芳香と爆ぜる音の禁忌

麻と藁が紡ぐ「死者の足音」の民俗学

 

あなたの耳の奥に、まだ残っているはずの音

 
お盆の夕暮れに、玄関先で火を焚いたことがあるだろうか。

あの、乾いた茎が炎に舐められるときの、パチ、パチ、という音を。
そして鼻腔の奥にまで染み込んでくる、青臭くも香ばしい、どこか懐かしい煙の匂いを。

現代の都市生活において、迎え火を実際に焚く家庭は少なくなった。
マンションの規約、近隣への配慮、そして何より「面倒だから」という理由で、私たちはあの炎を手放してきた。
代わりに登場したのは、LEDで揺らめく模造の灯火である。
煙も出ない。
匂いもしない。
音もしない。


だが、死者は本当に、そんな無機質な光を目印にして帰ってこられるのだろうか。

民俗学の文献を紐解けば、お盆の火とは単なる「目印」ではなかったことが分かる。
あの炎は、死者が現世へと渡るための「道」そのものであった。
煙は彼らの「食事」であり、音は彼らの「声」であり、匂いは彼らの「記憶」を呼び覚ます鍵であった。


本稿では、迎え火に用いられる「麻(おがら)」と「藁」という素材に焦点を当て、その匂いと音が持つ霊的な意味、そして「決して燃やしてはならないもの」という禁忌について、民俗学的な考察を試みる。

読み進めるうちに、あなたの鼻の奥で、かすかに何かが焦げる匂いがしてきたら。

それは、この文章に誘われて、誰かがあなたのすぐ傍まで来ている証拠かもしれない。

中空の導管――「麻(おがら)」が霊を運ぶ理由

聖なる「空洞」と魂の通り道

 
お盆の迎え火に用いられる「おがら」とは、麻の茎の皮を剥いだ後に残る、白く乾いた芯の部分である。

手に取ってみると、驚くほど軽い。
そして、その断面を見れば分かるように、中は完全な空洞になっている。
ストローのような、あるいは竹笛のような、細長い「管」の構造をしているのだ。


なぜ、数ある植物の中から、麻の茎が迎え火の燃料として選ばれたのか。

その理由を、単に「よく燃えるから」「手に入りやすかったから」と片付けてしまうのは、あまりに味気ない。
民俗学的な視点から見れば、麻の茎が持つこの「中空」という構造こそが、霊的な意味において決定的に重要だったのである。


柳田國男の系譜を継ぐ民俗学者たちは、この空洞を「魂の通り道」として解釈してきた。
死者の霊魂は、あの細い管の中を通って現世に降りてくる。
炎に焼かれた麻の茎から立ち昇る煙は、まさに「管」の中を通過した霊魂が、空へと放たれる瞬間の可視化なのだ、と。


興味深いのは、この「中空の管」という概念が、日本の古代信仰において極めて重要な位置を占めていたことである。
神道における「依り代(よりしろ)」の多くは、中空の構造を持っている。
竹、葦、そして麻。
神や霊魂は、空洞の中に「宿る」のではなく、空洞を「通って」やってくるのだ。


いわば、麻の茎とは「天と地を繋ぐアンテナ」であった。

私の祖母は、お盆の準備をする幼い私に、こう言ったものだ。

「おがらの穴を覗いちゃいけないよ」

なぜ、と聞き返す私に、祖母は火を焚く手を止めずに答えた。

「あちら側と、目が合うからね」

当時は意味が分からなかった。
だが今、民俗学の文献を読み漁った後でその言葉を思い返すと、背筋に冷たいものが走る。


あの空洞は、単なる植物の構造ではなかったのだ。
それは文字通りの「覗き穴」であり、此岸と彼岸を繋ぐ「窓」であった。
燃やす前の麻の茎を覗き込むことは、死者の国を覗き込むことと同義だったのである。


 
ある地方に伝わる怪異譚がある。

ある少年が、お盆の準備中、束ねられたおがらの一本を手に取り、その穴を覗いた。
向こう側には、自分の家の庭が見えるはずだった。
麻の茎など、せいぜい数ミリの太さしかない。
物理的には、反対側の景色がぼんやりと見えるだけのはずだ。


だが、少年が見たのは庭ではなかった。

真っ暗な川が流れていた。

水面は墨を流したように黒く、音もなく滑るように動いていた。
そして対岸に、大勢の人が立っていた。
老人も、子供も、見知らぬ顔も、どこかで見たような顔も。
彼らは一様にこちらを見つめ、一斉に少年を指差していた。


少年は悲鳴を上げて麻の茎を投げ捨てた。

それ以来、その少年は奇妙な病にかかったという。
自分の名前を呼ばれても、それが誰の声なのか分からなくなる病に。
母の声も、父の声も、友人の声も、すべてが同じに聞こえるようになった。
あるいは、すべてが「あの対岸に立っていた者たち」の声に聞こえるようになった、というべきか。


 
この話が事実かどうかは、もはや確かめようがない。
だが、麻の茎の「覗き穴」に対する畏怖が、各地の伝承に共通して見られることは確かである。


空洞とは、「無」ではない。
それは「通路」であり、「可能性」であり、何かが通過するための「余白」なのだ。
私たちの祖先は、その空洞の向こう側に、死者たちの世界が口を開けていることを、経験的に知っていたのかもしれない。

匂いを「食む」死者たち

 
麻の茎を燃やしたときの匂いを、言葉で説明するのは難しい。

青臭い、と言えば青臭い。
香ばしい、と言えば香ばしい。
だが、どちらの形容詞も、あの匂いの本質を捉えきれていない。
それは、懐かしさと不穏さが同居した、奇妙に心をざわつかせる香りなのだ。


仏教には「香食(こうじき)」という概念がある。

死者は、食物そのものを食べることができない。
彼らが摂取できるのは、食物から立ち昇る「香り」だけである。
だからこそ、仏前に供える食べ物は、湯気が立っている温かいうちに供えなければならない。
冷めてしまった食事は、死者にとっては「空の器」と同じなのだ。


この概念を迎え火に当てはめれば、麻の茎を燃やす行為の意味が、より鮮明に浮かび上がってくる。

あの独特の匂いは、死者にとっての「食事」なのだ。

一年に一度、お盆の時期にだけ提供される、特別な御馳走。
麻の煙の匂いを嗅いだ死者たちは、「ああ、今年もこの季節が来たのだ」と気づく。
そして、匂いを辿って、生者の世界へと足を踏み出す。


犬が匂いを辿って家に帰るように、死者もまた、匂いを辿って帰ってくるのである。

ここで、現代の「無臭」の供養について考えてみたい。

LEDの迎え火には、匂いがない。
電気式の線香には、香りがない。
無煙ロウソクからは、煙が立たない。
私たちは、近隣への配慮や清潔さへの執着から、供養の場からあらゆる「匂い」を排除してきた。


だが、それは死者たちを「飢えさせている」ことにならないだろうか。

香食の概念に従えば、匂いのない供養とは、空の器を供え続けているようなものだ。
死者たちは、一年に一度の食事を楽しみに帰ってきたのに、そこには何もない。
光はある。
形式はある。
だが、彼らが唯一摂取できる「香り」だけがない。


私は時折、想像してしまうことがある。

現代の、清潔で無臭な住宅街を彷徨う、飢えた死者たちの姿を。
彼らは必死に匂いを探している。
自分を呼ぶ香りを探している。
だが、どこにもない。
アスファルトの上には排気ガスの匂いしかなく、住

宅の窓からは芳香剤の人工的な香りしか漂ってこない。

あの懐かしい、麻の煙の匂いは、どこにもないのだ。

そして死者たちは、帰る場所を見失ったまま、現世を彷徨い続ける。

繊維に宿る「産土(うぶすな)」の記憶

 
麻という植物は、日本人の一生に深く寄り添ってきた繊維である。

生まれたばかりの赤子を包んだ産着。
成長とともに身にまとう衣服。
そして、最期に身を包む死装束。
かつての日本人は、文字通り「麻に始まり、麻に終わる」生涯を送っていたのだ。


この事実を踏まえれば、迎え火に麻が用いられる理由が、さらに深い意味を帯びてくる。

燃える麻の匂いは、死者にとって「自分の人生そのものの匂い」なのだ。

産着に包まれていた頃の記憶。
母の背中の温もり。
野良仕事で汗に濡れた麻の衣の感触。
そして、自分の身体を包んで燃やされた、あの最期の炎の記憶。


匂いと記憶の結びつきは、科学的にも証明されている。
嗅覚は、五感の中で唯一、大脳辺縁系(情動や記憶を司る部位)に直接接続している感覚である。
視覚や聴覚は大脳新皮質を経由するが、嗅覚だけは、原始的な脳の部位にダイレクトに信号を送る。


だからこそ、匂いは最も強烈に記憶を呼び覚ます。

数十年前に嗅いだ匂いでも、再びそれを嗅いだ瞬間、当時の情景が鮮明に蘇る。
それは思い出すというより、「そこに連れ戻される」という表現の方が正確かもしれない。


死者にとっても、それは同じなのではないか。

麻の煙の匂いを嗅いだ瞬間、死者の魂は「故郷」を思い出す。
自分が生きていた頃の記憶が、怒涛のように押し寄せてくる。
そして彼らは、抗いがたい「帰巣本能」に突き動かされて、現世へと帰ってくる。


ここに、迎え火の本質があると私は考える。

それは単なる「目印」ではない。死者の魂の奥底に眠る記憶を「再燃」させる行為なのだ。
植物の命を焼くことで、死者の命を一時的に「燃え上がらせる」。
麻という、彼らの人生に寄り添い続けた植物を犠牲にすることで、彼らの存在そのものを、一瞬だけこの世に呼び戻す。


迎え火とは、そういう儀式だったのだ。

だからこそ、現代の無臭・無煙の供養は、致命的に何かが欠けている。

私たちは、光だけを残して、匂いを捨てた。それは、死者との「共通言語」を捨てたことと同じである。
彼らの記憶を刺激する鍵を、私たちは自ら放棄してしまったのだ。


夏の夕暮れ、どこからともなく漂ってくる、かすかに焦げた匂い。

それは、誰かの家で焚かれた迎え火の残り香かもしれない。
あるいは、匂いを求めて彷徨う死者たちが、あなたのすぐ傍を通り過ぎていった証拠かもしれない。


もし、あなたの鼻が、今この瞬間、微かな焦げ臭さを感じ取ったなら。

それは、この文章を読んでいるあなたを見つけた「誰か」が、匂いの代わりに、あなたの意識を辿ってやってきた証拠かもしれない。
 
次章では、迎え火の「音」について考察する。
あのパチパチという爆ぜる音は、単なる物理現象ではない。
それは、死者が発する「声」であり、此岸と彼岸の境界が軋む「音」なのだ。


そして、その音の中に、あなた自身の名前を呼ぶ声が混じり始めたとき、あなたは既に、異界の周波数に同調してしまっているのである。

爆ぜる言葉――「音」に混じる死者の囁き

「パチパチ」という音の正体

 
炎が爆ぜる音を、私たちは「パチパチ」と表現する。

だが、実際に迎え火の傍らに座り、耳を澄ませてみれば分かる。
あの音は、決して均一な「パチパチ」ではない。
時に「パキ」と鋭く、時に「ポツ」と湿り気を帯び、時に「シュウ」と何かが抜けていくような音が混じる。


物理的に説明すれば、それは植物の繊維に含まれる水分や空気が、熱によって膨張し、細胞壁を破って飛び出す音である。
おがらの中空構造の中に閉じ込められていた空気が、炎に炙られて逃げ場を求め、管の端から勢いよく噴き出す。
その際に生じる破裂音が、あの「パチパチ」の正体だ。


科学的には、それだけの話である。

だが、民俗学的な視点から見れば、あの音には全く別の意味が付与されていた。

各地の伝承を紐解くと、迎え火の爆ぜる音は、単なる物理現象ではなく、死者が発する「声」あるいは「足音」として解釈されていたことが分かる。

「火がよう爆ぜる時は、ご先祖様が急いで帰ってきなさった証拠や」

これは、私が学生時代にフィールドワークで訪れた、ある山間部の集落で聞いた言葉である。
老婆は目を細めながら、燃え盛る迎え火を見つめていた。


「静かに燃える時は、ゆっくり歩いて来なさっとる。
でもな、バチバチ言う時は、走っとるんや。
一年ぶりに会えるのが嬉しうて、待ちきれんで走っとるんや」


その解釈は、温かく、微笑ましいものだった。

だが、彼女は続けてこうも言った。

「けどな、あんまり激しゅう爆ぜる時は、気をつけんといかん」

なぜですか、と私は尋ねた。

「急いどるのは、嬉しいからだけやない。
何かに追われとる時もある。
あっち側で、何か恐ろしいもんに追いかけられて、必死で逃げてきとる時も、火は激しゅう爆ぜるんや」


老婆の目は、もう笑っていなかった。

この話を聞いて以来、私は迎え火の音を、以前と同じようには聞けなくなった。

あの爆ぜる音は、帰ってくる先祖の足音なのか。
それとも、何かから逃げてくる足音なのか。
あるいは、先祖に紛れて、招かれざる「何か」が駆け込んでくる足音なのか。


静かな夏の夜、迎え火の傍らに座っていると、時折、不自然なリズムで爆ぜる音がある。

パチ、パチ、パチ、と規則正しく続いていた音が、突然、パチパチパチパチと急き込むように速くなる。
かと思えば、ぴたりと止まり、長い沈黙の後に、ポツリと一つだけ音がする。


 
それは、まるで何かが「話している」かのようなリズムなのだ。

聴覚のパレイドリア――音の中に意味を聴く

 
人間の脳には、無秩序な刺激の中からパターンを見出そうとする性質がある。

雲の形に人の顔を見たり、壁のシミに動物の姿を見たりする現象を「パレイドリア」と呼ぶ。
これは視覚に限った話ではない。
聴覚にも、同様の現象が起きる。


雑踏の中に自分の名前を聞いたり、風の音に誰かの囁きを聞いたり。
聴覚のパレイドリアは、視覚以上に頻繁に、そして強烈に起きることがある。


迎え火の爆ぜる音の中に、意味のある言葉を聴いてしまう。

これは、決して珍しい体験ではない。
お盆の時期になると、インターネット上には「迎え火の音に名前を呼ばれた気がした」という体験談が散見される。
科学的に言えば、それは聴覚のパレイドリアに過ぎない。
脳が、無秩序な破裂音の中に、聞き慣れたパターン(自分の名前)を勝手に見出してしまっただけだ。


だが、民俗学的な文脈においては、それは全く異なる意味を持つ。

 
「迎え火の音に名前を呼ばれたら、絶対に返事をしてはいけない」

 
これは、各地に広く分布する禁忌である。
なぜ返事をしてはいけないのか。
その理由は地域によって異なるが、最も多いのは「返事をすると、あちら側に連れて行かれる」というものだ。


 
炎の音の中に名前を聴くということは、死者があなたを「認識した」ということである。
彼らは、生者の世界に帰ってきた興奮の中で、懐かしい家族の名前を呼んでいる。
あるいは、まだ生きている者の名前を呼ぶことで、自分たちの世界との繋がりを確認しようとしている。


そこで返事をしてしまえば、繋がりは「成立」してしまう。

あなたの声は、炎の煙に乗って、彼岸へと届く。
死者たちは、あなたが応答したことを知る。
そして彼らは、あなたを「こちら側」に引き込もうとするかもしれない。
なぜなら、彼らは寂しいのだから。
一年のほとんどを暗い世界で過ごし、ようやく家族の声を聞けたのだから。
その声の主を、手放したくないと思うのは、当然のことではないか。


お盆の夜、迎え火の傍らで耳を澄ますという行為は、だから、本質的に危険なものなのだ。

あなたは、異界の周波数に、自らの意思で同調しようとしている。
死者の声を聴こうと、耳を傾けている。
その行為自体が、境界を薄くし、あちら側との接続を強化してしまう。


炎を囲んでの「沈黙」が、死者との対話を成立させる。

言葉を発さずとも、耳を澄ませるだけで、対話は始まっている。
あなたが聴こうとすればするほど、死者の声は明瞭になっていく。
最初はただの破裂音だったものが、やがて囁きに聞こえ始める。
囁きは、やがて明確な言葉になる。


 
「……おかえり」

 
そう聞こえた瞬間、あなたは既に、境界の向こう側に片足を踏み入れているのかもしれない。

音による「浄化」と「境界」

 
爆ぜる音には、もう一つの霊的な機能がある。

「魔除け」としての機能だ。

世界中の文化において、大きな音は邪悪なものを追い払う力を持つと信じられてきた。中国の爆竹、日本の柏手、教会の鐘の音。
破裂音や打撃音は、不浄なものを弾き飛ばし、清浄な空間を作り出す。

迎え火の爆ぜる音も、同様の機能を担っていた。

あのパチパチという音は、帰ってくる先祖の「足音」であると同時に、先祖以外のものを「弾き飛ばす」フィルターでもあったのだ。
お盆の時期、彼岸と此岸の境界は薄くなる。
先祖だけでなく、様々な霊的存在が、この世に紛れ込もうとする。
迎え火の音は、そうした「招かれざる客」を門前で追い払い、正当な資格を持つ先祖だけを通す役割を果たしていた。


だが、その音が、ある種の変質を遂げる時がある。

「パチパチ」という乾いた破裂音ではなく、何か別の音に聞こえ始める時が。

ある地方に、こんな伝承がある。

ある家で、お盆の送り火を焚いていた時のことだ。
その家は、長年にわたる親族間の不和を抱えていた。
相続を巡る争い、古い確執、口に出されることのない怨念。
家族は形式的には集まっていたが、誰の目にも、そこに和やかな空気がないことは明らかだった。


送り火に火が点けられた。

最初は、普通に燃えていた。
おがらと藁が炎に包まれ、パチパチと音を立てていた。
だが、火が盛りを迎えた頃、異変が起きた。


音が、変わったのだ。

パチパチという乾いた音ではなく、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」という、まるで老人が喉の奥で笑っているような音が、炎の中から聞こえ始めた。

家族は凍りついた。

誰も、何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、その異様な笑い声のような音が、火が消えるまで続くのを、呆然と聞いているしかなかった。


そして、火が消えた後も、その笑い声は止まなかった。

玄関の辺りで、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」という音が、微かに、だが確かに、響き続けていたという。

その家は、ほどなくして絶えた。

詳細は伝わっていない。
ただ、「絶えた」という言葉だけが、伝承の中に残っている。
後継者がいなくなったのか、何か凄惨な出来事があったのか。
それすらも、今となっては分からない。


この話が示唆しているのは、迎え火の音が「変質」することの恐ろしさである。

本来、あの音は先祖を迎え、邪なものを弾く「守り」の音であるはずだった。
だが、家の中に不和があり、穢れがあれば、その音は別のものに変わってしまう。
先祖を迎える音ではなく、何か別のものを招く音に。
浄化の音ではなく、呪いの音に。


あなたが次に迎え火を焚く時、その音に耳を澄ませてほしい。

パチパチという、乾いた、温かい音が聞こえるだろうか。
それとも、何か別の音が混じっているだろうか。
笑い声が。
すすり泣きが。
あるいは、低い呻きが。


 
そして、最も恐ろしいのは、音が「止まる」瞬間である。

火はまだ燃えている。おがらはまだ炎に包まれている。
なのに、音だけが、ふっと止まる。


その静寂は、死者が「入室」した瞬間を示している。

彼らは既に、あなたの傍に立っている。
足音を立てる必要は、もうないのだから。

絶対に「焼いてはならないもの」――禁忌の煙

竹を焼く禁忌――爆発する「怒り」

 
お盆の火に、決して入れてはならないものがある。

その筆頭が「竹」である。

「竹を盆の火に入れるな」

この戒めは、日本各地に広く分布している。
理由を尋ねれば、多くの土地で二つの説明が返ってくる。
一つは物理的な理由、もう一つは霊的な理由だ。


物理的な理由は明快である。
竹は中空構造を持ち、節によって内部が区切られている。
火にくべると、節で閉じ込められた空気が急激に膨張し、竹は激しく爆発する。
その破片は鋭く、周囲に飛び散り、火の傍にいる人間を傷つける危険がある。


だが、霊的な理由は、それよりも遥かに深刻なものとして語られる。

竹の爆発音は、帰ってきた先祖を「驚かせる」のだという。

一年ぶりに、ようやく家族の元へ帰ってきた先祖たち。
懐かしい煙の匂いを辿り、迎え火の温かさを求めてやってきた彼らの耳に、突然、凄まじい爆発音が轟く。


先祖たちは驚き、怒る。

「なぜ、私たちを驚かせるのか」
「なぜ、私たちを歓迎しないのか」


その怒りは、祟りとなって家に降りかかる。
不作、病気、不和、事故。
竹を燃やした家には、一年以内に何らかの災厄が訪れるという伝承は、驚くほど多くの地域で共有されている。


興味深いのは、この禁忌が「意図」を問わないことである。

うっかり竹を混ぜてしまった場合でも、祟りは同様に降りかかるとされる。
先祖たちは、子孫の「不注意」を許さない。
あるいは、不注意そのものが、先祖への敬意の欠如として解釈されるのかもしれない。


 
「お前たちは、私たちのことをきちんと考えていない。
だから、竹を混ぜるような失態を犯すのだ」


 
先祖の怒りとは、要するに「軽んじられた」ことへの怒りなのだ。

この文脈で考えると、現代の迎え火における「最大の禁忌」が浮かび上がってくる。

プラスチックである。

ビニール袋、発泡スチロール、合成繊維。
これらを迎え火に混ぜて燃やすことは、竹を燃やすこと以上の侮辱になるという説がある。


なぜか。

プラスチックが燃えると、黒く、不快な匂いの煙が立ち昇る。
その煙は、先祖たちの「食事」を汚染する。
香食の概念に従えば、死者が摂取できるのは香りだけだ。
その香りが、化学物質の刺激臭に汚されてしまえば、先祖たちは文字通り「毒を食わされた」ことになる。


 
ある都市部に住む家族の話がある。

息子は都会で働いており、お盆の時期にだけ実家に帰省していた。
その年も、形ばかりの帰省をして、形ばかりの盆の行事をこなそうとしていた。


送り火を焚く段になって、息子は面倒になった。

納屋に置いてあった藁の束は、ビニール紐で縛られていた。
本来なら、紐を解いて藁だけを燃やすべきだった。
だが、息子はそのまま、ビニール紐ごと火にくべた。


「どうせ燃えるだろう」

そう思ったのだ。

藁は勢いよく燃え上がった。
だが、その煙は、通常の送り火の煙とは全く異なっていた。
黒く、どろりとした煙が、低く這うように立ち昇った。
そして、むせ返るような、喉を刺す化学物質の臭いが、庭中に充満した。


 
その夜から、家族全員の喉が、何かに締め付けられるように苦しくなった。

医者に行っても、原因は分からなかった。
検査をしても、異常は見つからなかった。
だが、確かに、喉の奥に何かがある感覚が消えなかった。
息を吸うたびに、何か細い紐のようなものが、気管に巻き付いているような感覚が。


祖母は、泣きながらこう言ったという。

「先祖が、煙で首を絞められているんだよ」

ビニール紐の煙を吸わされた先祖たちが、同じ苦しみを、生きている家族に返しているのだと。

この話が事実かどうかは、確かめようがない。
だが、この話が伝えようとしている教訓は明確である。

先祖への供養を「面倒くさい」と思った瞬間、あなたは既に禁忌を犯している。

行為の問題ではない。
心の問題なのだ。
先祖を軽んじる心が、禁忌の行為を引き起こし、禁忌の行為が、祟りを招く。

竹を燃やすな、プラスチックを混ぜるなという戒めは、要するに「先祖を軽んじるな」という戒めの、具体的な表れに過ぎない。

杉と松の使い分け――「導く火」と「払う火」

 
迎え火の燃料として「正しい」とされるものは、地域によって厳格に定められている。

麻(おがら)と藁が最も一般的だが、特定の地域では、杉や松が用いられることもある。
あるいは逆に、「杉は絶対に使ってはならない」とされる地域もある。


この違いは、どこから来るのか。

一つの説として、樹木の「油分」に関する解釈がある。

松や杉は、油分を多く含む樹木である。
燃やすと、黒い煙が大量に発生する。
この黒煙が、霊的な意味においてどう解釈されるかが、地域によって異なるのだ。


ある地域では、黒煙は「穢れを払う」ものとされる。
濃い煙が空に立ち昇ることで、周囲の邪気を追い払い、清浄な空間を作り出す。
この解釈に従えば、松や杉は迎え火に適した燃料ということになる。

だが、別の地域では、黒煙は「死者の視界を遮る」ものとされる。

帰ってくる先祖たちは、煙を「目印」として辿ってくる。
その煙が黒く濁っていれば、先祖たちは道を見失う。
白く清らかな煙でなければ、彼らは家に辿り着けない。
この解釈に従えば、油分の多い木を燃やすことは禁忌となる。


さらに複雑なことに、「迎え火」と「送り火」で使い分けをする地域もある。

迎え火には、白い煙が出る燃料を使う。
先祖が迷わず帰ってこられるように。
送り火には、黒い煙が出る燃料を使う。
先祖があの世に戻った後、余計なものが此岸に残らないように。


この使い分けの背景には、「導く火」と「払う火」という、二つの火の機能への認識がある。

迎え火は「導く火」だ。
先祖を此岸に導き、家に迎え入れる。
この火は、温かく、優しく、明るくなければならない。


送り火は「払う火」だ。
先祖をあの世に送り届けると同時に、お盆の期間中に紛れ込んだかもしれない「余計なもの」を払い清める。
この火は、激しく、力強く、徹底的でなければならない。


どの燃料が「正しい」かは、その家、その地域が、数百年にわたって積み重ねてきた経験と信仰によって決定される。

そして、その「正しさ」を破った時、何が起きるのか。

各地の伝承には、「間違った燃料」を使ったために起きた災厄の記録が、驚くほど多く残されている。
先祖が帰ってこなかった年。
先祖の代わりに、見知らぬ何かが入り込んだ年。
送り火で払いきれなかった「何か」が、家に居座り続けた年。


それらの記録は、単なる迷信として片付けられるには、あまりに具体的で、あまりに凄惨なのだ。

「他人の家の藁」を燃やす恐怖

 
迎え火の燃料には、もう一つ、奇妙な禁忌がある。

「自分の家の藁でなければ、自分の家の先祖は帰ってこない」

これは、燃料の「出自」に関する禁忌である。

農村部において、藁は貴重な資源であった。
だが、時に、自分の家の藁が足りなくなることもあった。
そんな時、隣家から藁を借りて迎え火を焚くことは、許されるのか。


答えは、多くの地域で「否」である。

借り物の藁から立ち昇る煙は、借り主の先祖ではなく、藁の「持ち主」の先祖を呼び寄せてしまう。藁には、それを育てた土地の「気」が宿っている。
その気を辿って、先祖たちは帰ってくる。
だから、他人の家の藁を燃やせば、他人の家の先祖が、間違えてあなたの家に来てしまう。


想像してみてほしい。

あなたは、自分の家族の帰りを待っている。
迎え火を焚き、煙を立ち昇らせ、門の前で待っている。
やがて、煙の向こうから、足音が近づいてくる。
あなたは嬉しくなって、声をかけようとする。


だが、現れたのは、見知らぬ顔だった。

見知らぬ老人。
見知らぬ子供。
見知らぬ女。
彼らは、あなたの家の煙を辿って、迷い込んできたのだ。
そして、彼らは帰らない。
なぜなら、彼らにとって、ここは「正しい場所」だからだ。
藁の匂いが、彼らをここに導いたのだから。


これを「迷い子」と呼ぶ地域がある。

本来帰るべき家ではない家に、間違って辿り着いてしまった死者たち。
彼らは混乱している。
ここは自分の家のはずなのに、見知らぬ人間がいる。
自分の子孫のはずなのに、自分を認識してくれない。


その混乱は、やがて怒りに変わる。

「迷い子」が家に居座ると、その家には不和が生じるという。
家族の間に、理由のない苛立ちが広がる。
誰かが誰かを、理由もなく嫌いになる。
言い争いが増え、沈黙が増え、やがて家族は崩壊する。


それは、「迷い子」たちの混乱と怒りが、生きている家族に感染しているのだ、という説がある。

だから、藁は必ず自分の家のものを使わなければならない。
借り物の火は、家庭の和を乱す。他人の煙は、他人の死者を招く。


この禁忌は、現代においては、ほとんど意味を失っているように見える。

都市部では、藁を自家栽培している家などほとんどない。
迎え火用のおがらは、スーパーマーケットや仏具店で購入するものだ。
それは「誰の」藁でも麻でもない、匿名の、商品としての燃料である。


だが、考えてみてほしい。

その匿名の燃料から立ち昇る煙を、「誰の」先祖が辿ってくるのか。

あなたの先祖は、その煙を認識できるだろうか。
何の縁もない土地で、何の縁もない人間の手で育てられた植物の煙を、あなたの先祖は「自分を呼ぶ煙」として認識できるだろうか。


あるいは、その煙を辿って、全く別の「誰か」が、あなたの家にやってくるのではないか。

現代の都市生活者は、もしかすると、毎年のお盆に、無数の「迷い子」を家に招き入れているのかもしれない。
匿名の煙に誘われた、見知らぬ死者たちを。
どこの誰とも分からない、無縁の霊たちを。

彼らは、あなたの家の隅に、ひっそりと座り込んでいる。
あなたの家族の会話に、聞き耳を立てている。
そして、一年に一度のお盆が終わっても、帰る場所が分からないまま、あなたの家に居座り続けている。


あなたの家に、時折、妙な気配を感じることはないだろうか。

誰もいないはずの部屋から、かすかな物音がすることは。
振り返ると、一瞬だけ、視界の端に何かが映ることは。


それは、あなたが「招いた」誰かなのかもしれない。

 
匿名の煙を辿って、あなたの家に迷い込んだ、見知らぬ死者なのかもしれない。

失われた「感覚の供養」と、これからの闇

LEDと無煙の喪失――鼻と耳を失った現代人

 
ここまで読み進めたあなたは、現代の迎え火が、いかに本質的なものを失っているかを、理解し始めているかもしれない。

LED迎え火。
電子線香。
無煙ロウソク。


これらの「便利な」代用品は、確かに、近隣への配慮という点では優れている。
煙も出ない、匂いもしない、火災の危険もない。
マンションの規約にも、消防法にも違反しない。
完璧に「現代的」な供養の道具だ。


だが、それらには、最も本質的なものが欠けている。

煙がない。
匂いがない。
音がない。


死者は、何を頼りに帰ってくればいいのか。

香食の概念に従えば、死者は匂いを「食べる」ことで現世との接点を持つ。
その匂いがなければ、彼らは「飢えた」まま、門の前に立ち尽くすしかない。
あるいは、匂いを辿れないまま、見当違いの場所を彷徨うしかない。


爆ぜる音は、先祖が帰ってくる「足音」であり、邪悪なものを払う「魔除け」でもあった。
その音がなければ、先祖は「声なき帰還」を強いられ、家族は彼らが帰ってきたことに気づくことすらできない。
そして、音のフィルターがなければ、先祖と一緒に、招かれざる者たちが紛れ込む危険性が高まる。


私たちは、「便利さ」と「清潔さ」と引き換えに、死者との対話のための「言語」を捨ててしまったのだ。

視覚だけは残した。
光るものを置いておけば、見えるはずだと。


だが、それは、人間の側の論理である。
生きている私たちには、光は見える。
だから、死者にも見えるはずだと思い込んでいる。


死者の「目」が、生者と同じように機能すると、どうして言えるのか。

彼らの世界は、私たちの世界とは異なる法則で動いているかもしれない。
彼らにとっての「光」は、私たちの光とは違うかもしれない。
彼らが認識できるのは、もしかすると、煙と匂いと音だけなのかもしれない。


もしそうだとすれば、現代の都市生活者は、死者にとって「見えない」存在になってしまっている。

LEDの光は、彼らの目には映らない。
無臭の住宅は、彼らの鼻には感知できない。
沈黙の部屋は、彼らの耳には届かない。


私たちは、自ら進んで、死者たちから「隠れて」しまったのだ。

その結果、何が起きているか。

現代の都市には、行き場を失った死者たちが彷徨っている。
私はそう考えることがある。


彼らは、かつての家を探している。
かつての家族を探している。
だが、どこにもない。
煙も匂いも音もない、無機質な街並みの中で、彼らは途方に暮れている。


時折、彼らは、「開いている」場所を見つける。

古い習慣を守り、今でも本物の迎え火を焚いている家。
あるいは、何らかの理由で、霊的な「穴」が開いている場所。
彼らはそこに殺到する。
一筋の煙、一欠片の匂いを求めて。


そうした場所が、「出る」と言われるようになる。

その家には先祖だけでなく、無数の「迷い子」が集まってくる。
彼らは飢えている。
何十年も、何百年も、誰にも供養されていない。
一筋の煙を見つけた彼らは、もう離れようとしない。


 
現代の「心霊スポット」と呼ばれる場所の何割かは、こうして生まれたのではないかと、私は密かに考えている。

嗅覚の記憶は「消えない」

 
希望がないわけではない。

嗅覚と記憶の結びつきについて、前章で触れた。
匂いは、五感の中で最も強烈に、最も直接的に、記憶を呼び覚ます。


この原理は、死者だけでなく、生者にも当てはまる。

数十年前に嗅いだ迎え火の匂いは、あなたの脳の奥深くに刻み込まれている。
その匂いを再び嗅いだ瞬間、当時の情景が、感情が、一気に蘇る。あなたは、祖父母の家の庭に立っている。
隣には、もうこの世にいない誰かがいる。
夕暮れの空に、白い煙が立ち昇っている。


その記憶は、消えない。

どれほど時間が経っても、どれほど都会の生活に染まっても、あの匂いを嗅げば、あなたは「あの頃」に戻れる。

逆に言えば、匂いを絶やしたことは、未来の世代から、この「共通言語」を奪うことを意味する。
今の子供たちは、迎え火の匂いを知らない。
彼らの脳には、あの匂いと結びついた記憶が刻まれることがない。
彼らが大人になり、老人になり、やがて死者の側に回った時、彼らは何を頼りに帰ってくればいいのか。


彼らには、「帰る」ための目印がないのだ。

現世の側には、彼らを呼ぶ匂いがない。
彼ら自身の中にも、その匂いを認識する記憶がない。
彼らは、完全に「帰る道」を見失った世代になる。


このまま数世代が経過すれば、日本人は、先祖との「共通言語」を完全に失うことになる。

私たちと死者たちを繋いでいた、何千年もの歴史を持つ細い糸が、ここで断ち切られようとしている。
それでいいのか、と私は問いたい。

便利さと引き換えに、私たちは何を失おうとしているのか。
清潔さと引き換えに、私たちは誰を見捨てようとしているのか。


再び火を灯すことでしか、私たちは「本当の再会」を果たせない。

一年に一度、ほんの数分間でいい。
本物の火を焚き、本物の煙を立て、本物の匂いを空に放つ。
その行為だけが、死者との回路を開き、彼らを現世に呼び戻し、私たちに「再会」をもたらす。


難しいことではない。
ただ、火を焚けばいいのだ。
あの、青臭くも香ばしい匂いを、もう一度、空に放てばいいのだ。


その時、あなたの鼻は、死者の世界と繋がる。
あなたの耳は、彼らの足音を聴く。
あなたの肌は、彼らの気配を感じ取る。


 
そして、彼らは帰ってくる。

本当に、帰ってくるのだ。

今、あなたの鼻をくすぐるものは何か?

 
ここまで読んでいただいた。

麻の茎の中空が持つ霊的な意味を。
煙の匂いが死者にとっての「食事」であることを。
爆ぜる音が先祖の「足音」であり、同時に魔除けでもあることを。
そして、決して燃やしてはならないものの禁忌と、その禁忌を破った時に訪れる災厄を。


この記事を読み終えた今、あなたの周囲の空気に、何か変化はないだろうか。

ふと、鼻をくすぐる匂いはないだろうか。

どこからか漂ってくる、かすかな焦げ臭さ。
青臭くも香ばしい、懐かしいような、不穏なような、あの独特の匂い。


それは、あなたの先祖かもしれない。

この文章を読んでいるあなたの意識を辿って、煙の代わりに、言葉を手がかりにして、あなたのすぐ傍までやってきた先祖かもしれない。

あるいは、先祖ではないかもしれない。

匂いに誘われた「誰か」。
言葉に引き寄せられた「何か」。
招かれざる客が、この文章を「開いた門」として、あなたの世界に入り込んできたのかもしれない。


 
窓の外を見てほしい。

何も変わっていないはずだ。
いつもと同じ景色、いつもと同じ空気、いつもと同じ静寂。
だが、その「同じ」の中に、何かが紛れ込んでいないだろうか。
視界の端に、かすかに揺れる影はないだろうか。


 
次にあなたが火を焚く機会があれば、そのとき、音をよく聴いてほしい。

パチ、パチ、と爆ぜる音。
その音の合間に、何かが混じっていないか。あなたの名を呼ぶ声が、囁きが、笑い声が。


聴こえてしまったなら、決して返事をしてはいけない。

聴こえなかったなら、それはそれで、少し寂しいことかもしれない。

 
あなたの先祖は、まだ帰る道を見つけられずにいるのだから。