燐火の輪舞曲

誰にも呼ばれぬ死者たちが灯す、冷たい迎え火

 

熱を持たない光について

盆の夜、私たちは火を焚く。

藁束に火を移し、玄関先で揺らめく炎を見つめながら、帰ってくるはずの誰かを待つ。
その火は暖かい。
指先をかざせば熱を感じ、煙は空へ昇り、やがて消える。
火とは本来そういうものだ。
熱を持ち、燃え尽き、灰になる。

けれど、この世には別種の火がある。

熱を持たない火。
燃料なく灯り続ける火。
誰の手によっても点けられず、誰の息によっても消えない火。


それを古人は「鬼火」と呼んだ。
あるいは「燐火」と。


夏の夜、墓地の上に浮かぶ青白い光。
湿地帯でふわりと立ち上がる、蛍とも松明とも違う、あの不吉な燐光。
科学はそれを「リン化水素の自然発火」と説明する。
土中で分解された遺体から発生するリン化合物が、空気に触れて燃える。だから火の玉は墓場に多い。
理屈は通っている。


だが、理屈で説明できることと、理屈で納得できることは違う。

なぜその火は青白いのか。
なぜ熱を持たないように見えるのか。
なぜ追いかけると遠ざかり、逃げると近づいてくるのか。
科学は現象を説明しても、その火が見る者の胸に落とす影までは照らしてくれない。


私が初めて燐火を見たのは、祖母の葬儀の夜だった。

田舎の、古い家だった。
通夜の晩、縁側に座っていると、庭の向こうの畑に、ぽつりと青い光が灯った。
蛍にしては大きく、懐中電灯にしては淡い。
私は立ち上がろうとした。
すると、隣に座っていた叔母が、私の手首を掴んだ。
爪が食い込むほどの強さだった。


「見ちゃいけない」

叔母は私の顔ではなく、その光を見たまま言った。

「あれはね、迎えに来たんじゃないの。
迎えられなかった人たちが、自分で火を点けてるの」


その夜、私は眠れなかった。
祖母は大勢に看取られ、大勢に弔われた。
けれど、あの畑に灯った光の主は、誰にも迎えられなかったのだ。
だから自分で火を点けた。
自分の何かを燃やして。


あれから何十年も経った。

私は都会に住んでいる。
盆が来ても迎え火は焚けない。
マンションのベランダで藁を燃やせば、消防車が来るだろう。
代わりにLEDの盆提灯を灯す。
それが現代の迎え火だ。
省エネで、安全で、熱を持たない光。


 
ふと思う。

熱を持たない光。
それは、あの燐火と何が違うのだろう。


私たちの灯す光が、いつの間にか、彼らの灯す光に似てきてはいないか。

孤独の燐光――自ら火を灯す死者たち

迎え火を失った魂の「自発光」

 
盆とは、死者が帰ってくる季節である。

正確に言えば、死者が「帰ってこられる」季節である。
あの世とこの世の境が薄くなり、普段は越えられない溝を渡って、懐かしい家に戻ることが許される。
だが、許されるだけでは帰れない。
帰るためには、道を照らす火が要る。
生者が焚く迎え火が。


迎え火とは、単なる慣習ではない。
あれは「招待状」なのだ。


「あなたを待っています」という意思表示。
「帰ってきてください」という祈り。
「あなたのことを忘れていません」という証明。
その火がなければ、死者は道に迷う。
自分がどこへ帰ればいいのか、そもそも自分を待っている者がいるのかどうかさえ、分からなくなる。


では、迎え火を焚いてもらえない死者は、どうなるのか。

招く者のいない死者。
待つ者のいない死者。
名前を呼んでくれる者が、もうこの世に一人もいない死者。


彼らは帰れない。
帰る場所がない。
かといって、あの世にも戻れない。
盆の間だけ開いた門の、どちら側にも属せないまま、境界の上を漂い続ける。


そして、彼らは火を灯す。

自分の手で。
自分の何かを燃料にして。

私の祖母は、生前よくこう言っていた。

「迎え火いうのはな、人が焚いてやらにゃ灯らんもんや。
そやけど、鬼火は違う。
あれは誰も焚いてないのに灯るやろ。
なんでか分かるか。
あれはな、死んだ人が自分の未練を燃やしとるんや」


未練を燃料にする。

生きている間に果たせなかったこと。
言えなかった言葉。
会いたかった人。
帰りたかった場所。
そうした思いの残滓が、死後も消えずに胸の底にくすぶり続け、やがて臨界に達して自ら発火する。

だから燐火は青白いのだ、と祖母は言った。

「普通の火は赤いやろ。
あれは生きとる火や。
薪でも藁でも、ついさっきまで生きとったもんを燃やすから、赤い。
そやけど、鬼火の燃料は未練や。
とうに死んだ感情や。
腐って、冷たなって、それでもまだ消えられへんかった思いや。
そんなもんが燃えたかて、熱なんか出るかいな。
冷とうて、青うて、寂しい火にしかならへんのや」


熱を持たない火。

迎え火が「招待」なら、燐火は「自己紹介」だ。
私はここにいます。
誰か気づいてください。
誰か、私を見つけてください。
そう訴え続ける、凍えた声の代わり。


現代の都会を歩いていると、時折、不思議な光景に出会うことがある。
街灯の下。
あるいは高架橋の陰。
ビルとビルの隙間。
そうした場所に、ぽつんと灯っている明かりがある。
懐中電灯でもない。
車のヘッドライトでもない。
誰かが置き忘れたスマートフォンの画面でもない。
何かが光っているのに、光源が見当たらない。


通り過ぎてから振り返ると、もう消えている。

あるいは、電車の窓からビル街を眺めていて、ふと目の端に青白い点滅を捉えることがある。
あそこで何か光った。
でも、視線を向けると何もない。
窓ガラスの反射だろうか。
隣のビルの非常灯だろうか。
分からないまま、電車は走り去る。


私は思う。

あれは、誰にも迎えられなかった人たちが、自分で灯した火ではないのか。
「光の墓標」ではないのか。


この街には、私たちが思っているよりずっと多くの人が、一人で死んでいる。
誰にも知られず、誰にも弔われず、行政の手で処理され、記録の上からも消えていく。
そうした人々の数は、年々増え続けている。


彼らは盆が来ても、迎え火を焚いてもらえない。
焚いてくれる人がいないのだから。


だから自分で灯す。

コンクリートの隙間から。
錆びたフェンスの向こうから。
誰も立ち入らない空き地の真ん中から。
熱のない、青白い、寂しい光を。


あなたも見たことがあるのではないか。
見て見ぬふりをしただけで。

「無縁」という名の漂流

 
「無縁」という言葉がある。

かつてこの言葉は、社会の周縁を指していた。

血縁に属さない者。
地縁に属さない者。
寺社の庇護からも、村落共同体からも、あらゆる「縁」の外側にいる者。
行き倒れの旅人。
身元不明の死者。
捨てられた子。
そうした人々を「無縁」と呼んだ。


江戸時代、村外れには「無縁塚」があった。
引き取り手のない遺体を埋める場所。
名前も来歴も分からない者たちが、ただ「無縁」という一語で括られて、土の下に重なっていく場所。


そこには、誰も墓参りに来ない。
誰も花を供えない。
誰も手を合わせない。


それでも、年に一度、盆の季節だけは、村の誰かが無縁塚にも線香を上げた。
自分とは何の関係もない死者のために。
名前も知らない、顔も知らない、この世に何の痕跡も残さなかった者たちのために。
それが「施餓鬼」の原点だった。


縁なき衆生を救う。
見知らぬ死者を供養する。


その習慣が、いつの間にか消えた。

無縁塚は埋め立てられ、その上に住宅が建ち、道路が通り、やがて誰もその場所に無縁塚があったことを覚えていなくなった。
死者たちは、文字通り「無縁」になった。
供養してくれる者もいなければ、かつてそこに無縁塚があったことを知る者もいない、完全な断絶。


だが、死者は消えない。

土地は更地になっても、そこで死んだという事実は消えない。
弔われなかったという悲しみは消えない。
忘れ去られたという怒りは消えない。


彼らは今も、そこにいる。

新しく建ったマンションの地下に。
舗装された駐車場のアスファルトの下に。
毎日何百人もの人が行き交う商店街の、その足元の闇の中に。


夜になると、彼らは浮かび上がってくる。

現代の無縁死は、都市のいたるところで起きている。

孤独死。
これほど21世紀的な死に方があるだろうか。


ワンルームマンションの一室。
隣人の顔も知らない。
管理人もいない。
死んでも誰も気づかない。
異臭がするまで、あるいは家賃の滞納が溜まるまで、あるいは虫が湧くまで、その死は発見されない。


発見されても、引き取り手がいないことがある。

身元は分かっても、遺体を引き取る親族がいない。
いても、引き取りを拒否される。
「もう何十年も会っていませんから」「縁を切ったので」「関わりたくないので」。
そうして遺体は自治体に引き取られ、行政の手で火葬され、無縁納骨堂に納められる。


現代の無縁塚。

そこには、同じような経緯で集められた遺骨が、何千、何万と積み重なっている。
骨壺には番号が振られているが、名前はない。
名前があっても、その名前を呼ぶ者がいない。


彼らは盆になると、どこへ帰るのだろう。

帰る場所がないのだ。
待っている者がいないのだ。
迎え火を焚いてくれる者が、一人もいないのだ。


だから彼らは集まってくる。

同じように迎えられなかった者たちの元へ。
同じように忘れられた者たちの傍へ。
一人では弱い光も、百人、千人と集まれば、ぼんやりとした輝きになる。


祖母は子供の頃、こんな話を聞かされたという。

「野原で青い火を見かけても、決して数えちゃいけないよ」
「なんで?」
「数えた分だけ、お前の後ろに並んで付いてくるからね」

私はこの話を聞いた時、ただの脅しだと思っていた。
言うことを聞かない子供を怖がらせるための、昔ながらの作り話だと。

だが今は、違う意味が分かる。

燐火を数えるということは、その存在を認めるということだ。
「いる」と認識するということだ。
無縁の死者にとって、それは何よりも渇望していたもの。
誰かに見られること。
誰かに数えられること。
誰かの記憶に残ること。


だから彼らは付いてくる。

一度でも自分を見てくれた者を、二度と離さない。
せめてその人の記憶の中だけでも、存在し続けたいから。


現代の都市で、あなたはどれだけの「見知らぬ死者」とすれ違っているだろうか。

満員電車で隣に立っていた老人が、翌週、誰にも看取られずに死んでいたかもしれない。
コンビニでいつもレジを打っていた店員が、ある日突然消え、その理由を誰も知らないかもしれない。
マンションの隣室に住んでいた人の名前を、あなたは知っているだろうか。


都市とは、無縁を製造する機械だ。

人を集め、孤立させ、忘却させ、消去する。
効率的に、静かに、誰も傷つけないように見せかけながら、確実に人を「無縁」へと変えていく。

そして盆の夜、都市のそこかしこで、小さな青い火が灯る。

ビルの谷間で。
廃墟となった団地で。
再開発で取り壊しを待つ商店街で。

それを見た者は、何も思わない。
ネオンの反射だろう。工事現場のライトだろう。
誰かのスマートフォンだろう。
そうやって合理的に解釈し、足早に通り過ぎる。


 
彼らは今夜も、誰にも数えられないまま、灯り続けている。

供養の断絶が生む「霊的エントロピー」

 
エントロピーという概念がある。

簡単に言えば、「秩序が崩壊し、混沌へ向かう度合い」のことだ。
熱力学の第二法則。閉じた系において、エントロピーは常に増大する。
整理された部屋は散らかり、氷は溶け、生命は死に、やがてすべては均一な混沌へと還っていく。


これは物理学の法則だが、霊的な世界にも似たような法則があるのではないか。

死者は、放っておけば「腐る」。

肉体が腐敗するように、魂も腐敗する。
供養という「秩序付け」がなければ、死者の霊は徐々に形を失い、個性を失い、やがて無数の断片となって拡散していく。


仏教では、死者は四十九日をかけて次の生を定める。
その間、残された者たちが読経し、焼香し、故人を偲ぶことで、魂は正しい方向へ導かれる。
一周忌、三回忌、七回忌と法要を重ねることで、死者は徐々に「先祖」へと昇華していく。
個人であることをやめ、「守ってくれる者たち」という集合的な存在へと変わっていく。


これが健全な死者の在り方だ。

だが、供養されない死者はどうなるか。

読経もない。
焼香もない。
故人を偲ぶ者もいない。
名前を呼んでくれる者も、思い出を語ってくれる者も、一人もいない。


そうした死者の魂は、行き場を失う。
あの世へ昇ることもできず、この世に留まることもできず、中間領域をさまよい続ける。
仏教ではこれを「餓鬼道」と呼んだ。
飢えと渇きに苦しみながら、永遠にさまよう者たちの世界。


供養されない魂は、やがて変質する。

人であった頃の記憶が薄れ、怒りと悲しみと寂しさだけが残る。
名前を忘れ、顔を忘れ、自分が何者だったかさえ忘れていく。
それでも「存在したい」という欲求だけは消えない。
誰かに見られたい。
誰かに覚えられていたい。
誰かに。
誰でもいいから。


そうして彼らは群れ始める。

一人では弱い存在も、集まれば力を持つ。
同じように供養されなかった者たち、同じように忘れられた者たち、同じように「無縁」の烙印を押された者たちが、互いを引き寄せ合い、一つの塊となっていく。


盆の夜、都会の片隅で灯る燐火の群れは、そうした存在の集積なのだ。
一つ一つは小さな光。
誰か一人の、名もなき死者の、消えかけた存在証明。だがそれが十、百、千と集まると、もはや個人ではない。
「忘れられた者たち」という一つの巨大な闘いとなる。


 
古来、人々はそれを「鬼」と呼んだ。

鬼とは、単独の怪物ではない。
「鬼」という字は「かくれたるもの」を意味する。見えないもの。
隠されたもの。
社会から排除され、記録から消され、誰の記憶にも残らなかったものたちの総称。


無縁の死者が集まり、融合し、一つの「鬼」となっていく。
それが都市の地下で、廃墟の中で、再開発地域の空き地で、今も進行している。


 
祖母は言っていた。

「盆の夜に外を歩いちゃいけないのはな、先祖さんに出会うからじゃないんや。
先祖になれなんだ者に出会うからや」


先祖になれなかった者。
善霊になれなかった者。
供養されず、昇華されず、霊的エントロピーの果てに「鬼」と化した者。


彼らは今夜も、街灯の下で群れている。
高架下の暗がりで蠢いている。
誰も住まなくなった団地の窓辺で、じっとこちらを見ている。


あなたが夜道を歩く時、ふと感じる視線。振り返っても誰もいない。だが、確かに見られていた。確かに数えられていた。

彼らは待っている。

一瞬でも立ち止まり、一瞬でも自分たちを認識してくれる者を。

そして盆の夜、彼らは踊り始める。
自分たちのための盆踊り。
誰にも呼ばれなかった者たちのための、冷たい祝祭。


その輪に、あなたを招くために。

見えない盆踊り――都会の裂け目に集う者たち

無音の喧騒――誰もいないはずの広場で

 
盆踊りとは、本来、死者のための踊りである。

私たちはそれを忘れている。
櫓を囲み、太鼓の音に合わせ、浴衣姿で輪を描く。
子供たちは綿菓子を頬張り、大人たちはビールを飲む。
夏祭りの風物詩。楽しい夜のひととき。


だが、その輪の中心には、目に見えない者たちがいる。

盆踊りの起源は「念仏踊り」にある。
死者の魂を慰め、あの世へ送り出すための宗教的な儀式。
踊り手たちは生者だが、踊りの対象は死者だった。
輪の中央に死者がいて、その周りを生者が踊ることで、魂に安らぎを与える。


現代の盆踊りは、その意味を失っている。

死者を意識する者は少ない。
ただの夏のイベント。
地域の親睦行事。
観光資源。
そうやって形骸化していく中で、本来の「死者のための踊り」は、

どこへ行ったのか。
消えたのではない。
移動したのだ。

深夜の公園。
再開発で取り壊しを待つ空き地。
かつて商店街だった場所。
かつて団地だった場所。
かつて誰かが住み、誰かが死に、今は誰もいない場所。


そこで、彼らは踊っている。

私がそれを初めて感じたのは、五年前の夏だった。

残業帰りの深夜、いつもと違う道を歩いていた。
工事のため迂回させられ、普段は通らない路地に入り込んだ。
古いビルと新しいマンションに挟まれた、細長い空き地があった。
フェンスで囲われ、雑草が伸び放題になっている。
かつては何かの店だったのか、コンクリートの土台だけが残っていた。


立ち止まったのは、足音が聞こえたからだ。

足音ではない。
足音のような、何か。


地面を踏む振動。
リズミカルな、規則的な振動。
だが、音はない。
無音のまま、空気だけが震えている。

フェンス越しに空き地を見た。
誰もいない。
雑草と瓦礫と、壊れた看板と、闇。

だが、空気は確かに震えていた。
まるで、見えない誰かが踊っているように。
大勢の見えない誰かが、輪を描いて、回っているように。


私は逃げた。
走って、その場を離れた。
大通りに出て、煌々と明るいコンビニに駆け込み、缶コーヒーを買って、震える手で開けた。

あれは何だったのか。

今なら分かる。
あの空き地には、かつて何があったのか。
私は後日、調べた。古地図を引っ張り出し、登記を確認した。


あの場所には、戦後すぐの頃、引揚者のためのバラック集落があった。
満州から、朝鮮から、樺太から。
故郷を失い、帰る場所を失った人々が、寄り集まって暮らしていた。
衛生状態は劣悪で、病気が蔓延し、冬には凍死者も出た。
身元を引き取る親族もなく、多くの人がそこで死に、そこに埋められた。


やがて集落は取り壊された。
土地は整備され、商店が建ち、時代とともに商店も潰れ、再開発を待つ更地となった。

地上からは、すべての痕跡が消えた。

だが、地下には今も、記録に残らない遺骨が眠っているのかもしれない。
名前も分からない。
顔も分からない。
どこから来て、なぜ死んだのかも分からない。
ただ「そこにいた」という事実だけが、土の下に堆積している。


彼らは盆が来ても、迎え火を焚いてもらえない。
子孫がいない。
親族がいない。
そもそも、彼らがそこにいることを知る者がいない。

だから彼らは、自分たちで踊るのだ。

誰も太鼓を叩いてくれないから、無音で。
誰も歌ってくれないから、無言で。
誰も一緒に踊ってくれないから、自分たちだけで。

音のない盆踊り。
灯りのない祭り。
生者には見えない輪が、夜ごと、都会の死角で回り続けている。


都市の隙間は、そうした場所で満ちている。

表通りから一本入った路地裏。
ビルとビルの間の、陽の当たらない隙間。
高架下の暗がり。
河川敷の茂み。
廃墟となった工場。
閉鎖された病院。


すべての場所に、歴史がある。
すべての場所で、誰かが死んでいる。


東京の地下には、関東大震災の犠牲者が眠っている。
東京大空襲の犠牲者が眠っている。
戦後の混乱期に行き倒れた者、身元不明のまま埋められた者、存在すら記録されなかった者が、無数に眠っている。


大阪には、大阪大空襲の犠牲者がいる。
神戸には、神戸大空襲の犠牲者がいる。
広島、長崎、沖縄。
どの都市の地下にも、弔われないまま眠り続ける者たちがいる。


そして、現代の孤独死者が、日々、その数を増やしている。

彼らは盆になると、同じ境遇の者たちの元へ集まる。
見えない輪を作り、見えない踊りを踊る。
自分たちの祭りを。
自分たちの盆を。

あなたが深夜、人気のない場所を歩いている時、ふと立ち止まりたくなることはないか。

何か聞こえた気がして。
何か見えた気がして。空気の質が変わった気がして。


その感覚を、無視してはいけない。
立ち止まってもいけない。

招かれざる客への「逆招待」

 
盆踊りには、作法がある。

輪に入る時は、流れに沿って入る。
踊りの邪魔をしない。
周囲と呼吸を合わせる。
そうやって、生者の輪は調和を保つ。


だが、死者の輪には別の作法がある。

彼らは「迎えられなかった者」だ。
招待状を受け取れなかった者。
来てくださいと言われなかった者。
その疎外感が、彼らの存在の核になっている。


だから彼らは、逆のことをする。

招かれなかったから、招く側に回る。

迎え火を焚いてもらえなかったから、自分たちが迎え火を焚く。

あなたを、迎えるために。

特殊清掃の仕事に従事する知人から、聞いた話がある。
孤独死の現場は、夏場が最も多い。
暑さで体力が奪われ、エアコンの効いた部屋から出られなくなり、誰にも気づかれないまま衰弱していく。
発見が遅れれば、遺体は高度に腐敗する。


その知人が言うには、孤独死の現場には「気配」が残るという。
遺体を搬出し、室内を清掃し、消臭処理を施した後でも、何かが残っている。
部屋の隅に、見えない誰かがいるような感覚。
振り返ると、誰もいない。だが、振り返る前は、確かにいた。


「あれはな、まだ分かってないんだよ」と知人は言った。
「自分が死んだこと。
自分の体がもうないこと。
ずっとあの部屋にいて、誰かが来るのを待ってる。
でも、来るのは俺たちみたいな業者だけだ。
家族も、友人も、誰も来ない」


そして、盆の季節になると、その「気配」が強くなるという。
「この時期はな、仕事が怖いんだ。
現場に行くと、引っ張られる感じがする。
足首を掴まれるような。
『一緒に来い』って言われてるような」


招かれざる客への逆招待。
迎えられなかった者が、迎える側に回る。
孤独だった者が、孤独な者を引き寄せる。

都市で孤立している人間は、無数にいる。
隣人の名前を知らない。
友人と呼べる相手がいない。
家族とは疎遠。
職場では誰とも親しくない。
SNSでは大勢と繋がっているはずなのに、本当に自分を見ている者は一人もいない。


そうした人間は、「彼ら」と波長が合う。
同じ孤独を抱えているから。
同じ寂しさを知っているから。
同じように「誰かに見つけてほしい」と願っているから。


深夜、一人で歩いている時。
ふと、路地の奥に何かを感じる。
見てはいけないと分かっている。
分かっているのに、足がそちらへ向かう。
引き寄せられるように。招かれるように。

気がつくと、見知らぬ空き地に立っている。
周囲は静かだ。
いや、静かすぎる。
車の音がしない。
虫の声がしない。
自分の心臓の音さえ聞こえない。
すべての音が消え、代わりに、空気の振動だけが伝わってくる。


輪が見える。
青白い光の点が、等間隔に並んでいる。
ゆっくりと、時計回りに動いている。

一つ、二つ、三つ……数えてはいけない。

分かっている。分かっているのに、目が離せない。
光の一つが、列を離れる。
こちらへ近づいてくる。

伸ばされた手が見える。
青白く、透き通った、骨と皮だけの手が。
「一緒に踊ろう」と言っている。
声はないのに、聞こえる。
「寂しかっただろう。
寒かっただろう。
もう一人じゃないよ。
私たちと一緒においで」

手を取ってしまったら、どうなるか。

翌朝、その場所で発見されるだろう。
心不全、と診断されるだろう。
外傷はない。
事件性はない。
ただ、心臓が止まっている。
まるで、何かに心を奪われたように。


「心不全」という言葉の、もう一つの意味。
心が、不在になる。
心が、連れ去られる。
冷たい手に導かれて、見えない輪の中へ。

そうして、新しい光が一つ、輪に加わる。

境界を越える「冷たい誘い」

 
都市には、境界がある。
表と裏。
光と影。
生者の領域と、死者の領域。

普段、その境界は明確だ。
明るい大通りは生者のもの。
暗い路地裏は……誰のものか分からない。
だが、境界を意識することはない。
私たちは光の中だけを歩き、影には目を向けない。

盆の季節、その境界が曖昧になる。

あの世とこの世の境が薄くなり、普段は越えられない溝を、死者たちが渡ってくる。
正しく迎えられた死者は、正しい道を通って帰ってくる。
迎え火の光に導かれ、懐かしい家へと。


だが、迎えられなかった死者たちは、正しい道を知らない。
彼らはどこからでも入ってくる。
コンクリートの隙間から。
排水溝の暗がりから。
エアコンの室外機の陰から。
都会のあらゆる「隙間」が、彼らの入り口になる。


再開発地域を歩いたことがあるだろうか。
古い建物が取り壊され、新しいビルが建つまでの間、そこには「何もない空間」が生まれる。
フェンスで囲われた更地。
かつて誰かが住み、誰かが商売をし、誰かが死んだかもしれない場所が、一時的に「無」になる。

そうした場所は、都会に無数にある。

開発の波は止まらない。
古い団地が壊され、古い商店街が壊され、古い家が壊され、跡地にはタワーマンションが建つ。
効率的で、清潔で、誰の記憶も宿っていない建物が。


だが、壊された建物に住んでいた人々の記憶は、どこへ行くのか。
そこで死んだ人々の魂は、どこへ行くのか。

建物がなくなっても、土地は残る。土地が整備されても、そこにいた者たちの痕跡は、目に見えない形で残り続ける。
新しいマンションの住人は、自分の部屋の窓から見える空き地が、かつて何だったか知らない。知ろうともしない。


無関心という名の断絶。
その断絶が、彼らを「無縁」へと突き落とす。
最近、奇妙な報告が増えている。

スマートフォンのカメラに、変なものが映り込む。
写真を撮ると、本来いないはずの場所に、光の点が映っている。
青白い、ぼんやりとした光。

「レンズの汚れだろう」と言う人がいる。
「センサーの異常だろう」と言う人がいる。

そうかもしれない。そうであってほしい。

だが、その光の点が、写真を撮るたびに増えているとしたら。
最初は一つ。
次は三つ。
その次は七つ。
まるで、カメラを向けるたびに「見つけられた」と喜んで、仲間を呼んでいるかのように。

人間の目には見えないものが、電子の目には見えることがある。
赤外線カメラが熱を捉えるように。
紫外線カメラが蛍光を捉えるように。

スマートフォンのセンサーが、人間の網膜では捉えられない何かを捉えているとしたら。

夜の街を、カメラ越しに見てみるといい。
肉眼では何も見えない路地裏に、画面上では青白い光が浮かんでいるかもしれない。
誰もいないはずの公園に、光の輪ができているかもしれない。

見てしまったら、どうなるか。

彼らは「見られた」と認識する。
「見つけられた」と認識する。
そして、見つけてくれた者を、二度と離さない。

スマートフォンを持つ手が、急に冷たくなる。
画面に映った光の一つが、他の光から離れて、こちらへ近づいてくる。
画面の中を、ゆっくりと。

そして、画面の縁に達した時。
その光は、画面の外へ出てくる。

都会のネオンに紛れて、無縁の領域は拡大し続けている。
私たちはそれに気づかない。
気づかないふりをしている。
青白い光が視界の端をよぎっても、「気のせいだ」と言い聞かせる。
空気が急に冷たくなっても、「エアコンの風だろう」と思い込む。


だが、境界は確実に侵食されている。
生者の領域が狭まり、死者の領域が広がっている。
目に見える光の下にも、目に見えない闇が忍び寄っている。

今夜、あなたが帰宅する時、いつもの道を歩きながら、ふと立ち止まるかもしれない。
何か、違う。

街灯の光がいつもより青白く見える。
アスファルトがいつもより冷たく感じる。
自分の足音が、やけに響く。

そして、ふと見上げると、マンションの窓々に、明かりが灯っている。
暖かい、橙色の明かり。
生者の明かり。


だが、その中に一つだけ、青白い光を灯した窓がある。
あの部屋には、誰が住んでいるのだろう。
いや、誰が「いる」のだろう。

孤独死の部屋――消えない「見えない迎え火」

特殊清掃の現場に灯る光

 
特殊清掃という仕事がある。

孤独死、自殺、事故死。
通常の清掃では対応できない現場を、専門の技術で原状回復させる仕事だ。
遺体が長期間放置された部屋。
体液が床に染み込み、壁紙に臭いが移り、害虫が発生した部屋。
そうした場所を、人が住める状態に戻す。


私は取材のため、何度かこの仕事に同行したことがある。

最初に驚いたのは、現場の「普通さ」だった。

テレビがある。
冷蔵庫がある。
洗濯機がある。
本棚には文庫本が並び、壁にはカレンダーがかかっている。
どこにでもある、ワンルームマンションの一室。
そこで、一人の人間が、誰にも看取られずに死んだ。

遺体はすでに搬出されていた。
だが、その「痕跡」は残っていた。

床に広がった染み。
天井まで届く異臭。
そして、何か別のもの。


 
作業員の一人が言った。
「この仕事を始めてから、『見える』ようになった」
何が見えるのか、とは聞かなかった。
聞かなくても、分かった。

彼が指差したのは、部屋の隅だった。
何もない。
ベッドと壁の間の、狭い空間。
だが、彼の目は確かに「何か」を見ていた。


 
「まだいるんだよ。
この部屋の主が。
自分が死んだって分かってないんだ。
だって、誰も教えてくれなかったんだから。
誰も来なかったんだから」


孤独死の発見は、平均して死後二週間から一ヶ月後と言われる。
家賃の滞納。
新聞の山積み。
異臭。
近隣からの通報。
そうしたきっかけがなければ、発見はさらに遅れる。
半年後、一年後に発見された例もある。

その間、死者は何をしているのか。
待っているのだ。
誰かが来るのを。
誰かがドアを開けてくれるのを。
誰かが自分の名前を呼んでくれるのを。

だが、誰も来ない。

来るのは、腐敗と、害虫と、異臭だけだ。
そして、ずっと後になって、警察と、特殊清掃業者と、遺品整理業者が来る。
親族が来ることは、稀だ。
来ても、部屋には入らないことが多い。
「中を見たくない」と言って。

死者は見ている。

自分の体が運び出されるのを。
自分の持ち物が処分されるのを。
自分の人生の痕跡が、業務的な手順で消去されていくのを。

そして、全てが終わり、部屋が空になり、業者たちが去っていく。

死者は、まだそこにいる。

行く場所がないのだ。
迎え火がないのだ。
導いてくれる光がないのだ。

だから、死者は自分で光を灯す。

特殊清掃の後、原状回復された部屋に、次の入居者が入ることがある。
家賃が安いからだ。
「事故物件」として告知義務はあるが、それでも借りる人はいる。


そうした部屋で、奇妙なことが起きるという。
センサーライトが、誰もいないのに反応する。
人感センサーが、何かの動きを検知し続ける。
夜中に、どこからともなく点滅する光。

「故障だろう」と言う人がいる。

そうかもしれない。
だが、何度修理しても直らないとしたら。
何度電池を換えても、同じ現象が続くとしたら。

あの部屋には、まだ「主」がいるのだ。

遺体は片付けられた。
遺品も処分された。
床も壁も張り替えられた。
だが、「そこにいた」という事実は消せない。
「そこで死んだ」という記憶は消せない。


死者は、自分の部屋を離れられない。
ここが自分の家だから。
ここ以外に行く場所がないから。
そして、盆が来ても、誰も迎えに来てくれないから。

センサーライトの光が、死者にとっての「迎え火」になっている。
冷たい、電子的な光。
熱を持たない光。
誰の祈りも込められていない光。
だが、それでも光は光だ。
暗闇よりはましだ。

死者はその光に縋る。

点滅するLEDを、家族が焚いてくれた藁火だと思い込む。
センサーが反応するたびに、「誰かが来た」と期待する。
だが、来るのは通りすがりの猫か、風に揺れるカーテンの影だけだ。

それでも死者は待ち続ける。

いつか、本当の迎え火が焚かれる日を。
いつか、自分の名前を呼んでくれる人が現れる日を。

その日は、来ない。
永遠に。

現代の「餓鬼道」としてのワンルーム

 
仏教には「六道輪廻」という概念がある。

天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。
生前の行いによって、死後はこの六つの世界のいずれかに生まれ変わる。
餓鬼道は、飢えと渇きに苦しむ世界だ。

餓鬼は常に腹を空かせている。
食べ物を見つけても、口に入れようとすると炎に変わる。
水を飲もうとすると、膿に変わる。
永遠に満たされない飢餓。
永遠に癒されない渇き。


現代の孤独死の部屋は、餓鬼道に似ている。

モニターの光だけを浴びて過ごす日々。
冷蔵庫には賞味期限切れの食品。
テーブルの上にはコンビニ弁当の空き容器。
誰とも話さない。
誰にも会わない。
テレビから流れる声だけが、人の気配の代わり。

そうして死んだ人は、死後も同じ生活を続けようとする。

電源の入ったままのテレビ。
点灯し続けるモニター。
充電器に繋がれたスマートフォン。
電子機器の待機電力が、死者にとっての「擬似的な生命」として機能する。


電気が通っている限り、部屋は「生きている」ように見える。

冷蔵庫は唸り続ける。
エアコンは設定温度を保ち続ける。
Wi-Fiルーターは緑色の光を瞬かせ続ける。
死者はその光を見つめながら、自分がまだ生きているような錯覚に浸る。

だが、それは錯覚に過ぎない。

電気代の滞納で電気が止まった時、死者は初めて自分の状況を理解する。
暗くなった部屋。
沈黙した電子機器。
自分の体がどこにもないという事実。


その時、死者は餓鬼になる。

光が欲しい。
音が欲しい。
誰かの気配が欲しい。
渇望が死者を突き動かす。
満たされない飢餓が、死者を外へと押し出す。


ネットの海を彷徨う無縁仏の話を、聞いたことがあるだろうか。
都市伝説の一種だ。
だが、ある種の真実を含んでいる。

孤独死した人のSNSアカウントが、死後も更新され続けるという話。
パスワードを知る者は誰もいない。
本人は死んでいる。
なのに、「いいね」が押され、リプライが送られ、新しいフォローが増えていく。

システムの誤作動だろうか。
ハッキングだろうか。
遺族の仕業だろうか。

あるいは、死者本人が、電子の海を通じて「存在し続けよう」としているのだろうか。

生前、誰とも繋がれなかった人間が、死後、ネットワークを介して繋がりを求める。

フォロワーの投稿に「いいね」を押す。
知らない誰かのリプライに反応する。
自分の存在を、一バイトでも、一ピクセルでも、この世界に刻みつけようとする。


それは、現代の餓鬼の姿ではないか。

電子的な供物を求めて彷徨う、データ化された無縁仏。
肉体を失っても、アカウントは残る。
パスワードを知る者がいなくても、ログイン状態が保持されていれば、活動を続けられる。


いつか、あなたのSNSに、見知らぬアカウントから「いいね」が届くかもしれない。

プロフィールを見ると、何年も更新されていない。
最後の投稿は、ずいぶん前の、何気ない日常の報告。
その後、沈黙。

その人は、今どこにいるのだろう。
まだ生きているのだろうか。
それとも、もう。

「いいね」の通知が、また一つ届く。
同じアカウントから。
三度目。四度目。五度目。
まるで、「気づいてくれ」と訴えているかのように。

記憶の消滅と、真の死

 
人は二度死ぬ、と言われる。
一度目は、肉体が機能を停止した時。
二度目は、その人を覚えている者が誰もいなくなった時。


一度目の死は、生物学的な終わりに過ぎない。
心臓が止まり、脳が活動を停止し、細胞が壊死していく。
それは物質としての人間の終わりだ。

だが、二度目の死は、存在としての終わりだ。

誰かの記憶に残っている限り、人は「いた」ことになる。
名前を呼ばれ、思い出を語られ、時折ふと思い出される。
それだけで、死者は存在し続けることができる。


だが、覚えている者が誰もいなくなった時、死者は「いなかった」ことになる。

記録に名前があっても、その名前が何を指すのか、誰も知らない。
写真に顔が残っていても、その顔が誰なのか、誰も分からない。
墓石に刻まれた文字を読む者がいなければ、それはただの石に過ぎない。


忘却という名の、二度目の死。

そして、この死は、一度目の死よりも残酷だ。

燐火は、忘れられた死者の灯す光だ、と書いた。
自分の未練を燃やして、「ここにいる」と訴える光だ、と。

だが、その光にも限りがある。

未練も、いつかは燃え尽きる。
悲しみも、怒りも、寂しさも、永遠には続かない。
少しずつ、少しずつ、消耗されていく。
燃料が切れれば、火は消える。


忘れられた死者は、最初は強い光を放つ。
「見つけてくれ」「覚えていてくれ」「忘れないでくれ」と。


だが、誰も応じない。
誰も見つけてくれない。
誰も覚えていない。

光は徐々に弱まっていく。
訴えは徐々に小さくなっていく。
やがて、死者は諦める。
諦めた時、光は消える。

消えた後、何が残るのか。
何も残らない。

仏教では、成仏できなかった魂は、やがて「泥」のような虚無に還ると言う。
個としての輪郭を失い、他の魂と混じり合い、どろりとした闘いの塊になる。
そこには、もはや怒りも悲しみも寂しさもない。
何もない。
ただの無。

それは、地獄よりも恐ろしい。

地獄には、まだ「自分」がある。
苦しんでいるのは自分だ、という認識がある。
だが、泥に還った魂には、自己認識がない。
自分がかつて誰だったか、何を望んでいたか、何を恐れていたか、何も分からなくなる。

完全な消滅。

死者が最も恐れるのは、この消滅だ。

だから、消えかけた死者は、最後の力を振り絞って、生者に縋りつこうとする。

見知らぬ人間の記憶に侵入しようとする。
夢の中に現れようとする。
ふとした瞬間に、視界の端をよぎろうとする。
「自分を覚えていてくれ」と。
「自分がいたことを忘れないでくれ」と。

だが、生者は気づかない。

気づいたとしても、「気のせいだ」と片付ける。
知らない誰かの顔が夢に出てきても、目が覚めれば忘れる。
視界の端をよぎる影があっても、振り返る頃には消えている。

死者の最後の訴えは、無視される。
そして、死者は消える。
燐火が一つ、闇に呑まれる。
誰にも気づかれないまま。
あなたは今夜、夢を見るだろうか。

見知らぬ顔が現れるだろうか。
名前も知らない誰かが、何かを訴えようとしているだろうか。

目が覚めた時、その顔を覚えているだろうか。
覚えていないだろう。
それが、最も残酷な送り火だ。
忘却という名の。

共感の灯火――「名もなき死者」をどう送るか

傍観者という名の共犯

 
孤独死のニュースを、私たちは日常的に目にする。

「○○区のアパートで、一人暮らしの男性(△△歳)が死後約一ヶ月で発見されました」

記事を読み流す。
あるいは、読みもしない。
見出しだけ見て、次のニュースへスクロールする。
芸能人のスキャンダル。
スポーツの試合結果。
新しいスマートフォンの発売日。


 
孤独死は、もはやニュースですらない。

あまりに頻繁に起きるから。
あまりに日常的だから。
驚きも悲しみも感じないまま、統計の数字として処理される。
年間三万人とも、六万人とも言われる孤独死者。
一人一人に名前があり、人生があり、喜びや悲しみがあったはずなのに、ただの数字になっていく。


私たちは、そのニュースを読み飛ばす時、何をしているのだろうか。

無関心という名の黙殺。

その人が「いた」ことを、認めようとしない。
その人が「死んだ」ことを、受け止めようとしない。
数秒の関心さえ払わずに、次の話題へ移っていく。


それは、死者を「無縁」へと突き落とす行為ではないか。
先に書いたように、死者が最も恐れるのは忘却だ。
誰の記憶にも残らないこと。
誰にも覚えていてもらえないこと。


孤独死のニュースを読み飛ばす時、私たちはその死者を「覚えない」と宣言している。
「あなたの死を、私の記憶に刻むつもりはない」と。
「あなたがいたことを、私は知ろうとしない」と。


燐火は、社会の冷たさが反射したものだ、という見方がある。

都会の片隅で灯る青白い光は、死者自身が灯したものであると同時に、私たちが灯させたものでもある。
迎え火を焚かなかったから。
名前を呼ばなかったから。
存在を認めなかったから。


死者は仕方なく、自分で火を灯すしかなかった。

その責任の一端は、私たちにある。

都市に住むということは、無縁に加担するということだ。

隣人の名前を知らないこと。
すれ違う人の顔を見ないこと。
困っている人がいても、見て見ぬふりをすること。
それは、都市で生きるための処世術であり、同時に、都市を無縁の製造機にしている原因でもある。

私たちは被害者であり、加害者でもある。

いつか自分も孤独死するかもしれないという恐怖を抱えながら、今日も誰かの孤独死のニュースを読み飛ばしている。
その矛盾に、私たちは気づいているだろうか。
「自分もいつかあそこに混ざる」
その予感が、ふとした瞬間に胸をよぎる。

深夜、一人で帰宅する時。
誰もいない部屋のドアを開ける時。
冷蔵庫から一人分の食事を取り出す時。
このまま誰にも気づかれずに死んだら、自分は何日後に発見されるだろうか。


その問いを、打ち消す。
考えたくないから。
考えても仕方がないから。

だが、打ち消したところで、現実は変わらない。
都市の片隅で、今夜も誰かが一人で死んでいく。
明日もまた、誰かが。
明後日もまた。

そして、盆の夜、燐火の輪がまた一回り大きくなる。
新しい光が加わる。
読み飛ばされたニュースの主が。
忘れ去られた死者が。


輪は拡大し続けている。

いつか、あなたもその輪に加わる日が来るかもしれない。

その時、誰があなたのために迎え火を焚いてくれるだろうか。

「一朶(いちだ)の煙」を捧げるということ

 
では、私たちに何ができるのか。

知らない死者のために、何ができるのか。
名前も顔も知らない、ニュースの中の数字でしかない人々のために。


「施餓鬼(せがき)」という仏教行事がある。

餓鬼道に落ちた亡者たちに食べ物を施し、その苦しみを和らげる法要だ。
盆の時期に行われることが多い。
自分の先祖だけでなく、縁のない死者たちにも供養を捧げる。


施餓鬼の精神は、「無縁の者を救う」ことにある。

自分とは関係ない死者。
自分の家系とは何の繋がりもない死者。
名前も知らない、顔も知らない、この世に何の痕跡も残さなかった者たち。
そうした人々にも、祈りを向ける。


それは、宗教的な意味だけでなく、社会的な意味を持っていた。

無縁の死者を放置しない。
忘れ去られた者を見捨てない。
そうすることで、社会全体の「縁」を保つ。
いつか自分も無縁になるかもしれないから。
その時、誰かが自分のために祈ってくれるように。


現代の私たちは、施餓鬼の精神を失っている。

自分の家族、自分の友人、自分に関係のある人のことだけを考え、それ以外の人のことは考えない。
知らない人の死は、自分には関係ない。
自分の生活を脅かさない限り、無視していい。


だが、それでいいのだろうか。

無縁の死者たちは、私たちの無関心によって増え続けている。
燐火の輪は、年々大きくなっている。
そして、その輪は、いつか私たち自身を呑み込むかもしれない。


面識のない死者に対しても、「送り火」を灯すことはできる。
それは、大げさな儀式である必要はない。

孤独死のニュースを見た時、一瞬だけ立ち止まること。
その人がいたことを、認めること。
「ああ、一人の人間がここで死んだのだな」と、思うこと。


それだけで、死者の魂は少し救われる。

たった一人でも、自分の死を認識してくれた。
たった一瞬でも、自分のことを考えてくれた。
それは、完全な忘却よりもはるかにましだ。


匿名の祈り、という言葉がある。

誰に向けたものでもない祈り。
特定の死者ではなく、「死者一般」に向けた祈り。
名前を知らないから、名前を呼べない。
顔を知らないから、顔を思い浮かべられない。
それでも、「どこかで誰かが死んでいる」という事実に対して、静かに頭を垂れること。


それが、現代の施餓鬼ではないだろうか。

あなたは、知らない誰かのために祈ったことがあるだろうか。

ニュースで見た事故の被害者のために。
天災で亡くなった見知らぬ人々のために。
孤独死の記事に一瞬だけ目を留め、その人の冥福を祈ったことがあるだろうか。


祈らなくてもいい。

ただ、覚えているだけでいい。

「そういう人がいた」ということを、覚えていてくれるだけでいい。
それが、燐火を鎮める一朶の煙になる。

冷たい光を、少しだけ温める。
闇に呑まれかけた魂を、少しだけ引き留める。
正しく闘に還すための、現代的な施餓鬼。


大したことではない。
何の見返りもない。
誰からも感謝されない。

それでも、その小さな行為が、都市の「縁」を紡ぎ直す。
無縁の連鎖を、ほんの少しだけ断ち切る。

今夜、あなたの窓の外で揺れる光は

 
この文章を、あなたは今、どこで読んでいるだろうか。

マンションの一室だろうか。
一軒家だろうか。
深夜のカフェだろうか。
電車の中だろうか。


どこで読んでいても、構わない。

ただ、読み終えた後、一度だけ窓の外を見てほしい。
何が見えるだろうか。
街灯の光。
向かいのビルの明かり。
走り去る車のヘッドライト。

その中に、一つだけ、説明のつかない光はないだろうか。
街灯にしては位置がおかしい。
ビルの明かりにしては色が青い。
車のライトにしては動かない。

それは、ガラスの反射かもしれない。
目の錯覚かもしれない。

あるいは。
誰かに見つけてもらうのを待っている、青い溜息かもしれない。

あなたが今夜、窓辺で灯す明かりがある。
スマートフォンの画面。
パソコンのモニター。
電気スタンドの光。

それらの光は、あなたの部屋を照らしている。
同時に、窓の外にも漏れ出している。


もし、その光を、あなたの迎え火だと勘違いする者がいたら。
「あの部屋の人が、自分を迎えてくれている」と思い込む者がいたら。
あなたの窓辺に、青白い光がふわりと近づいてくることがあるかもしれない。

怖がらなくていい。
その光は、ただ、誰かに見つけてほしかっただけだ。
誰かに覚えていてほしかっただけだ。
長い間、一人で灯り続けることに、疲れてしまっただけだ。


あなたにできることは、その光を見つけること。
「ああ、いるのだな」と認めること。
「お前がいたことを、私は知っている」と、心の中で呟くこと。
それだけで、光は少し和らぐ。
それだけで、死者は少し救われる。

さあ、眠りにつく前に、部屋の明かりを消そう。

闇が訪れる。
その闘を、一度だけ、覗いてみてほしい。
窓の外の暗がり。
カーテンの隙間から漏れる夜の気配。

もし、青い光が一つ、増えていたなら。
昨夜はなかった場所に、今夜、ぽつりと灯っていたなら。
それは、あなたが「選ばれた」合図かもしれない。
迎えられなかった者が、あなたを迎えようとしている合図かもしれない。

恐れることはない。

ただ、覚えていてほしい。

この街には、私たちが思っているよりずっと多くの、見えない火が灯っている。
誰にも呼ばれなかった者たちが、自らの未練を燃やして、ひっそりと灯し続けている。

その光を見つけた時、あなたはどうするだろうか。
見て見ぬふりをして、眠りにつくだろうか。
それとも、一瞬だけ立ち止まり、心の中で、小さな祈りを捧げるだろうか。

その選択は、あなたに委ねられている。
ただ、一つだけ確かなことがある。
いつか、あなたも光を灯す側になる日が来る。
その時、誰かが見つけてくれることを、祈っている。