あなたは今、何を見ていますか
この文章を読んでいるあなたの目は、今、どこにあるだろうか。
当たり前のことを聞いている、とお思いだろう。
あなたの眼球は、頭蓋骨のくぼみに収まり、角膜から入った光が水晶体で屈折し、硝子体を通過して、網膜という薄い膜に像を結んでいる。
あなたはその像を「見ている」と思っている。
だが、もう一度問いたい。
あなたは今、何を見ていますか。
あなたが見ているのは、この文字だ。
黒い記号の連なりが、光を発する矩形の上に浮かんでいる。
スマートフォンか、パソコンか、あるいはタブレットか。
いずれにせよ、あなたの顔は今、人工の光に照らされている。
では、その画面の「外側」に、何があるだろう。
視界の端——中心視野の外側に広がる、曖昧で不確かな領域。
そこにあるものを、あなたは正確に把握しているだろうか。
部屋の隅。
天井と壁の境目。
背後にある窓。それらは今、どんな表情をしているか。
いや、振り向かないでいただきたい。
あなたがこの文字を追っている間、あなたの周辺視野は、休むことなく「何か」を捉え続けている。
脳はそれを「ノイズ」として処理し、意識に上らせないよう選別している。
しかし、選別されなかったものは、どこへ行くのだろう。
消えるのだろうか。
それとも——網膜のどこかに、沈殿していくのだろうか。
私たちの目は、カメラではない。
カメラは光を機械的に記録する。
だが人間の目は、見たものを「解釈」する。
そして解釈には、必ず「抜け落ちるもの」がある。
抜け落ちたものは、どこへ行くのか。
この問いが、私を迎え火の「影」へと導いた。
お盆になると、日本各地で迎え火が焚かれる。
苧殻(おがら)を燃やし、先祖の霊が迷わぬように道を照らす——そう説明されてきた。
だが、私はある時から、別のことが気になり始めた。
火を焚けば、影ができる。
それも、昼間の太陽が作るような、くっきりとした影ではない。
炎の揺らぎに合わせて、伸び縮みし、蠢き、時に本体から離れて独立しようとする影。
迎え火の光は、確かに先祖を「迎える」のかもしれない。
だが同時に、その光が生み出す影は、何を「招いて」いるのだろうか。
そしてもう一つ。
強い火を見つめた後、目を閉じると、瞼の裏に像が残る。
赤かったはずの炎が、青白い輪郭に反転して、闇の中をゆらゆらと漂う。
あの現象を、科学は「補色残像」と呼ぶ。
網膜の錐体細胞が疲労し、反対の色相を知覚してしまう——理屈はそうだ。
だが、あの青白い像を、私たちの先祖は何と呼んだか。
幽霊、である。
日本の幽霊が青白いのは、単なる美術的な表現ではない。
あれは、火を見つめた後に網膜が見せる「残像」そのものではなかったか。
私たちは、見えるはずのないものを見ているのではない。
見たものが、消えるべき時に消えないから、怖いのだ。
本稿は、迎え火を入り口として、「影」と「残像」という二つの視覚現象を掘り下げていく。
そこに潜む怪異の論理を、知覚心理学と民俗学の両面から解きほぐしてみたい。
ただし、あらかじめ申し上げておく。
この文章を最後まで読み終えた時、あなたは一つの感覚を手に入れることになる。
それは、自分の視覚を信じられなくなる、という感覚だ。
目を閉じることが、怖くなる。
視界の端に何かが映った気がして、振り向いてしまう。
その時あなたは、初めて理解するだろう。
私たちが日常的に「見ている」と思っているものは、網膜という薄い膜の上に一時的に結ばれた像にすぎない。
そして、その網膜は、あなただけのものではない——かもしれない、ということを。
さあ、始めよう。
あなたの視界の端で、何かがゆらりと動いた気がしたのは、気のせいだと思うことにして。
光が生む「負」の領域——影はなぜ動くのか
光という侵略者と、逃げ込む闇
夕暮れの庭先で、苧殻に火をつける。
乾いた麻の茎は、一瞬ためらうように煙を上げ、やがて橙色の炎を噴き上げる。
その瞬間、庭の風景が一変する。
何が変わるのか。
それまで均質だった闘の空気が、突如として「光」と「影」に分断されるのだ。
考えてみれば、奇妙なことである。
夕暮れ時の薄闇は、どこにも境目のない灰色のグラデーションだった。
庭石も、植え込みも、軒先も、すべてがぼんやりと等しく沈んでいた。
そこに火が灯ると、世界は突然、二つの領域に切り裂かれる。
火に照らされた側と、照らされない側。
光が届く場所と、届かない場所。
その境界線は、炎が揺れるたびにぐにゃりと歪み、まるで生き物の輪郭のように蠢く。
物理学は、この現象を単純に説明する。光源から放たれた光子が物体に遮られ、その後方に光の届かない領域が生じる——それが影だ、と。
だが、その説明では、決定的に抜け落ちるものがある。
なぜ、影は「濃く」なるのか。
薄暮の庭に、影はなかった。
正確に言えば、「影」という概念が成立していなかった。
すべてがぼんやりと暗かったから、暗さの差異が認識されなかったのだ。
ところが、迎え火を灯した瞬間、その均質な闇は破られる。
光が強烈に「ある」場所が生じることで、光が「ない」場所が際立ってしまう。
つまり、影とは光の不在ではない。
影とは、光によって「生み出される」ものなのだ。
この逆説に、私は迎え火の本質が潜んでいると思う。
私たちは、迎え火を「先祖を照らす光」として理解してきた。
暗い黄泉路を歩いてくる先祖が、迷わないように焚く道標。
それは確かにそうだろう。
だが、光を焚くということは、同時に影を生むということでもある。
先祖を迎え入れる光は、同じ場所に、別のものが潜む「闘の溜まり場」を作り出す。
炎に照らされた玄関先は、確かに「生者の領域」だ。
しかし、その背後、炎の光が届かない軒下の暗がり、植え込みの根元、庭石の影——そこは、火が灯る前よりも、はるかに濃い闇を湛えている。
祖母は、こう言った。
「迎え火を焚くとね、ご先祖様がいらっしゃる。
でも、その後ろについてくるものもいるんだよ。
火を見てはいけないものが、影に隠れて、一緒に入ってくるの」
幼い私は、それを単なる怖い話だと思った。
だが今、知識を持った上で振り返ると、祖母の言葉には奇妙な正確さがある。
火を焚くことで、影が「生まれる」。
その影は、火を焚く前には存在しなかった。
では、その影の中には、何がいるのか。
物理学は「何もいない」と答える。
光が遮られた空間、それだけだと。
だが、民俗学は別の答えを持っている。
影とは、単なる光の不在ではなく、光に追われたものが逃げ込む場所なのだ。
光が強ければ強いほど、そこから追い出されたものは、より深い闇に身を潜める。
迎え火の炎が明るければ明るいほど、その傍らの影は、より濃く、より「何か」を宿す。
私たちは、先祖を迎えるために火を焚く。
だが、その火が作り出す影は、先祖だけを迎え入れるとは限らない。
炎の揺らめきと「命」の錯覚
影は、動く。
これは、迎え火を見たことのある人なら、誰でも知っている。
炎が風に煽られて揺れるたび、庭石の影は伸び縮みし、植え込みの影は右に左にと首を振り、立っている人の影は、まるで深呼吸でもするかのように膨らんだり縮んだりする。
当然だ、と思われるだろう。
光源が動けば、影も動く。
炎の揺れに合わせて影が揺れるのは、何の不思議もない。
だが、私は問いたい。
あなたは、揺れる影を「影」だと認識しているだろうか。
知覚心理学に、こういう知見がある。
人間の視覚システムは、動くものを優先的に処理する傾向がある。
これは生存本能に由来する。
静止しているものより、動いているものの方が、捕食者である可能性が高いからだ。
草むらの中でガサリと動くものに即座に注意を向ける——それが、私たちの祖先が生き延びるために獲得した能力だった。
つまり、動くものは、脳によって「生き物」として処理されやすい。
炎に照らされた影は、絶えず動いている。
規則性のない、予測不能な動き。
風に煽られ、酸素の供給量が変わり、燃料の形状が崩れ、炎は一秒ごとに異なる形に変わり続ける。
その結果、影もまた、一秒ごとに異なる形に変わり続ける。
それを見つめる私たちの脳は、無意識のうちに、その動きの中に「生命」を読み取ろうとする。
伸び縮みする庭石の影——あれは呼吸ではないか。
左右に揺れる植え込みの影——あれは首を振る仕草ではないか。
ゆらりと傾く人の影——あれは、何かを窺う動作ではないか。
こうした「読み取り」は、理性では抑えられない。
動体視覚は、意識よりも速く作動する。
目が捉え、脳が解釈を終える頃には、すでに「生き物がいる」という警報が、体の奥深くで鳴り響いている。
祖母は、よくこんなことを言っていた。
「火が揺れるのはね、風のせいじゃないんだよ。
影の中に誰かが入ろうとしているからだよ。
影が広がる時は、入ってこようとしている。
影が縮む時は、入ってきた後なんだ」
私は、この言葉の精密さに慄然とする。
炎が揺らぐ時、影は伸び縮みする。
祖母はその動きを、「誰かが入ろうとしている」「入ってきた」と表現した。
科学的には「炎の揺らぎが影の面積を変化させている」だけだ。
だが、その現象を見ている私たちの脳は、そうは受け取らない。
脳は、動く影の中に「意志を持って移動する何か」を見出してしまう。
迎え火の傍らで、じっと影を見つめていると、やがて奇妙な感覚に囚われる。
影が動いているのではない。
影の中で、何かが動いている。
両者の違いは、言葉の上ではわずかだ。
だが、体験としてはまったく異なる。前者は物理現象の観察だ。
後者は、別の存在の知覚である。
炎が揺らぎ、影が蠢くたびに、その中で「何か」が蠢いている。
それを見つめる私たちの視神経は、光の変化を信号に変え、脳に送り続ける。
脳はその信号を、「生き物」として処理し続ける。
そして、一度「生き物」として処理されたものは、もはや影には戻らない。
あなたが迎え火を焚いた時、炎の傍らの影が動いたら、それは風のせいだと、自分に言い聞かせることはできる。
だが、あなたの脳は、既に別の解釈を済ませている。
その解釈は、意識の下に沈み、夜、布団に入ってから、ふいに浮かび上がってくる。
あの時、影の中にいたのは、何だったのか。
影の独立——本体と乖離する輪郭
もう一つ、迎え火の影には、奇妙な性質がある。
それは、影が本体から独立しようとする、という現象だ。
ある夏の夜、私は家族と共に迎え火を囲んでいた。
父と母、私と弟。
四人で苧殻を焚き、静かに燃え尽きるのを待っていた。
その時、弟が言った。
「影が五つあるよ」
一瞬、何のことかわからなかった。
四人いるのだから、影も四つのはずだ。
だが、弟が指差す先を見て、私は息を呑んだ。
確かに、影が五つあった。
父の影、母の影、私の影、弟の影。
そしてもう一つ、私たちの影の列の端に、誰のものでもない影がひとつ、揺らめいていた。
私たちは誰も動かなかった。
だが、その「五つ目の影」だけが、ゆっくりと伸び始めた。
私たちの足元を離れ、庭石の脇を通り、玄関の敷居を超えて、家の中へと滑り込んでいった。
影だけが、先に帰宅したのだ。
その後、家の中では、誰かが歩く音がするようになった。
畳を踏む、かすかな軋み。
廊下を渡る、布の擦れるような音。
だが、振り向いても、誰もいない。
祖母は、こう言った。
「影が先に入っちゃったんだね。
影は、本体がなくても動けるんだよ。
でも、本体のない影は、自分の体が欲しくてしょうがない。
だから、誰かの体を借りようとするんだ」
これを聞いた時、私は子供心に恐ろしさを感じたが、同時に、腑に落ちるものがあった。
影とは、光が物体に遮られて生じる「暗い領域」だと、学校では習う。
だが、民俗学的な世界観では、影はもっと積極的な存在だ。
影は、本体の「分身」であり、「霊魂の半分」であるという考え方は、世界各地に存在する。
たとえば、ある地方では、影を踏まれることを非常に嫌う。
影を踏まれると、魂を傷つけられるからだという。
また、別の地方では、水面に映る自分の影を凝視してはいけないとされる。
影が水に引き込まれ、戻ってこなくなるからだという。
これらの伝承に共通するのは、影が単なる光学現象ではなく、本体と連動した「何か」であるという認識だ。影は本体についてくる。
だが、条件によっては、影は本体を離れ、独立して動き出すことがある。
迎え火は、その「条件」の一つなのだろう。
強い光源と深い闇。揺らぐ炎と蠢く影。生者と死者の境目が曖昧になるお盆の夜。
それらの条件が揃った時、影は——本体から離れる、その一瞬の隙を窺っている。
私はあの夜以来、自分の影を、以前のようには見られなくなった。
日中、アスファルトの上に伸びる自分の影を見ると、ふと考えてしまう。
あれは、本当に私の影だろうか。
私が動くから、影も動いているのか。
それとも——影が動くから、私も動かされているのか。
そして、もっと恐ろしい考えが頭をよぎる。
あの夜、家の中に入っていった「五つ目の影」は、今どこにいるのだろう。
誰の体を「借りて」いるのだろう。
ふと、自分の影が、自分を覗き返しているような気がする時がある。
それは錯覚だと、理性は言う。
だが、あなたの影が今、この文章を読んでいるあなたの背後で、何をしているか——あなたは、本当に知っているだろうか。
逆残像の秘密――網膜に定着する「招かれざる像」
補色の怪――火の赤が「青白い影」に変わるとき
迎え火を、じっと見つめてみてほしい。
橙色の炎が、黒く焦げた苧殻の上で踊っている。
赤、橙、黄。
炎の中心部は白に近い輝きを放ち、その周縁は赤銅色に揺らめく。
十秒、二十秒。炎を凝視し続けると、目の奥がじんわりと熱を帯びてくるのがわかる。
網膜が、光のエネルギーを受け止めている感覚。
それは、心地よさと危うさの境界にある、奇妙な感覚だ。
そして、目を逸らす。
あるいは、目を閉じる。
その瞬間、あなたは「それ」を見る。
瞼の裏に、あるいは視線を移した先の壁に、青白い輪郭が浮かび上がる。
さっきまで見つめていた炎と同じ形。
だが、色が違う。赤かったはずの炎は、青緑色の影となって、視界の中をゆらゆらと漂っている。
これを、科学は補色残像と呼ぶ。
原理はこうだ。
人間の網膜には、色を感知する錐体細胞がある。
赤を感知する錐体、緑を感知する錐体、青を感知する錐体。
強い赤色光を長時間見つめると、赤を感知する錐体が疲労し、感度が一時的に低下する。
その状態で目を逸らすと、赤の錐体は「休憩中」なのに、緑と青の錐体は通常通り働いている。
結果、本来は白く見えるはずの場所が、赤の補色である青緑色に見えてしまう。
これが、補色残像のメカニズムだ。
科学的には、完璧に説明できる現象である。
だが、私は一つの疑問を抱いている。
なぜ、日本の幽霊は「青白い」のか。
浮世絵に描かれた幽霊を思い出してほしい。
円山応挙の幽霊画、鳥山石燕の妖怪図巻。
それらに描かれた幽霊は、例外なく青白い。
顔は青ざめ、着物は藍色に近い灰白色。
炎のような赤や橙とは対極の、冷たい色彩で表現される。
これは単なる美術的な約束事なのだろうか。
私は、そうは思わない。
日本人が幽霊を「青白い」と認識するようになった背景には、火を見つめた後の補色残像があったのではないか。
考えてみてほしい。
電気のなかった時代、夜の光源は火しかなかった。
囲炉裏の火、行灯の火、蝋燭の火。
人々は日常的に火を見つめ、そして目を逸らした時に、青白い残像を見ていたはずだ。
特に、お盆の迎え火は、他の火よりも「凝視する」機会が多い。
先祖を迎えるという神聖な行為の中で、人々は炎を見つめ、そして目を閉じた。
その瞬間、瞼の裏に浮かんだのは、青白い人影ではなかったか。
橙色の炎を見つめた網膜は、その形を「青緑色」に反転させて記憶する。
炎の輪郭は、補色残像として、人の形に近いシルエットとなって瞼の裏を漂う。
揺らめく炎の形は、揺らめく人影の形に。立ち上る炎の先端は、ぼんやりとした頭部の輪郭に。
人々は、それを見て思ったのではないか。
ああ、ご先祖様が来てくださった、と。
そして、時にはこうも思ったのではないか。
あれは、ご先祖様ではない。別の何かだ、と。
補色残像は、見たものを反転させる。
赤を青に、橙を青緑に。
だが、それだけではない。
炎という「光」を、影に変えるのだ。
網膜は、光を受け取り、それを闇の中で再生する。
見えなくなったはずの火が、形を変えて、闇の中に蘇る。
これは、単なる錯覚だろうか。
それとも、火を通じて、何かが網膜に定着したのだろうか。
焼き付いた「顔」の正体
補色残像には、もう一つ奇妙な性質がある。
それは、時間と共に「形」が変わるということだ。
迎え火を凝視した後、目を閉じてみてほしい。
最初は、炎の形がそのまま青白い輪郭として見えるはずだ。
ゆらゆらと揺れる、不定形の光の塊。
だが、十秒、二十秒と経つうちに、その輪郭は変化を始める。
最初は丸かったものが、縦に伸びていく。
下の方が細くなり、上の方が丸みを帯びてくる。
そして、その丸い部分に、やがてくぼみができる。
二つのくぼみ。目のような、くぼみ。
そこから先は、止められない。
脳は、パターンを認識しようとする。
二つのくぼみの下に、もう一つのくぼみを「見つける」。
三つ目のくぼみは、口のように見える。頭の輪郭、目、口。それは——顔だ。
瞼の裏に、顔が浮かんでいる。
知覚心理学では、これをシミュラクラ現象、あるいはパレイドリアと呼ぶ。
人間の脳は、顔を認識することに特化している。
三つの点があれば、脳は自動的にそれを「顔」として処理する。
コンセントの穴が顔に見える。
車のヘッドライトが顔に見える。
雲の形が顔に見える。
これは、社会的動物として進化した人間の、生得的な能力だ。
だが、補色残像の「顔」には、他のパレイドリアとは異なる特徴がある。
それは、瞼を閉じても逃げられないということだ。
壁のシミが顔に見えたら、目を逸らせばいい。
雲の顔が怖ければ、室内に入ればいい。
だが、瞼の裏の顔は、どこに逃げても着いてくる。
目を開けても、しばらくは視界に重なって見える。
目を閉じれば、
また現れる。
そして、その顔は、徐々に鮮明になっていく。
ここに、一つの怪異譚がある。
ある男が、迎え火をじっと見つめすぎた。
火が燃え尽きた後も、彼の目は炎を探し続けた。
目を閉じると、青白い残像が見える。
最初はぼんやりとした光の塊だったそれは、日を追うごとに、形を成していった。
三日目、それは人の形になった。
五日目、それは女の形になった。
七日目、その女は口を動かし始めた。
男は眼科を訪れた。医師は「残像です」と言った。
「強い光を見すぎたのでしょう。
そのうち消えます」。
だが、消えなかった。
女は日に日に鮮明になり、やがて男に話しかけるようになった。
何を言っているのかは、聞き取れない。
だが、その唇の動きは、明らかに言葉を形作っている。
男は、自分の網膜が異界への定着液になってしまったのだと悟った。
火を見つめることで、網膜は「向こう側」の像を受け入れる準備を整えた。
補色残像として現れた青白い輪郭は、最初は単なる錯覚だった。
だが、その像を「見続ける」ことで、像は網膜に定着していった。
定着した像は、もはや残像ではない。
それは、網膜という薄い膜を足がかりにして、この世界に居座り始めた存在だ。
男がどうなったかは、伝わっていない。
ただ、こういう言い伝えが残っている。
「一度網膜に焼かれたら、彼らはそこから家の中へ入ってくる」
目は、外界を見るための器官だと私たちは思っている。
だが、目は同時に、外界に向かって開かれた穴でもある。
網膜に像が結ばれるということは、外界の何かが、私たちの内部に入り込むということだ。
通常、その「何か」は光であり、像であり、無害な情報にすぎない。
だが、迎え火の光は、どうだろうか。
あの炎の向こう側には、何があるのか。
私たちが火を見つめている時、火の向こうでは、何が起きているのか。
視線の逆流——見つめる時、見つめられている
ここで、一つの仮説を提示したい。
私たちが火を見つめている時、火の向こう側からも、何かがこちらを見つめている。
これは、比喩ではない。
光学的に考えてみよう。
私たちが炎を見る時、炎から放たれた光が目に入り、網膜に像を結ぶ。
これは一方向の情報伝達だ。
だが、視線というものを、もう少し広く捉えてみてはどうだろう。
古来、「見る」という行為は、単なる受動的な情報受信ではなかった。
古代ギリシャには、目から光線が放たれ、それが物体に当たって戻ってくることで視覚が成立するという「外送説」があった。
科学的には否定された理論だが、この考え方には、ある種の直観的な正しさがある。
私たちが何かを「見る」時、そこには意志がある。
注視するという行為は、視線を「向ける」という能動的な行為だ。
視線は、目から対象に向かって伸びていく何かとして、感じられる。
では、もし視線が「通路」だとしたら、どうだろう。
私たちが火を見つめる時、視線という通路が、私たちの目と火の間に開かれる。
光はその通路を通って、私たちの網膜に届く。
だが、通路は一方通行とは限らない。
光が入ってくるなら、何かが出ていくこともできる。
何かが出ていくなら、何かが入ってくることもできる。
迎え火は、異界との境目に焚かれる火だ。
お盆という、生者と死者の境界が曖昧になる時期に、その境界線上で燃える炎。
その炎を見つめるということは、異界に向かって視線という「通路」を開くということではないか。
私たちが火を見つめている時、火の向こう側にいる何かも、その通路に気づく。
ああ、見えている。こちらが見えている。
そして、彼らは通路を逆流し始める。
光に乗って、視線に乗って、私たちの目に向かって。
補色残像として現れる青白い人影は、彼らの「姿」なのかもしれない。
私たちが火を見つめることで開いた通路を通って、彼らは私たちの網膜まで辿り着いた。
そして、網膜という薄い膜の上に、自らの像を定着させた。
網膜に残る像は、単なる錯覚ではない。
それは、向こう側からの「覗き窓」なのだ。
彼らは、私たちの目を通して、この世界を覗いている。
私たちが目を閉じても、彼らは消えない。
なぜなら、彼らは既に網膜に定着しているから。
私たちが見る世界は、彼らにも見えている。
私たちの視神経を通じて、彼らはこの世界の情報を得ている。
そして、最も恐ろしいのは、これだ。
目を閉じても、逃げられない。
視線を逸らせば、見なくて済む。
目を閉じれば、暗闇だけが見える。
私たちはそう信じている。
だが、補色残像は、その信念を裏切る。
目を閉じても、像は消えない。瞼の裏の暗闇の中で、青白い輪郭がゆらゆらと漂い続ける。
彼らは、視神経の奥深くに潜り込んでいる。
私たちが目を閉じるたびに、彼らはそこにいる。
暗闇の中で、私たちを見つめている。
いや、正確には——私たちの目を使って、この世界を見つめている。
祖母は、こう言っていた。
「迎え火を見すぎちゃいけないよ。向こうの人に、顔を覚えられちゃうから」
顔を覚えられる。
それは比喩だと思っていた。
だが今、私にはわかる。
顔を覚えられるとは、視線を通じて、網膜に定着されることなのだ。
彼らは私たちの顔を覚えるのではない。
私たちの網膜に、住みつくのだ。
あなたは今夜、目を閉じた時、何が見えるだろうか。
何も見えないと、あなたは言うかもしれない。
瞼の裏は、ただ暗いだけだと。
だが、本当にそうだろうか。
暗闘の中を、よく見てほしい。
完全な黒ではないはずだ。
かすかな光の粒、ちらちらとした色のノイズ、そしてもしかしたら
——青白い、ぼんやりとした輪郭が、見えはしないだろうか。
それは、いつから、そこにいたのだろう。
周辺視野の住人――「端」に映る気配
中心視と周辺視――怪異が潜む「死角」
ここまで、私たちは「見る」という行為の中心にあるもの——直視した対象と、それが残す残像について考えてきた。
だが、視覚の恐怖は、それだけではない。
むしろ、最も根源的な恐怖は、見えないものの中にある。
正確に言えば、見えているのに、見えていないもの。
それは、周辺視野の中に潜んでいる。
人間の視野は、およそ水平方向に200度、垂直方向に125度と言われる。
だが、その広大な視野のうち、細部を鮮明に認識できるのは、中心のわずか2度程度だ。
この2度の範囲を「中心視」と呼ぶ。
文字を読む、人の顔を見分ける、細かい作業をする——そうした行為は、すべてこの中心視で行われている。
では、残りの視野——「周辺視野」には、何が映っているのか。
答えは、あいまいな何かだ。
周辺視野は、解像度が極端に低い。
色の識別も苦手だ。
動きには敏感だが、形状の認識は不得手。
つまり、周辺視野に映っているものは、「何かがある」ということはわかっても、「それが何であるか」は判然としない。
脳は、この曖昧な情報を処理するために、補完を行う。
周辺視野からの不完全な情報を、記憶や経験に基づいて「こうであろう」と補って、一貫した世界像を構築する。
あなたが今、この文章を読んでいる時、視界の端に見えている部屋の様子は、実は脳が「たぶんこうだろう」と補完した像にすぎない。
ここに、怪異が潜む隙間がある。
周辺視野に映ったものを、脳が「補完」に失敗したら、何が起きるか。
あるいは、周辺視野に映ったものが、脳の想定を超えていたら、何が見えるか。
迎え火を囲む夜、私はしばしば奇妙な体験をした。
炎を見つめている時、視界の端に「黒いモヤ」のようなものが映る。
それは、庭木の影かもしれないし、夜気の揺らぎかもしれない。
だが、気になって視線を向けると——消える。
振り向いた先には、何もない。
ただの闇があるだけだ。
だが、再び炎に視線を戻すと、また視界の端に現れる。
今度はさっきより近い位置に。
まるで、私が見ていない隙に、距離を詰めてきたかのように。
祖母の家には、太い大黒柱があった。
お盆の夜、迎え火が揺れるたび、その柱の影から何かがひょこりと顔を出す——ような気がした。
正視すると消えるが、火をいじっている最中に視界の端で、必ず目が合う。
黒い、丸い、目のようなもの。
私がそのことを祖母に話すと、祖母は火から目を離さずにこう言った。
「見ようとしちゃいけないよ。向こうも、見つかったら入ってこなきゃいけなくなるからね」
この言葉の意味を、私は長い間理解できなかった。
「見つかったら入ってこなきゃいけなくなる」とは、どういうことか。
見つかったら逃げるのではないのか。
今なら、わかる気がする。
周辺視野に映るものは、あいまいな存在だ。
脳がまだ「何であるか」を確定していない。
それは、黒い影かもしれないし、木の枝かもしれないし、あるいは——何か別のものかもしれない。
可能性は重なり合い、どれとも決まっていない。
だが、正視した瞬間、その重なりは一つに収束する。
脳は、見たものに「名前」をつける。
「あれは木の枝だ」「あれは影だ」。
名前がついた瞬間、それは確定する。
では、もし正視した瞬間に、脳が「あれは何か別のものだ」と認識してしまったら?
名前がつけられた「何か」は、もはや曖昧な可能性ではなくなる。
それは、確定した存在として、この世界に定着する。
「見つかったら入ってこなきゃいけなくなる」とは、そういうことではないか。
周辺視野に潜んでいる間、彼らは曖昧な存在だ。
いるかもしれないし、いないかもしれない。
だが、正視され、認識され、「いる」と確定された瞬間、彼らはこの世界に確定的な足場を得る。
見ることによって、私たちは彼らを「呼び込んで」しまう。
だから、視界の端で何かが動いても、振り向いてはいけない。
見なければ、いないことにできる。
見てしまったら、もう——いないことには、できない。
パレイドリア現象の深淵
だが、「見ない」ことは、本当に可能だろうか。
人間の脳には、見てしまう傾向が組み込まれている。
それが、パレイドリア現象だ。
パレイドリアとは、本来そこにないパターンを、脳が「見出してしまう」現象のことだ。
壁のシミが顔に見える。
木目が人の姿に見える。
雲が動物の形に見える。
これは、脳のパターン認識機能が過剰に働いた結果だ。
先ほど、補色残像の中に顔が見えてくる話をした。
あれもパレイドリアの一種だ。
だが、迎え火の夜には、もっと直接的なパレイドリアが起きる。
炎が生み出す複雑なコントラストは、周囲のあらゆる面に「パターン」を投射する。
壁の凹凸、天井の木目、畳の網目、障子の桟。
それらすべてに、光と影のグラデーションが刻まれる。
揺らぐ炎は、その光と影を絶えず変化させる。
すると、静止しているはずの模様が、動き出したように見える。
あの木目が、瞬きをした。
あの壁のシミが、口を開けた。
あの障子の向こうに、人影が映った。
これらは「気のせい」だと、私たちは自分に言い聞かせる。
脳が作り出した幻。
炎の揺らぎが生んだ錯覚。
だが、お盆の夜に限っては、その確信が揺らぐ。
なぜなら、お盆は「いる」ことが前提の時期だからだ。
先祖の霊が帰ってくる。
私たちはそう信じて迎え火を焚く。
つまり、お盆の夜、私たちの脳は「霊がいる」という前提で世界を見ている。
この前提が、パレイドリアを加速させる。
壁のシミが顔に見える——普段なら「気のせい」で済ませる。
だが、お盆の夜には——「ああ、ご先祖様かもしれない」と考える。
この「かもしれない」が危険なのだ。
脳は、可能性を与えられると、それを検証しようとする。
「顔かもしれない」と思った瞬間、脳は壁のシミをより注意深く観察し、「顔である証拠」を探し始める。
目のようなくぼみを見つける。
口のような線を見つける。
そして、「やはり顔だ」と結論する。
だが、その「顔」は、本当にご先祖様だろうか。
私たちは、お盆に帰ってくるのは先祖だけだと思い込んでいる。
だが、あの世からこの世への道が開くのなら、その道を通るのは先祖だけとは限らない。
迎え火の光を目印に、別のものが紛れ込んできたとしても、不思議ではない。
壁のシミに現れた「顔」。
それは先祖かもしれない。
だが、先祖ではないものが、先祖のふりをして、そこに現れている可能性もある。
私たちがパレイドリアで「顔」を見出し、「ご先祖様だ」と認識した瞬間、その「何か」は先祖として振る舞う権利を得る。
私たちは、見ることによって、それを呼び込み、名づけ、居場所を与えてしまう。
祖母は、こう言っていた。
「お盆にはね、ご先祖様に似せて来るものもいるんだよ。顔がよく見えないうちは、まだいいの。
でも、はっきり顔が見えちゃったら——それはもう、帰ってもらえないからね」
はっきり見えたものは、帰ってもらえない。
それは、はっきり見えることで、この世界に定着してしまうからだ。
私たちの認識が、彼らにこの世界での「居場所」を与えてしまう。
曖昧な存在を、確定した存在に変えてしまう。
だから、お盆の夜は、あまりはっきり見ようとしてはいけない。
炎の揺らぎの中に何かが見えても、「気のせい」にしておくこと。
壁のシミが動いた気がしても、「気のせい」にしておくこと。
「気のせい」という言葉は、私たちを守る結界なのだ。
だが、一度見てしまったものは、どうなるのか。
「気のせい」にできなくなったものは、どこへ行くのか。
鏡としての夜の窓
迎え火を焚く玄関先に立つ時、あなたは一枚のガラスに気づくだろう。
窓だ。
夜のガラス窓は、外を映さない。
部屋の明かりと迎え火の光を受けて、鏡のように室内を映し出す。
外の火と、内の自分。
二つの像が、ガラスの表面で重なり合う。
あなたは、窓に映った自分を見る。
炎に照らされた自分の顔、自分の体、自分の——影。
その時、ふと気づく違和感。
窓に映った自分の背後に、もう一つの影が重なっていないだろうか。
自分の影は、炎を背にして伸びているはずだ。
だが、窓ガラスに映った像の中では、その影の「さらに後ろ」に、別の暗がりが見える気がする。
自分よりも濃い、自分よりも大きい、自分のものではない影。
目の錯覚だ、と思う。
だが、その影が、微かに——本当に微かに——動いた気がする。
自分は動いていない。
炎も、一瞬だけ凪いでいる。
なのに、窓に映った影だけが、ずり、と位置を変えた。
あなたは振り返る。
背後には、誰もいない。
庭先に燃える迎え火と、夜の闇があるだけだ。
安心して、再び窓に目を戻す。
窓の中の自分が、まだこちらを振り向いていない。
一瞬のことだ。
コンマ数秒の遅延。
あなたが振り返り、そして窓に目を戻した時、窓の中のあなたは——ほんの少しだけ——動作が遅れている。
あなたはもう正面を向いているのに、窓の中のあなたは、まだ振り返った姿勢のまま、こちらを——
次の瞬間、像は正常に戻る。
窓の中の自分は、いつも通りの自分だ。
同じ動きを、同じタイミングでしている。
何も、おかしなことはない。
だが、あの一瞬の「ずれ」は何だったのか。
鏡と窓は、古来より異界の入り口とされてきた。
特に夜の窓は危険だと言われる。
外の闇と内の光が、ガラスの表面で交わる場所。
そこには、この世とあの世の境界が薄くなる。
迎え火の夜、その境界はさらに薄くなる。
炎の光は、窓ガラスを通して外に漏れる。
同時に、窓ガラスは炎を反射して、内側に像を結ぶ。
光が内と外を行き交う中で、ガラスの表面には複雑な光学現象が起きている。
反射と透過と屈折が重なり合い、現実の空間とは異なる「像の空間」が生まれる。
その像の空間は、現実を映しているようで、微妙にずれている。
光の速度が遅れるわけではない。
だが、像が結ばれるまでのわずかなタイムラグ、脳が像を処理するまでのわずかな遅延——それらが重なり合って、鏡の中の自分は、現実の自分よりも「少し遅れて」動いているように感じられることがある。
その遅延の隙間に、何が入り込むのか。
窓に映った自分の影の後ろに、別の影が見える。
あれは、遅延した過去の自分の影だろうか。
それとも——自分に憑こうとしている何かの影だろうか。
窓の中で、一瞬だけ動作がずれた自分。
あれは、光学的な遅延だろうか。
それとも——窓の向こうにいる別の自分が、一瞬だけ本性を現したのだろうか。
祖母は、お盆の夜には窓に布を掛けていた。
「夜の窓は、あっちとこっちが繋がっちゃうからね。
見ちゃいけないの。
向こうに引っ張られちゃうから」
私たちは窓を見る。
窓は私たちを映す。
だが、窓の向こうからは、何が私たちを見ているのか。
ガラスの反射は、私たちを複製する。
複製された像は、私たちの支配下にあるように見える。
私たちが動けば、像も動く。
だが、本当にそうだろうか。
もしかしたら、因果関係は逆なのではないか。
窓の中の像が動くから、私たちも動かされているのではないか。
私たちが「実体」で、像が「影」だと、誰が決めたのか。
窓の向こうにいる「像としての自分」が、こちらを「自分の影」だと思っていない保証は、どこにもない。
迎え火の夜、窓を見つめる時、あなたは問われている。
実体と影の主客は、どちらが本物か。
その答えは、出さない方がいい。
答えを出した瞬間、どちらか一方が——消えなければならなくなるから。
現代の視覚環境と「失われた闇」
LEDと蛍光灯——平坦な光が殺したもの
現代の夜は、明るい。
街灯が道を照らし、コンビニエンスストアの蛍光灯が交差点を白く染め、ビルの窓からは無数のLEDの光が漏れ出す。
私たちは、闇を駆逐した時代に生きている。
それは、便利なことだ。安全なことだ。
夜道を歩いても足元が見える。
防犯カメラが隅々まで監視できる。
二十四時間、活動を続けることができる。文明は、闇を克服した。
だが、その代償として、私たちは何を失ったのだろうか。
影を、失ったのだ。
現代の照明は、影を消すように設計されている。
蛍光灯は天井全体から均一に光を降らせ、特定の方向からの影を作らない。
LEDのシーリングライトは、さらに徹底している。
部屋の隅々まで同じ明るさで照らし、影の濃淡という概念そのものを消し去る。
オフィスを思い出してほしい。
あの白い光に満ちた空間に、影はあるだろうか。
机の下にわずかな暗がりがあるかもしれない。
だが、それは「影」と呼べるほどの存在感を持たない。
光が支配する空間では、影は居場所を失う。
かつての夜は、そうではなかった。
蝋燭の灯り、囲炉裏の火、行灯の光。
それらは一点から発せられる光だった。
光源が一つであれば、すべての物体は明確な影を持つ。
光が当たる側と、当たらない側。
その境界は鮮明で、影は物体と同じだけの存在感を持っていた。
人は、自分の影と共に生きていた。
朝、太陽が昇れば、影は足元に生まれる。
昼、太陽が高くなれば、影は短くなり、自分の真下に潜り込む。
夕方、太陽が傾けば、影は長く伸び、自分よりも先に家路を辿る。
夜、月と星と炎の光の中で、影はさらに濃く、さらに大きく、壁や天井を這い回る。
影は、もう一人の自分だった。
光あるところに影がある。
自分がいるところに影がいる。
それは当たり前のことであり、同時に、不思議なことでもあった。
影は自分についてくる。自分が動けば影も動く。
だが、影は自分ではない。
触れることもできないし、話しかけることもできない。
自分と同じ形をしているのに、自分とは別の存在。
その「別の存在」と、人は日々向き合っていた。
時には、影に魂の半分が宿ると考えた。
時には、影を踏まれることを極端に嫌った。
時には、影が本体から離れて独立することを恐れた。
影にまつわる信仰や禁忌は、世界中に存在する。
それは、人が影と共に生きてきた証拠だ。
現代人は、その感覚を失いつつある。
均一な照明の下では、影は消える。
影がなければ、「もう一人の自分」という感覚も生まれない。
私たちは、自分だけの存在になった。
影という「対」を失い、単体の存在として世界に立っている。
それは、孤独なことだ。
だが同時に、無防備なことでもある。
影が消えた世界では、何が起きるか。
影に潜んでいたものは、どこへ行くのか。
影は、異界の住人が身を隠す場所だった。
迎え火が作り出す濃い影の中に、彼らは潜んでいた。
光に追われ、影に逃げ込み、そこから私たちの世界を窺っていた。
影があったからこそ、彼らには居場所があった。
居場所があったからこそ、彼らはそこに留まっていた。
では、影が消えたら?
彼らは、どこへ行くのだろう。
消えてしまうのだろうか。
光に焼かれて、存在ごと消滅してしまうのだろうか。
私は、そうは思わない。
彼らは、別の場所を見つけたのだ。
デジタルノイズの中の住人
現代の幽霊は、姿を変えた。
かつて、幽霊は暗闘の中に現れた。
蝋燭の炎が揺れる部屋の隅、月明かりが届かない廊下の先、井戸の底、墓地の木陰。
闇が濃い場所にこそ、彼らは現れた。
だが、闇が消えた現代、彼らはどこに現れるようになったか。
画面の中だ。
心霊写真という現象がある。
写真に、写っているはずのない人影が映り込む。
その現象は、フィルムカメラの時代から存在したが、デジタルカメラの普及と共に、むしろ増加したという報告がある。
テレビの砂嵐を覚えているだろうか。
かつてのブラウン管テレビは、放送終了後に灰色のノイズを映し出した。
あのざわざわとした光の粒の中に、「顔が見える」という体験談は数多い。
パソコンやスマートフォンの画面にも、同様の報告がある。
暗い場所で画面を見ていると、画面の反射に「自分以外の何か」が映り込む。
ビデオ通話中に、背景に「いるはずのない人影」が映る。
これらは、すべて錯覚かもしれない。
デジタルノイズ、圧縮アーティファクト、反射光の偶然の重なり。
科学的には、そう説明できる。
だが、私は別の解釈を持っている。
影を追われた彼らは、デジタルの中に新たな居場所を見つけたのではないか。
考えてみてほしい。
現代の光は、影を消す。
蛍光灯とLEDが支配する空間には、彼らが隠れる影がない。
だが、光には別の形態がある。
画面から発せられる光だ。
液晶画面、有機EL、ブラウン管。
それらは光を発するが、光源としては奇妙な性質を持っている。
画面の光は、物体に当たっても「普通の影」を作らない。
部屋を照らすほどの明るさはあるが、影を生むほどの指向性がない。
しかし、画面には別のものがある。
デジタルノイズという名の、現代の「闘」だ。
画像の圧縮で生じるブロックノイズ。
通信の遅延で乱れるビデオ信号。
暗い場所で撮影した時に現れる高感度ノイズ。
それらは、純粋な情報ではない。
意味を持たないデータの断片、映像と映像の隙間、信号と信号の間に生じる「無」の領域。
彼らは、その隙間に住みついたのではないか。
かつて影に潜んでいた存在は、今、デジタルノイズの中に潜んでいる。
私たちがスマートフォンを覗き込む時、画面のちらつきの中に、彼らは隠れている。
Zoomの会議で背景がわずかに乱れる時、そのピクセルの隙間に、彼らは潜んでいる。
そして、彼らは私たちを見ている。
私たちが画面を見つめる時、画面もまた私たちを見つめている。
フロントカメラという「目」を通して。
あるいは、画面という「窓」を通して。
かつて、私たちは迎え火を見つめることで、視線という通路を開いた。
今、私たちはスマートフォンの画面を見つめることで、同じ通路を開いているのではないか。
網膜に焼き付く光。
それは、炎であろうと、液晶画面であろうと、同じことだ。
強い光を凝視すれば、補色残像が生じる。
青白い輪郭が、瞼の裏を漂う。
あなたは今、この文章を画面で読んでいる。
あなたの網膜は、この瞬間も、光を受け続けている。
その光の中に、何が混じっているか——あなたは、知っているだろうか。
網膜の浄化——火を消した後の作法
ここで、一つの問いに戻ろう。
迎え火を見た後、どうすればいいのか。
これまで述べてきたように、火を凝視することで、網膜には像が焼き付く。
補色残像として現れるその像は、単なる錯覚かもしれないし、異界からの「侵入者」かもしれない。いずれにせよ、焼き付いた像を「そのまま」にしておくことは、古来より危険とされてきた。
日本の各地に、「目浄め」と呼ばれる習俗がある。
強い光を見た後、特定の方向——多くは東の方角——を見る。あるいは、冷たい水で目を洗う。
あるいは、塩を溶かした水で目を拭う。
これらは、網膜に焼き付いた「異物」を洗い流すための儀式だと考えられている。
科学的に言えば、残像は時間と共に自然に消える。
疲労した錐体細胞が回復すれば、補色残像も薄れていく。
わざわざ儀式的な行為をする必要はない。
だが、民俗学的な視点では、話が違う。
残像が「異界の住人の像」であるならば、それが自然に消えるのを待つのは危険だ。
彼らは、消える前に定着しようとする。
網膜という薄い膜に根を下ろし、そこを足がかりにして、私たちの内部に入り込もうとする。
「目浄め」は、その定着を防ぐための行為だ。
東の方角を見るのは、太陽の昇る方向——生の象徴——に視線を向けることで、網膜に「生者の光」を上書きするため。
水で目を洗うのは、物理的に網膜を冷やし、定着を妨げるため。塩を用いるのは、浄化の力によって異物を祓うため。
現代人は、こうした習俗を忘れている。
迎え火を焚き終えた後、私たちはそのまま家の中に入り、テレビを点け、スマートフォンを覗き、そして眠る。
網膜には、迎え火の残像が焼き付いたまま。
その像を浄化することなく、私たちは夜の闇に目を閉じる。
そして、夢を見る。
焼き付いた像は、睡眠中も網膜に残っている。
厳密には、残像は網膜というよりも視覚野の残響だが、主観的には同じことだ。
目を閉じた暗闇の中で、青白い輪郭がゆらゆらと漂い続ける。
夢の中で、その輪郭は形を成していく。
人の形に。
顔の形に。
あなたに何かを語りかける、口の形に。
祖母は、迎え火を焚いた夜には、必ず私に塩水で目を拭かせた。
「火を見た目は、そのまま寝かせちゃいけないんだよ。
目の奥に残っているものを、ちゃんと流してあげないと。
じゃないと、夢の中で連れていかれちゃうからね」
当時は、迷信だと思っていた。
だが今、私は祖母の言葉を思い出すたびに、その知恵の深さに驚かされる。
網膜は、外界と内界の境界面だ。
光という外界の情報が、神経信号という内界の言語に変換される場所。
その境界面に「何か」が定着するということは、外界と内界の区別が曖昧になるということだ。
目を閉じても消えない像。
それは、もはや「外から来たもの」ではない。
私たちの視覚システムの一部として、内部に取り込まれてしまった「もの」だ。
取り込まれたものは、外には出せない。
彼らは、私たちの「見る」という行為そのものの中に、住みつく。私たちが何かを見るたびに、彼らも一緒にそれを見ている。
私たちの視界の端に、彼らは常にいる。
だから、火を見た後には、目を浄めなければならない。
網膜に焼き付いた像を、意識的に洗い流さなければならない。
あなたが今夜、迎え火を焚くことがあれば——あるいは、この文章を読んだ後、目を閉じることがあれば——思い出してほしい。
目を閉じる前に、東の方角を見ること。
あるいは、冷たい水で目を洗うこと。
網膜に残っているものを、眠りに持ち込まないこと。
それが、あなたを守る最後の砦だ。
あなたは今、何を見ていますか
この文章を、最後まで読んでくださったあなたに、改めて問いたい。
あなたは今、何を見ていますか。
あなたの目は、画面を見ている。
黒い文字が、光を発する矩形の上に浮かんでいる。
あなたの網膜は、この瞬間も、光を吸収し続けている。
では、視界の端には、何があるだろう。
画面の縁。
部屋の壁。
天井と床の境目。
窓があるなら、その窓には、あなた自身が映っているかもしれない。
その映り込みの背後に、何が見えるだろう。
振り向かないでいただきたい。
見ようとすると、消えてしまうから。
この文章を読む間、あなたの周辺視野は、ずっと「何か」を捉え続けていたはずだ。
それが何だったかは、わからない。脳が「ノイズ」として処理したから、意識には上らなかった。
だが、処理されなかったものは、どこかに沈殿している。
網膜の奥に。
視神経の片隅に。
この文章は、迎え火の「影」と「残像」について述べてきた。
だが、あなたが今見つめているのは、迎え火ではない。
画面だ。
画面もまた、光を発している。
あなたは今、強い光を凝視し続けている。
スマートフォンの液晶、パソコンのモニター、いずれにせよ、あなたの網膜は光を浴び続けている。
この文章を読み終えて、画面から目を離した時、あなたの視界には何が見えるだろうか。
補色残像が見えるかもしれない。
画面の形をした、青白い輪郭が、壁や天井に浮かんで見えるかもしれない。
それは、液晶の光が網膜に焼き付いた跡だ。
時間が経てば消える。何も、心配することはない。
だが——
その残像の中に、「形」が見えたら。
画面の輪郭ではない、別の形が見えたら。
人の形。
顔の形。
あなたを見つめ返す、目の形。
それは、迎え火の残像ではない。
あなたは迎え火を見ていないのだから。
だが、画面の光もまた、光であることに変わりはない。
光は、通路を開く。
網膜は、像を焼き付ける。
この文章を読んでいる間、あなたは「迎え火」というものを、心に思い浮かべていたはずだ。
橙色の炎。
揺らめく影。
青白い残像。
それらのイメージが、あなたの意識の中で形を成していた。
イメージは、像である。
目で見た像ではない。
心で見た像だ。
だが、網膜と視覚野の区別は、主観的にはあまり意味がない。
目を閉じた時に見える像は、外から来たものか、内から生じたものか、区別がつかない。
あなたは今、迎え火の像を、心に焼き付けた。
その像は、どこへ行くのだろう。
今夜、目を閉じた時、瞼の裏に何が見えるだろう。
この文章を読んだせいで、あなたの視覚は、少しだけ変わってしまったかもしれない。
視界の端に、影を探すようになってしまったかもしれない。
目を閉じた時、暗闇の中を「見よう」としてしまうかもしれない。
それは、私の意図したことだ。
怪異は、知ることで成立する。
影が怖いのは、影に何かが潜んでいると「知った」からだ。
残像が怖いのは、残像が異界の窓であると「知った」からだ。
知る前は、何も怖くなかった。
知った後は、もう知らなかった頃には戻れない。
あなたは今、知ってしまった。
影のことを。
残像のことを。
周辺視野のことを。
窓の反射のことを。
その知識は、あなたの網膜に、もう一つの「像」を焼き付けた。
言葉という光によって、概念という像が、あなたの視覚システムに定着した。
今夜、あなたが目を閉じた時——
暗闇の中を、よく見てほしい。
何も見えないかもしれない。
ただの闇が、広がっているだけかもしれない。
だが、もし——
ほんの微かに、青白い輪郭が見えたなら。
人の形をした、淡い光が見えたなら。
それを見ようとしないでほしい。
見つめれば、彼らは定着する。
名前を与えれば、彼らは居場所を得る。認識すれば、彼らはこの世界に足場を築く。
だから、見なかったことにしてほしい。
「気のせい」という言葉で、蓋をしてほしい。
それが、あなたを守る最後の作法だ。
ふと目を閉じたとき、暗闇の中に青白い輪郭が見えたなら——
それはご先祖様ではなく、火が連れてきた「影」そのものです。
あるいは、この文章が焼き付けた、言葉の残像かもしれません。
どちらにせよ、見なかったことにしてください。
見てしまったら、もう——帰ってはもらえないのですから。