奥深い集落。
これらの地域では、今なお村の入口にこうした巨大藁人形を設置する風習が残っている。
民俗学者・小野重朗の調査によれば、こうした道祖神としての藁人形は、主に三つの機能を担っていた。
第一に、疫病の侵入を防ぐ「防疫神」としての機能。
コレラや赤痢が流行すれば、村の入口に藁人形を立て、病魔の侵入を阻んだ。
第二に、悪霊や祟り神を追い払う「辟邪神」としての機能。
第三に、外部から訪れる者の邪気を祓い、清めた上で村に通す「浄化装置」としての機能である。
ここで注目すべきは、藁人形が単なる呪物ではなく、「代わりに死ぬもの」として設計されていたという点である。
疫病神や悪霊が村に入ろうとしたとき、藁人形は自らの身を差し出すことで、村人の代わりに「取り憑かれ」「殺される」。
藁という脆い素材が選ばれたのは、まさにこの「身代わりの死」を可能にするためだった。
石像では壊れない。
木像では燃えない。
藁だからこそ、火で焼かれ、水で溶かされ、風で散らされる。
その脆弱性こそが、身代わりとしての機能を担保していたのである。
だが、ここで一つの疑問が生じる。
もし藁人形が「代わりに死ぬ」のであれば、その人形には何らかの「命」が宿っていなければならないのではないか。
魂のない藁束が、いかにして疫病神の代わりに死ねるというのか。
答えは、火にあった。
浄化の火と、選別の煙
かつて日本の村落では、境界の火は「選別装置」として機能していた。
お盆の迎え火を思い浮かべてほしい。
玄関先でオガラを焚き、その煙と炎で先祖の霊を迎え入れる。
しかし民俗学的に見れば、迎え火の本質は「歓迎」よりもむしろ「検問」にあった。
火と煙は、目に見えないものに対するフィルターである。
先祖の霊は、火の中を通ることができる。
生前、この家で暮らし、この火で炊いた米を食べ、この煙の匂いを嗅いだことがあるからだ。
火と煙は、その霊が「本物の家族」であることを確認するための、いわば生体認証装置だった。
しかし、先祖を装った偽物は、火を恐れる。
民俗学者・折口信夫が「まれびと」と呼んだ、外部からやってくる異形の存在。
彼らは火の浄化作用を本能的に避ける。
煙の匂いは、そうした存在にとって猛毒に等しい。
なぜなら煙には、「この世」の生活の残滓――米を炊き、野菜を煮、肉を焼いた、人間の営みの記憶が染み付いているからである。
「外のもの」は、その匂いに耐えられない。
私がこの話を初めて聞いたのは、取材で訪れた山陰地方の古老からだった。その老人は、今はすでに失われた集落の出身で、子供の頃に祖母から繰り返し聞かされた教えがあるという。
「村の境の火をまたぐときは、決してよそ見をしちゃいけないよ」
なぜですか、と私は尋ねた。
「火が見ているのはお前じゃなく、お前の後ろに付いてきた『何か』だからね」
老人によれば、村の入口の火は、通過する者の「後ろ」を見ている。人が歩くとき、その背後には常に影が付きまとう。
だが、影だけならばよい。
問題は、山道を歩くうちに、影に紛れて「別のもの」が付いてくることである。
村に戻ってきた旅人は、境界の火をまたぐことで、自分に憑いてきた厄を燃やし落とすことができた。
だが、そのとき振り返ってはならない。
振り返れば、燃え落ちるはずだったものと「目が合う」。
目が合えば、そのものとの縁が生まれる。
縁が生まれれば、火で祓うことはできなくなる。
では、振り返ってしまった者はどうなるのか。
老人は答えなかった。
ただ、窓の外の暗がりをじっと見つめていた。
ここで、先ほど触れた藁人形の話に戻ろう。
村の入口に立つ藁人形は、この境界の火と深く結びついていた。
多くの集落では、藁人形は年に一度、あるいは祭りのたびに新しく作り直される。
そして古い人形は、境界の火で燃やされる。
この「作り直しと焼却」のサイクルには、重要な意味があった。
新しい藁人形が作られるとき、それは単なる藁の束でしかない。
形は人に似せてあるが、そこに霊的な力は宿っていない。
これを「門番」として機能させるためには、ある種の「命」を吹き込む必要があった。
その命を与えるのが、火である。
岐阜県の一部地域では、新しい藁人形を立てる際、松明の火を人形の「目」の部分に近づける儀式が行われていた。
火は藁を焼かない程度に、しかし確実に熱を伝える。
その熱が人形に「命」を吹き込み、藁の束を守護神へと変容させる。
だが、この儀式には危険が伴った。
火を与えすぎれば、人形は燃えてしまう。
火が足りなければ、人形に命は宿らない。
適切な加減を知る者は、村の中でもごく限られていた。
その技術は神職や長老から口伝で継承され、文字に残されることはほとんどなかった。
なぜ文字に残さなかったのか。
それは、この知識が「危険」だったからではないだろうか。
私がある民俗学の論文で見つけた、奥羽地方の古い記録にはこうある。
「藁ノ御神体ニ火ヲ与フル時、其ノ火ノ色ヲ見ルベシ。赤キ火ナラバ吉、黒キ火ナラバ即座ニ捨ツベシ」
火が黒く見えるなど、物理的にはありえない。
しかし、この記録は何かを警告している。火を与える瞬間に、何か「おかしなもの」が人形に入り込む可能性があることを。
藁人形は、守護者になるはずだった。
しかし、火を媒介にして、別のものが入り込むことがある。
それは守護者ではなく、「守護者のふりをしたもの」である。
そしてその「ふりをしたもの」は、村を守る代わりに、村を内側から蝕んでいく。
藁人形に宿る「仮の命」
山陰地方の、今はほぼ無人となった集落で、私は一人の老婆から奇妙な話を聞いた。
「お人形様にはね、目がありますの」
彼女の話によれば、その集落では村の入口に立つ藁人形を「お人形様」と呼んで敬っていた。
毎年秋の終わりに古い人形を焼き、新しい人形を立てる。
新しい人形には、小さな炭片を二つ、顔の位置に埋め込む。
それが「目」になる。
「炭の目は、火で焼かれたものでしょう。
だからお人形様は、火の記憶を持っているの。
火で何かを焼いたことがある。
火で焼かれたこともある。
その両方の記憶があるから、村の入口で何を焼き、何を通すか、分かるのですよ」
なるほど、と私は相槌を打った。
理屈としては、よくできた民俗信仰だと思った。
だが、老婆の次の言葉で、私の背筋は凍った。
「でもね、時々、お人形様の目がね、動くことがありましてね」
動く。
藁に埋め込まれた炭片が、動く。
「松明の火を近づけたときですよ。
揺らめく炎に照らされて、影が動くから目が動いて見えるだけだって、皆そう言いますの。
でもね、私、一度だけ見たことがありますの」
何を見たのですか。
「まばたき、ですよ」
老婆によれば、彼女が十二、三歳の頃、秋祭りの夜のことだった。
村人たちが藁人形の前で火を焚き、翌年の豊穣を祈っていた。
彼女はたまたま人形の正面に立っていて、ふと人形の顔を見上げた。
炭の目は、確かに動かない。
動かないはずだった。
しかし、松明の炎が一際大きく揺れた瞬間、炭の黒い表面が一瞬だけ「閉じた」ように見えた。
そしてまた開いた。
それはまばたきとしか言いようがなかった。
「怖くて、お母さんの手をぎゅっと握りましてね。
でも誰も気づいていないの。
お人形様がまばたきしたなんて言っても、きっと信じてもらえない。
だから私、黙っていましたの」
老婆はそこで言葉を切り、窓の外を見た。
すでに日は暮れかけていた。
「でもね、今思うと、あれは本当にまばたきだったのかしら。
それとも、お人形様の中に入った『何か』が、外を覗いていたのかしら」
私は何も答えられなかった。
集落を後にする車の中で、私は老婆の言葉を反芻していた。
藁人形に宿る「仮の命」。
それは火によって与えられ、火によって送られる。
しかし、その火が適切でなければ、本来入るべきでないものが入り込む。
守護者として立てられた藁人形が、実は最初から「別のもの」だった可能性。
だとすれば、村人たちは何年も、何十年も、「門番のふりをした侵入者」を崇め、守られていると信じながら、実際には内側から蝕まれていたことになる。
ふと、私は車の速度を落とした。
道路の脇に、何かが見えた気がしたからだ。
夕闘の薄暗がりの中、細い杉の木々の間に、何か大きなものが立っているような。
目を凝らしたが、何も見えなかった。
見えなかった、と思う。
しかし、バックミラーを見たとき、私の心臓は一瞬止まった。
杉の木々の間に、確かに何かが立っていた。
人の形をした、藁のような色の、何かが。
私は急いでアクセルを踏んだ。
それが本当に藁人形だったのか、それとも木々の影がそう見えただけなのか、今となっては分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
私はあの日以来、村の入口を通るたびに、必ず確認するようになった。
そこに立っているものが、本当に「守護者」なのか、それとも守護者のふりをした「何か」なのかを。
本章では、村の境界に立つ藁人形と浄化の火の基本的な構造について概観した。
次章では、この精緻に組み上げられた防衛システムが、いかにして崩壊しうるかを見ていく。
守護のための火が、逆に結界を焼き切ってしまったとき。
藁の門番が燃え尽きた後、その隙間から何が入り込んでくるのか。
そして、入り込んできた「それ」が、いかにして村の深部まで侵入していくのかを。
火の暴走――結界が焼き切られるとき
守護と破壊の危ういバランス
火は、両義的な存在である。
浄化と破壊。
守護と殺戮。
生命の源であると同時に、あらゆるものを灰に帰す終焉の力。
人類が火を手にしたその瞬間から、私たちはこの危険な道具との綱渡りを続けてきた。
境界の火もまた、例外ではなかった。
前章で述べたように、村の入口で焚かれる火は「選別装置」として機能していた。
先祖の霊を通し、悪しきものを焼き祓う。
しかし、この精緻なシステムには致命的な脆弱性が内包されていた。
悪を焼くための火が、守護者である藁人形そのものを焼き尽くしてしまう可能性である。
新潟県の山間部に、かつて「火逃げ村」と呼ばれた集落があった。
今はダム建設によって湖底に沈んでいるが、一九五〇年代に民俗学者が採取した聞き書きが残っている。
その記録によれば、明治の中頃、この村で悲惨な事故が起きた。
秋の終わり、例年通り村の入口の藁人形を新しくする祭りが行われていた。
古い人形を焼き、新しい人形に火で命を吹き込む。
何十年、おそらく何百年と続けられてきた儀式である。
しかしその年、異変が起きた。
古い人形を焼く火が、突風によって新しい人形に燃え移ったのである。
村人たちは慌てて火を消そうとしたが、藁は乾燥しきっており、火の勢いは凄まじかった。
新しい人形はあっという間に炎に包まれ、黒い煙を吐きながら崩れ落ちた。
古い門番は焼かれた。
新しい門番もまた、命を吹き込まれる前に灰と化した。
村の入口には、何も立っていなかった。
「その夜からですな」と、聞き書きに応じた老人は語っている。
「村がおかしくなったのは」
結界が崩壊したとき、何が起きるのか。
民俗学的な解釈に従えば、村の入口の藁人形は物理的な防壁であると同時に、霊的な境界線の「錨」でもあった。
船が錨を失えば漂流するように、村の結界もまた、錨を失えば揺らぎ、ついには破れる。
「火逃げ村」で起きたことを、老人はこう証言している。
火が消えた後、村は異様な静寂に包まれた。
秋の夜のことである。
虫の声が聞こえるはずだった。
しかし、何も聞こえない。
風の音すらしない。
まるで村全体が、厚い綿で包まれたような、圧迫的な静けさ。
そして、冷たい風が吹き始めた。
それは山から吹き下ろす普通の夜風ではなかった。
老人の言葉を借りれば、「方向がなかった」。
東から吹くでもなく、西から吹くでもなく、まるで四方八方から同時に、村の中心に向かって吹き込んでくるような風。
その風には、匂いがあった。
土の匂いでも、枯葉の匂いでもない。
強いて言えば、「何かが腐りかけているような」匂い。
しかし腐臭というには淡く、かすかで、気のせいかもしれないと思わせる程度の。
村人たちは不安を感じながらも、その夜は各自の家に戻った。
何しろ藁人形が燃えてしまったのだ。
翌日、新しい人形を作り直さなければならない。
今夜は休むしかあるまい。
しかし、翌朝になって、彼らは気づくことになる。
休んでいる間に、何かが起きていたことを。
「逆転の簒奪者」――火を盗んで入るもの
老人の証言は、ここから急激に具体性を増す。
翌朝、村人たちが起き出して最初に気づいたのは、家畜の様子がおかしいことだった。
牛が怯えている。繋がれたまま、壁に体を押し付けるようにして震えている。
目は白目を剥き、口からは泡を吹いている。
鶏は小屋の隅に固まって動かない。
犬は自分の尻尾を追いかけるように、狂ったようにぐるぐると回っている。
そして、何頭かの家畜は死んでいた。
外傷はない。
病気の兆候もない。
ただ、死んでいた。
目を見開いたまま、何か恐ろしいものを見たかのような表情で。
「獣は分かるんですな」と老人は言った。
「人間には見えんものが、獣には見える」
村人たちは慌てて村の入口に向かった。
藁人形を作り直さなければ。
結界を修復しなければ。
しかし、そこで彼らは奇妙なものを目にすることになる。
昨夜の火事で、藁人形が立っていた場所には灰の山ができていた。
まだ微かに煙が上がっている。
その灰の中に、足跡があった。
人間の足跡ではない。
獣の足跡でもない。
それは、「人間の足跡に似ているが、指が長すぎる」ものだった。
そして、その足跡は一本道で村の中央に向かって続いていた。
村人たちは息を呑んだ。
足跡は、村の中央で消えていた。
消えていたというより、そこから「四方に散っていた」というべきだろうか。
まるで、村の中央に何かが立ち、そこから各家々へ向かって歩き出したかのように。
そして、足跡は各家の門の前で止まっていた。
家の中には入っていない。
門の前で止まり、そこで途切れている。
まるで、家の中に入れるかどうか、確かめていたかのように。
ここで、私は構成案に記されていた「具体的エピソード」を思い出す。
ある村で、境界の火を焚き終えた後、藁人形の顔が変わっていることに村人が気づいた。
その顔は、「村で一番最近亡くなった人」にそっくりだった。
つい三日前に病で亡くなった老婆の顔。
皺の刻まれ方、目の窪み、への字に結んだ口。
藁と縄で編まれた人形が、どうしてそこまで精巧に人の顔を再現できるのか。
理屈では説明がつかない。
しかし、村人たちはそれを「吉兆」だと解釈した。
亡くなった婆様が、村を守るために人形に宿ってくださったのだ。
なんとありがたいことか。村人たちは喜び、その人形を——通常は村の入口に立てておくものを——村の中央、集会所の前に移した。
婆様が寂しくないように、皆の近くにいられるように。
その夜から、村中の家畜が変死し始めた。
このエピソードが示唆しているのは、結界が破れたとき、侵入してくるものが取りうる戦略である。
彼らは、正面から来ない。
先祖のふり、守護者のふり、「村の者」のふりをして入り込む。
藁人形という「器」を乗っ取り、村人に歓迎させ、自ら結界の内側に招き入れさせる。
これこそが「簒奪」である。
守護者の座を奪い取り、守護者のふりをしながら、内側から村を蝕んでいく。
村人たちは守られていると信じている。
しかし実際には、彼らを守っているはずのものが、彼らを監視している。
彼らを数えている。彼らを、選別している。
「火逃げ村」で起きたことも、おそらくこれと同様だったのではないか。
藁人形が燃え尽きた夜、結界の隙間から何かが入り込んだ。
それは火の光を「衣」のように纏っていたのかもしれない。
燃え盛る藁人形の炎から、火の残像を剥ぎ取り、それを身に纏うことで、「火で浄化されたもの」のふりをしていたのかもしれない。
だからこそ、村人たちは気づかなかった。
火は浄化の象徴である。
火を纏っているものは、清らかなはずである。
先祖の霊は火を恐れず、火の中を通ってくる。
だから、火を纏っているものは、先祖と同じ属性を持っているはずだ——
この論理の穴に、彼らは気づかなかった。
火を「恐れない」ことと、火を「利用する」ことは、まったく別のことなのだ。
灰の中に残る「招かれざる客」の足跡
「火逃げ村」の老人の証言は、さらに続く。
足跡が発見された翌日から、村には奇妙な現象が頻発するようになった。
まず、明かりがおかしくなった。
当時の村では、行灯や蝋燭が主な照明だった。
しかし、火を灯しても、なぜか「暗い」のである。
火は確かに燃えている。
芯は正常で、油も十分にある。
炎の大きさも、いつもと変わらない。
しかし、その炎が照らす範囲が、明らかに狭くなっていた。
普段なら部屋の隅まで届くはずの光が、火元から一尺ほどの範囲しか照らさない。
その外側は、まるで闇が「押し寄せてくる」ように、濃く、深い。
村人たちは蝋燭を増やした。
行灯を二つ、三つと並べた。
しかし、どれだけ火を増やしても、闇は後退しなかった。
むしろ、火を増やすほどに、その火を取り囲む闇が濃くなっていくように感じられた。
そして、人々は気づき始めた。
闘の中に、何かがいることを。
直接見えるわけではない。
視界の端で、ちらりと動くような気配。
振り向けば何もいない。
しかし、振り向いた瞬間、反対側の闇の奥で何かが動いたような。
「あれは見るもんじゃない」と老人は言った。
「見たら、向こうもこっちを見る。
見られたら、憶えられる。
憶えられたら、もう逃げられん」
村人たちは、闇から目を逸らすようになった。
家の中でも、部屋の隅は見ないようにした。
夜は早く寝て、朝は明るくなってから起きた。
火の届かない場所には、決して近づかないようにした。
しかし、それでも被害は続いた。
家畜が死に続けた。
次第に、人間にも異変が現れ始めた。
ある家の老人が、朝起きてこなかった。
家族が見に行くと、布団の中で目を見開いて硬直していた。
死んでいるのかと思ったが、息はある。目は開いている。しかし、何を呼びかけても反応しない。
まるで、魂だけがどこかに行ってしまったように。
その老人は、三日後に静かに息を引き取った。
最後まで、一言も喋らなかった。
「あの人は見てしまったんだろう」と老人は言った。
「夜中に目が覚めて、部屋の隅を見てしまった。
そこに何がいたのかは分からん。
しかし、見てしまった。
見られてしまった。
だから、連れて行かれた」
私はここで、一つの民俗学的概念を思い出す。
「マヨイガ」である。
遠野地方に伝わるこの怪異譚では、山中で道に迷った者が無人の豪邸に辿り着く。
中には誰もいないが、囲炉裏には火が燃え、膳には料理が並んでいる。
まるで、誰かが住んでいるかのように。
多くの場合、マヨイガに迷い込んだ者は何かを持ち帰ることで富を得る。
しかし、一部の伝承では、マヨイガから「何かを持ち帰ってしまう」危険が語られている。
それは物ではない。
目に見えない何かである。
マヨイガに入った者の影に付いて、一緒に外に出てくる何か。
その何かは、持ち帰った者の家に住み着き、家族を一人ずつ連れて行く。
「火逃げ村」で起きたことも、これと類似しているのではないか。
結界が破れた夜、村は一時的に「境界のない空間」になった。
内と外の区別がなくなった。
それは、村全体がマヨイガになったようなものである。
そして、境界のない空間には、境界によって閉め出されていたものが入り込む。
彼らは村の中を歩き回り、各家の前で立ち止まり、中を覗いた。
誰が住んでいるのか、何人いるのか、どの順番で連れて行くのがよいか——
足跡が門の前で止まっていたのは、入れなかったからではない。
「まだ」入らなかっただけなのだ。
「火逃げ村」のその後について、老人は多くを語らなかった。
村人たちは急いで新しい藁人形を作り、結界を修復しようとした。
しかし、一度破れた結界は、同じ方法では修復できなかった。
何度人形を立てても、火を灯しても、あの「暗さ」は消えなかった。
闇の中の気配は消えなかった。
家畜は死に続け、人間も少しずつ減っていった。
最終的に、村人たちは村を捨てた。
彼らはこの村を「火に逃げられた村」と呼んだ。
やがてそれが縮まり、「火逃げ村」となった。
「火に逃げられた」——この表現は示唆的である。
火が村を見捨てたのだ。
守護の火が、村から逃げ出した。
結界を維持することを放棄した。
なぜか。
おそらく、火ですら焼き尽くせないものが、すでに村の内側に入り込んでいたからではないか。
火は悪を焼く。
しかし、自分が育てたものは焼けない。火によって「命」を吹き込まれたものは、火の子供である。
親は子供を焼けない。
結界を破って入り込んだものは、藁人形の炎を簒奪することで、火の子供になりすましていたのではないか。
だから火は逃げた。
自分の力では、もう村を守れないと悟ったから。
この章の最後に、私はあなたにもう一度問いたい。
あなたの家の「境界」は、本当に守られていますか。
かつて、日本のすべての村には門番がいた。
藁で編まれた、異形の守護者が。
そして、境界には火が灯っていた。外から入ろうとするものを選別し、浄化する炎が。
しかし今、その門番はどこにもいない。
マンションのオートロックは、電子的な施錠システムに過ぎない。
カードキーを持っていれば誰でも入れる。
いや、「何でも」入れる。
玄関の扉は木製か金属製か、いずれにせよ物理的な板に過ぎない。
火で浄化されていない。
煙で燻されていない。
あなたが家に帰るとき、あなたの後ろには何が付いてきているだろうか。
電車で隣に座っていた見知らぬ人の視線。
すれ違った誰かの悪意。
街角で感じた説明のつかない不安。
それらは、あなたの影に紛れて、一緒に家に入ってきていないだろうか。
かつてなら、境界の火がそれを焼き落としてくれた。
しかし今、火はない。
あなたは毎日、浄化されないまま、外のものを内に持ち込んでいる。
少しずつ、少しずつ、あなたの家の中に「外のもの」が蓄積していく。
いつか、飽和点に達するその日まで。
身代わりの断末魔――藁が「叫ぶ」夜
燃え盛る人形が見せる「表情」
藁人形の最期を、あなたは見たことがあるだろうか。
祭りの終わり、役目を終えた人形が火にくべられる瞬間を。
乾いた藁が炎に舐められ、最初は静かに、やがて激しく燃え上がる。
その光景を、間近で見たことがあるだろうか。
私は一度だけ、ある。
取材で訪れた東北の小さな集落で、年に一度の「人形送り」の儀式に立ち会う機会を得た。
村の入口に一年間立っていた藁人形を、感謝とともに焼いて送り出す。
新しい人形を立てる前の、いわば引継ぎの儀式である。
夜だった。
村人たちは人形の周囲に集まり、長老が祝詞を唱えた。
松明の火が人形の足元に置かれると、乾燥しきった藁はすぐに燃え始めた。
最初は、美しいとさえ思った。
闇の中に立ち昇る炎。
橙色の光が村人たちの顔を照らし、黒い煙が夜空に溶けていく。
藁の焼ける匂いが鼻孔を満たす。
どこか懐かしい、稲刈りの後の野焼きを思わせる匂い。
しかし、火が人形の胴体に達したとき、私は異様なものを見た。
藁が燃えるとき、「パチパチ」という音がする。
それは誰もが知っている、焚き火の音である。
しかし、その夜の音は違った。
「パチパチ」ではなく、「パキ……パキキ……」という、何かが軋むような音。
そして、その音に合わせて、人形の姿勢が変わっていくように見えた。
火が回る前、人形は両腕を広げて立っていた。
村を守護する、威厳ある姿勢で。
しかし炎に包まれるにつれ、その腕が少しずつ下がり、内側に曲がり、まるで胸を抱え込むような形になっていった。
熱で藁が収縮したのだ——と、理性は説明しようとした。
藁の繊維が燃えて縮み、結果として腕の形が変わった。
物理的に当然のことだ。
しかし、その「物理的に当然のこと」が、あまりにも人間的な動きに見えた。
苦しんでいるように見えた。
熱さにもがき、逃れようとしているように見えた。
しかし足は地面に固定され、逃げることができない。
だから体をよじり、腕を折り曲げ、せめて顔を炎から遠ざけようとしているように——
私は目を逸らした。
見ていられなかった。
周囲の村人たちは、静かに手を合わせていた。
彼らの表情は穏やかで、感謝に満ちていた。
一年間、村を守ってくれた人形への、惜別と感謝。
彼らには、「あれ」が見えていないのだろうか。
燃え盛る人形が、炎の中でのたうち回っているのが。
後になって、私は民俗学の文献を調べた。
藁人形を焼く儀式について、いくつかの興味深い記述を見つけた。
江戸時代後期の随筆『北越雪譜』には、越後地方の藁人形焼きについて、こんな記述がある。
「火に投ぜらるる時、人形あたかも生けるが如く動けり。
村人これを見て怪しまず、人形の魂が天に昇るなりと言へり」
また、明治時代の民俗調査記録には、東北地方のある村の習俗として、以下の記述がある。
「人形を焼く際、縄にて口の部分を縛るべし。
さもなくば、人形最期の時に叫び声を上げ、これを聞きたる者、三日のうちに熱病に罹ると云ふ」
口を縛る。
叫び声を上げさせないために。
私は背筋が寒くなった。
藁人形は、単なる藁の束ではない。
火を通じて「命」を吹き込まれた存在である。
その命は、おそらく一年間——あるいは祭りの期間だけ——人形の中に宿り続ける。
そして、人形が焼かれるとき、その「命」もまた焼かれる。
命があるものは、焼かれれば苦しむ。
苦しめば、叫ぶ。
「パキキキ……」という、藁の軋む音。あれは、軋みではなかったのかもしれない。
断末魔だったのかもしれない。
二、呪いの転嫁――守護者が「祟り神」へ変わる瞬間
ここで一つの疑問が生じる。
もし藁人形が「命」を持ち、焼かれることで「死ぬ」のであれば、その人形は焼かれることをどう感じているのだろうか。
一年間、風雨に晒されながら村を守り続けた。
疫病を防ぎ、悪霊を追い払い、村人の代わりに「死ぬ」役目を引き受けてきた。
その働きに対する報酬が、火で焼かれることなのか。
感謝されながら、燃やされる。
それは、人形にとって「良い死」なのだろうか。
民俗学者・宮田登は、道祖神信仰についての論考の中で、興味深い指摘をしている。
道祖神や藁人形のような境界の守護者は、もともと「外部から来た異人」を祀ったものであることが多い。
つまり、村を守る神は、かつては村の「敵」だったのである。
敵を捕え、殺し、その霊を祀ることで守護神に変える。
これは日本の民俗信仰に広く見られるパターンである。
怨霊を鎮め、祟り神を守り神に転じさせる。
いわば、「呪い」を反転させて「守り」にするのである。
しかし、この転換には危うさが伴う。
守護神は、適切に祀られている限りにおいてのみ、守護神でありつづける。
祀りを怠り、感謝を忘れ、不敬な扱いをすれば、守護神は容易に祟り神へと戻る。
藁人形の場合、「適切な送り方」が極めて重要だった。
先の文献調査で、私は山陰地方の古い村に伝わる禁忌について記述を見つけた。
「人形を焼くに際し、必ず新しき人形を先に立つべし。
古き人形は、己が後継を見届けてのち焼かるべし。
順序を違えば、古き人形、村への怨みを抱きて成仏せず」
古い人形は、新しい人形が自分の役目を引き継ぐのを確認してから、焼かれなければならない。
そうでなければ、古い人形は「自分がいなくなった後、村はどうなるのか」という不安を抱えたまま死ぬことになる。
不安を抱えたまま死んだ者は、成仏しない。
成仏しない者は、さまよう。
さまよう者は、やがて恨みを抱く。
ここで、構成案に記されていた具体的エピソードを思い出す。
山陰の古い村に、こんな話が伝わっている。
ある年、祭りの準備が遅れ、新しい藁人形ができる前に古い人形を焼いてしまった。
人手が足りなかったのか、単なる手違いだったのか、今となっては分からない。
火は順調に燃え、古い人形は灰になった。
しかし、翌朝、村人たちは異様なものを目にすることになる。
村の中央に、焼かれたはずの藁人形の「首」が落ちていたのである。
胴体は灰になった。
腕も、足も、すべて燃え尽きた。
しかし、首だけが残っていた。
黒く焦げ、半分は炭化しているが、形は明らかに首だった。
そしてその首は、焼かれた場所から数十メートル離れた、村の中央に転がっていた。
風で飛ばされた——と、村人たちは考えようとした。
しかし、あの夜、風はほとんど吹いていなかった。
そして、首が転がっていた場所には、焦げた跡が点々と続いていた。
まるで、首が自力で村の中を転がってきたかのように。
その首は、目を開いていた。
炭化した藁の表面に、二つの穴が開いていた。
目があった場所に。
しかし、その穴は単なる焦げ跡ではなく、何かを「見ている」ように見えた。
村人たちは恐怖し、すぐにその首を焼こうとした。
しかし、燃えなかった。
火をつけても、油をかけても、一切燃えない。
まるで、すでに「死んでいるから、二度は死なない」とでも言いたげに。
結局、村人たちはその首を箱に入れ、村はずれの祠に封印した。
以来、その祠には誰も近づかないという。
しかし、封印してからも、夜になると村のどこかで「カサ……カサ……」という音がするという。
乾いた藁がこすれ合うような音が。
音のする方を見た者は、まだいない。
見た者が、いないだけかもしれない。
見て、そのまま帰ってこなかった者が、いるだけかもしれない。
三、結界を編み直す代償
一度破られた結界を修復することは、可能なのだろうか。
前章で触れた「火逃げ村」は、結界を修復できずに村を捨てた。
山陰の村は、祟り神と化した人形の首を封印するしかなかった。
しかし、いくつかの記録は、結界の修復に「成功した」村の存在を示唆している。
ただし、その代償は凄絶なものだった。
江戸時代中期の文書に、奥羽地方のある村で行われた「境直し」の儀式についての記述がある。
「境破れたるとき、これを直すには三つの供物を要す。
一つ、村にて最も清き者の血。
二つ、村にて最も穢れたる者の骨。
三つ、村にて最も惜しまるる者の涙。
この三つを藁に染み込ませ、新たなる人形を作れば、境は直る」
最も清き者の血。
最も穢れたる者の骨。
最も惜しまれる者の涙。
これらが具体的に何を指すのか、文書には明記されていない。
しかし、「血」と「骨」という言葉が並んでいる時点で、何らかの犠牲が伴っていたことは想像に難くない。
別の記録には、より直接的な記述がある。
「境を直すには、人を一人、藁とともに編み込むべし」
人を、藁とともに。
これは文字通りの意味なのだろうか。
それとも、何らかの象徴的な儀式を指しているのだろうか。
私にはわからない。わかりたくない、というのが正直なところである。
しかし、確実に言えることがある。
結界を維持することは、無料ではなかったということだ。
村を守るために、誰かが——何かが——犠牲を払っていた。
その犠牲は、藁人形という形を取ることもあれば、もっと直接的な形を取ることもあった。
現代の私たちは、そうした犠牲を払っていない。
結界を維持するための儀式を、私たちは行っていない。
藁人形を立てていない。境界の火を灯していない。
「清き者の血」も「穢れたる者の骨」も「惜しまるる者の涙」も、境界のために捧げていない。
ならば、私たちの境界は、何によって守られているのだろうか。
何も、守られていないのではないか。
あるいは、こう考えることもできる。
私たちは知らないうちに、「代償」を払い続けているのではないか、と。
現代人の多くが感じている、説明のつかない不安。
夜になると募る孤独感。自分の居場所がどこにもないような、根無し草の感覚。
これらは、境界が破れた村の住人たちが感じていたものと、どこか似てはいないだろうか。
「火逃げ村」で、明かりがあるのに「暗い」と感じられた現象。
火を増やしても、闇が後退しなかった現象。
現代の私たちの生活にも、同様のことが起きていないだろうか。
照明を煌々と点けているのに、どこか薄暗い感じ。
暖房を強くしているのに、背筋がぞくぞくする感覚。
一人でいるはずなのに、誰かに見られているような気配。
境界を守護する火が消えたとき、外から入り込んできた「もの」は、ゆっくりと私たちに取り憑いていく。
憑かれた者は、少しずつ変わっていく。
最初は、疲労感かもしれない。
次に、意欲の減退。
人との関わりを避けるようになり、自分の殻に閉じこもるようになる。
感情が平板になり、かつて楽しかったことが楽しくなくなる。
気づいたときには、自分が自分でなくなっている。
鏡を見ても、そこに映っているのが本当に自分なのかどうか、分からなくなる。
それは、あの具体的エピソードで語られた、「火を跨いだ友達」の症状と同じではないか。
お祖母様が子供の頃、境界の火をまたごうとした時、一瞬だけ火が真っ黒に染まった。
お祖母様はとっさに足を引いたが、隣にいた友達はそのまま跨いでしまった。
その友達は、その日から自分の名前を思い出せなくなり、鏡を見ても「知らない人が映っている」と泣き続けた。
彼女の友達に何が起きたのか。
おそらく、黒く染まった火の中を通ったとき、彼女の「何か」が焼かれてしまったのではないか。
本来なら、火は外から付いてきた厄を焼き落とすはずだった。
しかし、火が「黒く」なったとき——つまり、火が本来の浄化機能を失ったとき——火は外のものではなく、その人自身の一部を焼いてしまった。
名前を思い出せない。鏡の自分が分からない。
それは、「自分が自分である」ということの根幹が焼かれた状態ではないか。
現代人の多くが感じている「生きている実感のなさ」「自分が何者か分からない感覚」は、もしかすると同じ現象なのではないか。
知らないうちに、私たちは黒い火をまたいでいるのではないか。
浄化されるのではなく、浄化されるべき部分を——私たちの魂の一番柔らかい部分を——焼かれているのではないか。
この章では、藁人形の「死」と、守護者が祟り神へと転じる過程を見てきた。
適切に送られなかった人形は、村を守る代わりに村を呪う。
結界を修復するには、犠牲が必要だった。
そして現代の私たちは、その犠牲を払っていない——あるいは、知らないうちに払わされている。
次章では、視点を現代に移す。
コンクリートに覆われた都市で、藁人形はどこに消えたのか。
消防法によって火を焚けなくなった私たちは、いかにして境界を守ればよいのか。
そして最後に、あなた自身の家の「境界」について、考えてみたい。
今夜、あなたが眠りにつくとき。
本当に安全な場所にいると、あなたは言い切れるだろうか。
見えない境界――現代の「境(サカイ)」と無防備な火
コンクリートに消えた藁人形
東京の街を歩いてみるがいい。
渋谷のスクランブル交差点、新宿のオフィス街、池袋の繁華街。
どこを歩いても、境界の門番は見当たらない。
藁で編まれた異形の神は、どこにも立っていない。
当然のことだ、とあなたは言うだろう。
ここは都市である。
高層ビルが立ち並び、地下鉄が縦横に走り、数百万の人間が蠢く巨大都市である。
藁人形の入り込む余地などあるはずがない。
しかし、私はあなたに問いたい。
藁人形が消えたのは、本当に「当然のこと」なのだろうか。
確かに、都市化の波は日本中の村落を飲み込んだ。
かつて藁人形が立っていた村の入口は、今やアスファルトの道路に変わった。
迎え火を焚いていた場所には、コンビニエンスストアが建っている。
境界を示していた二本の杉は切り倒され、その跡地にはマンションが聳えている。
物理的な意味での「境界」は、確かに消えた。
しかし、境界そのものは消えていない。
考えてみてほしい。
あなたの生活の中には、依然として無数の境界が存在しているはずだ。
マンションのエントランス。
オートロックの扉が開閉するその場所は、「外」と「内」を分ける境界である。
駅の改札。
ICカードをかざして通過するその瞬間、あなたは「街」と「鉄道網」の境界を越えている。
職場のセキュリティゲート。
社員証を提示して通るその場所は、「社会」と「会社」の境界である。
そして何より、あなたの家の玄関。
靴を脱ぎ、扉を閉め、鍵をかける。
その一連の動作によって、あなたは「外の世界」を締め出し、「内なる領域」に入る。
境界は消えていない。
ただ、見えにくくなっただけである。
問題は、それらの境界に「門番がいない」ということだ。
オートロックの扉は、ICチップを認識するだけである。
カードを持っていれば誰でも入れる。
改札機は、残高を確認するだけである。
どれほど邪悪なものを背負っていても、残高さえあれば通過できる。
セキュリティゲートは、顔写真と本人を照合するだけである。
外見が同じであれば、中身が入れ替わっていても分からない。
藁人形は、違った。
藁人形は、目に見えないものを見ていた。火の浄化作用は、目に見えない穢れを焼き落としていた。
境界を通過する者の「本質」を見抜き、選別し、浄化する。
そのシステムが、かつては機能していた。
今、そのシステムは存在しない。
あなたは毎日、浄化されることなく、無数の境界を通過している。
そして、無数の境界を越えてくるものと、すれ違っている。
彼らもまた、浄化されていない。
消防法と、消された防波堤
かつて、境界の火は「当たり前」のものだった。
玄関先で迎え火を焚くこと。
庭で落ち葉を燃やすこと。
門前で線香を焚くこと。
それらは日常的な行為であり、特別な意識なしに行われていた。
しかし今、それらの行為は困難——あるいは不可能——になっている。
消防法、火災予防条例、近隣への配慮。
さまざまな理由から、現代の都市生活において「火を焚く」ことは極めて制限されている。
マンションのベランダで火を焚けば、消防車が来るだろう。
庭で落ち葉を燃やせば、近隣から苦情が来るだろう。
これらの規制には、もちろん合理的な理由がある。
密集した都市部での火災リスク。
煙害による健康被害。
近隣トラブルの防止。
いずれも、無視できない重要な問題である。
しかし、こうした規制が広まるにつれて、私たちは何かを失ったのではないか。
火の持つ、浄化の機能を。
煙の持つ、フィルターとしての役割を。
先に述べたように、境界の火は「選別装置」だった。
先祖の霊を通し、悪しきものを焼き祓う。
煙は「魔」にとっての猛毒であり、穢れた存在は煙の匂いに耐えられない。
その防波堤が、現代では完全に失われている。
試しに、あなたの家の玄関を思い浮かべてみてほしい。
そこに、火は灯っているだろうか。
煙の匂いはするだろうか。
何らかの浄化装置は設置されているだろうか。
おそらく、何もないはずである。
あなたの家の玄関は、単なる「扉のある穴」である。
物理的には閉じることができるが、霊的にはまったく無防備な、ただの開口部である。
私はここで、ある民俗学者の言葉を思い出す。
「現代の住宅は、結界のない空間である。
それは、海に面した堤防のない土地に家を建てるようなものだ。
普段は問題ないかもしれない。
しかし、いつか必ず、波は来る」
波とは、何か。
外から押し寄せてくる、目に見えないものたちである。
かつては境界の火によって防がれていたものたちが、今は自由に出入りしている。
あなたの家に。
あなたの職場に。
あなたの生活のあらゆる領域に。
私は取材の中で、ある霊能者と呼ばれる人物に話を聞いたことがある。
彼は、現代の住宅について、こう語った。
「昭和の中頃までは、まだましだった。
家に仏壇があり、神棚があり、毎日線香を焚いていた。
それが、一種の浄化装置になっていた。
しかし今の家には、そういうものがない。
あっても、飾りものになっている。機能していない」
彼によれば、現代の住宅の多くは「素通し」の状態にあるという。
外から入ってきたものを、止めるものがない。
浄化するものがない。
だから、入ってきたものは、そのまま家の中に留まる。
少しずつ、少しずつ、蓄積していく。
「新築の家は、まだ清浄だ。
しかし、人が住み始めて、外から持ち込まれたものが溜まっていくと、家全体が重くなる。
空気が淀む。
住んでいる人は慣れてしまって気づかないが、外から来た人には分かる」
では、どうすればいいのか。
彼の答えは、意外にも実践的なものだった。
「難しいことではない。
塩を撒く。
お香を焚く。
玄関に盛り塩を置く。
週に一度でいい、何らかの形で『境界を意識する』行為をする。
それだけで、かなり違う」
塩、香、火。
いずれも、古来から浄化の道具として用いられてきたものである。
藁人形ほど強力ではないにせよ、一定の効果はあるという。
しかし、問題は、そうした行為を「迷信」として退けてしまう現代人の意識にある。
「科学的根拠がない」「非合理的だ」「時代錯誤だ」——そうした言葉で、私たちは古来の知恵を切り捨ててきた。
しかし、科学的根拠がないからといって、効果がないとは限らない。
少なくとも、かつての村人たちは、境界の火を灯すことで「安心」を得ていた。
安心は、心理的な安定をもたらす。
心理的な安定は、免疫力を高め、判断力を向上させ、生活全般にプラスの影響を与える。
プラシーボ効果だと言われれば、そうかもしれない。
しかし、プラシーボであれ何であれ、効果があるならば、それは「効果がある」のではないだろうか。
あなたの家の「境」は守られていますか?
さて、ここまで長々と語ってきた。
藁人形の正体について。
境界の火の機能について。
結界が破れたときに何が起きるかについて。
そして、現代の私たちがいかに無防備であるかについて。
最後に、あなた自身の問題として、この話を終わりにしたい。
今、あなたはどこでこの文章を読んでいるだろうか。
自分の部屋だろうか。
リビングだろうか。
寝室だろうか。
あるいは、通勤電車の中か、カフェの席か、どこかの待合室だろうか。
いずれにせよ、あなたは今、何らかの空間の「内側」にいる。
その空間の「外側」との境界は、どこにあるだろうか。
壁があるだろう。
扉があるだろう。
窓があるだろう。
しかし、それらは本当に「境界」として機能しているだろうか。
物理的に閉じているだけではなく、霊的にも閉じているだろうか。
おそらく、答えは「否」である。
あなたの家の境界は、守られていない。
藁人形は立っていない。
火は灯っていない。
煙は流れていない。
何も、守っていない。
では、今この瞬間、あなたの背後には何があるだろうか。
振り返ってみてほしい。
何もいないだろうか。
本当に、何もいないだろうか。
私はこの稿を書きながら、何度も背後を振り返った。
仕事場の窓からは、夜の闇が広がっている。
街灯の光がわずかに届くが、その光の届かない場所は、真っ黒な闘に沈んでいる。
その闇の中に、何かがいるような気がしてならない。
気のせいだと言い聞かせる。
しかし、気のせいだと思うことと、実際に何もいないことは、同じではない。
私たちは普段、「気のせい」という言葉で、多くのものを見ないふりをしている。
背筋がぞくっとする感覚。
視界の端で動く影。
誰もいないはずの部屋から聞こえる物音。
それらを「気のせい」で片付けることは、簡単である。
しかし、もし本当に何かがいたとしたら。「気のせい」で片付けている間に、そのものはどんどん近づいてきているかもしれない。
かつて、私たちの祖先は、そうした「気配」を真剣に受け止めていた。
だから境界を定め、門番を立て、火を灯した。
見えないものに対する防衛を、真剣に考えていた。
私たちは、その知恵を失った。
「迷信」だからと、切り捨てた。
しかし、迷信を切り捨てても、迷信が指し示していたものは消えない。
藁人形を立てなくなっても、藁人形が防いでいたものは消えない。
それらは、今も存在している。
ただ、防ぐ者がいなくなっただけである。
この文章を読み終えたとき、あなたはおそらく玄関の方を見るだろう。
そこに何があるか、確認せずにはいられないだろう。
扉は閉まっているだろうか。鍵はかかっているだろうか。
そして、扉の向こう側には何があるだろうか。
廊下だろうか。
外の風景だろうか。
それとも——
いや、これ以上は言うまい。
ただ、一つだけお願いがある。
今夜、あなたが眠りにつく前に。
せめて心の中で、小さな火を灯してほしい。
それは実際の炎でなくていい。心の中でイメージするだけでいい。あなた自身を取り囲む、温かな光を。あなたと外界との間に引かれる、火の境界線を。
その火は、結界を焼き切るためではない。
あなた自身を、「外」から切り離すためである。
藁人形は、もういない。
境界の火は、もう灯っていない。
しかし、あなたの心の中には、まだ火を灯す力が残っているはずだ。
その小さな火を、絶やさないでほしい。
それが、最後の境界になるかもしれないから。
夜が、更けていく。
私は今、この文章の最後の一行を書き終えようとしている。
窓の外は完全な闘に包まれ、部屋の明かりだけが私を照らしている。
ふと、背後で何かが動いた気がした。
振り返る。
何もいない。
もちろん、何もいない。
しかし、何もいないはずの空間が、わずかに「重い」ような気がする。
空気の密度が、少しだけ濃くなったような。
気のせいだ。
気のせいだと、私は自分に言い聞かせる。
そして、心の中で小さな火を灯す。
あなたも、そうしてほしい。
今夜。
眠りにつく前に。